第3話 幼馴染の距離は、近すぎて難しい
人間には、知らない方が幸せなことがあるらしい。
誰が言い始めたのかは知らないが、なかなか奥の深い言葉だと思う。ただし、俺には少々理解しがたいところもある。知らなければ幸せかどうか判断することすらできないのだから、まず知ってから考えてみるべきではないだろうか。
もっとも、その理屈を昨夜の俺に聞かせたところで、素直に頷けたかどうかは怪しい。親友である宮川孝太から、幼馴染の七瀬明里と二人で話すつもりだという連絡をもらって以来、俺の頭の中では、ありとあらゆる可能性が行列を作っていたからだ。
(幼馴染との二人きりの話し合い! 昨日の相談から、早くも自分で行動すると決めたわけだ。素晴らしいじゃないか、孝太! いや、でも待て。朝倉さんとはどうするんだ? 本人には話してあるらしいが、あの慎重な彼女が何も考えていないはずがない。ああ、全部知りたい!)
……そう。結局、俺は知りたいのである。
しかし、今回は事情が違った。孝太は俺を信用して相談してくれた。その結果、今日、自分の言葉で明里と向き合うことを決めたのだ。そんな親友の後ろをこそこそ追いかけたと知られれば、いくら俺でも弁解に困る。
だから俺は決意した。今日は二人の話し合いを追わない。決して追わない。気になるからといって、体育館裏の用具倉庫に上がったり、隠れられる植え込みを探したりもしない。
「遥輝様。先ほどから、バターを塗ったパンを一口も召し上がっていませんよ」
「……おや? これは失礼。少し人生について考えていてね」
「人生というより、昨日お話しされていたご友人の恋愛について、ではございませんか?」
朝の食卓で向かい側に立つ紗月が、呆れたように微笑んだ。彼女はいつもどおり黒と白のメイド服を身につけ、食卓に運んだ果物の皿を整えている。窓から差し込む朝日は柔らかく、庭木の葉が風に揺れる様子まで、食事を楽しむには申し分ない朝だった。
「さすがだね、紗月。俺の顔には、そこまで分かりやすく書いてあるのかな?」
「お顔というより、昨日から同じ話題を何度も口になさっていますから。それに、今朝は普段より早く起きていらっしゃったでしょう。よほど楽しみなのだと思いました」
「ううむ。確かに楽しみではあるんだけど、今日は見に行かないと決めたんだ。孝太が自分で向き合うと決めたんだから、俺もそれを尊重しようと思ってね」
紗月は少し意外そうに目を見開いた。その反応には俺も一言言いたくなったが、彼女はすぐに表情を和らげ、湯気の立つ紅茶を俺の手元に置いた。
「それはよろしいことですね。では、浮いた時間で生徒会のお仕事も進められそうです」
「……紗月まで昴と同じことを言うのかい?」
「お二人とも、遥輝様のお仕事が滞りなく進むことを願っておりますから」
「愛情の方向がずいぶん現実的だなあ。もう少し、俺の心の葛藤に寄り添ってくれてもいいんだよ?」
「もちろんです。ですから、まずは温かいうちに朝食を召し上がってください。空腹では、良い判断も難しくなりますので」
見事に話を戻されてしまった。けれど、差し出された皿には俺の好きな焼き加減の卵が載っており、パンもまだ温かい。俺は苦笑しながら食事を再開した。
紗月は俺と同じ高校生だ。東條家で俺の生活を支える仕事をしているが、学園ではごく普通の女子生徒として過ごしている。その二つの顔を使い分けることについて、彼女は俺よりずっと慎重だった。
朝の支度を終えた彼女は、自分の登校時間に合わせて制服へ着替える。屋敷を出る時間も通学の道筋も俺とは少しずらしているから、学校で親しく挨拶を交わすことがあっても、同じ家から来たと考える生徒はいない。俺たちの事情を知っている昴を除けば、生徒会の仲間たちも紗月との関係を知らなかった。
「そういえば、写真部の展示準備は順調かい?」
「はい。昨日、台紙の大きさが決まりましたので、今日は放課後に作品の配置を考える予定です。千景さんが、遠くから見たときの並びも確認したいとおっしゃっていました」
「水野さんだったね。なるほど、写真そのものだけじゃなく、見せ方も大切なわけか」
「そうですね。写真を撮るのとは、また違う難しさがあって面白いです」
自分の活動について話すとき、紗月の声はほんの少し弾む。その変化が嬉しくて、俺は思わず笑った。彼女には彼女の好きなことがあり、俺には俺の好きなことがある。趣味の種類は違っても、夢中になれるものを持つ喜びはきっと同じなのだろう。
「展示が始まるのが楽しみだね。何か必要なことがあったら、写真部の一員として遠慮なく生徒会へ相談してほしい。俺が特別扱いすることはできないけど、ちゃんと話は聞くから」
「ありがとうございます、東條会長」
紗月はわざと学校での呼び名を使い、いたずらっぽく笑った。俺も「どういたしまして、相沢さん」と返すと、彼女は声を立てずに笑い、食卓の上の空いた皿を片付け始めた。
さて。こうして穏やかに始まった一日が、そのまま穏やかに終わるかどうかは、また別の問題だった。
◇
私立立川学園の朝は、いつだって賑やかだ。校門をくぐれば、部活動の朝練を終えた生徒たちが教室へ向かい、昇降口では昨日の課題や週末の予定について話す声が交わされている。いつもの景色の中に、今日は妙な緊張が混じっている気がした。
……いや、正直に言おう。緊張しているのは俺だけだ。
「おはよう、遥輝。今日は早いね」
「おはよう、孝太。君も相変わらず真面目だね。朝から予習とは感心するよ」
教室に入ると、孝太がノートを開いていた。いつもどおりの柔らかい笑顔を浮かべているが、手元のページはほとんど進んでいない。話しかける前から、彼の考えが別のところにあるのは何となく分かった。
「昨日のメッセージ、ありがとう。今日はちゃんと話してみるつもりなんだ」
「うん。君が決めたことなら、それがいい。無理に格好をつけなくても、明里は君のことをよく知っているんじゃないかな」
「そうだといいんだけど……幼馴染だからこそ、言いにくいこともあるんだよね」
孝太は困ったように笑った。俺は一瞬、その言葉の続きを知りたくなったが、すぐに口を閉じる。ここで根掘り葉掘り聞けば、昨日自分で決めたことを忘れたも同然だからだ。
「話し終えたら、またいつでも相談してくれ。もちろん、二人だけで大切にしたいことは、俺にまで話さなくていいからね」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になるよ」
孝太は素直に頷き、ようやくノートへ目を戻した。そこで朝倉さんが教室へ入ってくる。彼女は友人と挨拶を交わしてから、孝太の席の方へ視線を向け、小さく頭を下げた。
「おはよう、宮川君。今日の件、昨日聞かせてくれてありがとう」
「ううん。こちらこそ、ちゃんと伝えておきたくて。……朝倉さんとも、また話せたら嬉しい」
「うん。私も、話したいことがあるから。今日は七瀬さんと、落ち着いて話してきてね」
朝倉さんは無理に明るく振る舞うでもなく、かといって自分だけが取り残されたような態度も見せなかった。いつもと変わらない静かな口調のまま、孝太へ気持ちを伝えて自分の席へ戻っていく。
(ふむ。朝倉さんは分かったうえで待つと決めたんだな。あれだけの勇気を出して告白したんだ、気にならないはずはないだろうに)
感心していると、今度は明里が入ってきた。彼女は教室の入口で一度足を止め、孝太を見つけてから大きく息を吸った。それから普段どおりの明るい調子で手を振る。
「おはよう、孝太! 今日は帰り、忘れないでよね」
「う、うん。大丈夫。ちゃんと覚えてる」
「ならよし! ……あ、東條もおはよう。あんた、昨日はありがとね」
「おはよう、七瀬さん。こちらこそ、話してくれてありがとう」
明里は少し照れくさそうに笑い、自分の席へ向かった。いつもなら孝太の机に鞄を置いて何か話し始めるところだが、今日はそれをしない。距離を置いたというより、お互いの緊張をこれ以上増やさないようにしているのだろう。
(ああ、なんて面白い変化なんだ。これまで毎日のように見ていた光景なのに、ほんの一つの約束があるだけで、こんなにも印象が変わるとは!)
「……遥輝。顔がにやけていますよ」
背後から昴の声がした。俺は慌てて表情を引き締め、何事もなかったように教科書を取り出す。昴はそれを見て、露骨に疑わしそうな目を向けてきた。
「昨日、自分からは追いかけないとおっしゃっていましたよね?」
「もちろん。今日の俺は、友人たちが普通に学校生活を送る姿を見ているだけさ。行動の自由を妨げるつもりはないし、放課後も後を追わない」
「それなら結構です。……その言葉、夕方まで覚えていてくださいね」
「君も心配性だなあ。そこまで信用がないと、さすがに少し悲しいよ」
「信用というものは、日々の積み重ねで得られるのです」
返す言葉がない。何しろ、これまで仕事を抜け出してきた回数を数えれば、昴の心配が根拠のないものではないと分かってしまう。俺は潔く話題を変え、今日の生徒会の仕事について尋ねることにした。
「それで、昨日の展示関係の申請はどうなったんだい? 写真部の分も入っていたと思うけど」
「今朝、担当教員から返答が届きました。掲示場所の一部について、通行の邪魔にならないよう配置を調整する必要があります。昼休みに写真部の代表へ確認する予定です」
「なるほど。それなら、俺も一度現場を見ておこうかな。寸法が分かれば、何を動かせるか判断しやすい」
昴は少しだけ目を細めた。どうやら俺が写真部に興味を示した理由まで考えているらしい。しかし、それ以上何も言わず、必要な資料を渡してくれた。
◇
昼休み。展示予定の廊下には、まだ何も飾られていなかった。
校舎の二階から特別教室へ続く通路で、窓際には掲示板が二つ並んでいる。廊下の幅は十分にあるように見えるものの、人が行き交う時間帯には意外と混み合う場所だった。特に昼休みは図書室や購買へ向かう生徒が増えるため、立ち止まって作品を見る人が重なると通りづらくなる可能性がある。
「なるほど。ここに追加の展示台を置くのは難しいね。壁面を使うなら通路の幅は確保できるけど、掲示板の固定方法も確かめたい」
「はい。先生からも、床に物を置かない方向で考えるよう指示がありました」
隣に立つ昴が書類を確認した。未来は必要な備品の費用を計算し、心美は写真部の担当者と展示日程を相談している。俺たちがこうして四人で動くのは珍しいことではない。全員が同じ作業をするより、それぞれ得意なことを任せた方が早いからだ。
「会長、この位置なら壁に展示できそうです! ただ、写真部の作品は枚数が多いみたいなので、全部並べると少し窮屈になるかもしれません」
心美が指差した先では、写真部の生徒二人が大きな紙を広げていた。そのうちの一人が水野千景で、もう一人が紗月だ。二人とも制服姿で、展示場所の高さを確かめながら真剣に話している。
「ありがとうございます、立花さん。実は、私たちも配置を少し変えた方がいいと思っていたんです。写真を減らすより、作品の大きさを揃えて間隔を調整できないか、今考えていて」
千景が明るく説明した。紗月も頷き、持っていた配置図を俺たちへ見せる。学校での彼女はいつもどおり、俺と特別に親しい様子を見せない。
「東條会長、こちらが今朝まとめた案です。壁面に収める形にした場合、展示台を使わずに済むと思います。ただ、作品の間隔は少し狭くなりますので、見づらくならないか確認したいんです」
「見せてもらうよ、相沢さん。……うん、なるほど。作品の数を無理に減らす必要はないと思う。ただ、窓に近い方は光が反射するかもしれないね。実際に仮の紙を貼って、見え方を試してみるのはどうだろう」
「それ、いいですね! 今日の放課後に準備できそうです」
千景が嬉しそうに声を上げた。未来は必要な道具の在庫を調べ、心美は先生への確認事項を書き留める。昴が安全面の条件を整理し始めると、短い打ち合わせはあっという間に具体的な計画になった。
俺は紗月の手元にある紙へ目を落とした。角には細かな書き込みがあり、実際に廊下を歩く人の視線まで考えていることが分かる。昨夜、楽しそうに展示について話していた彼女が、こうして仲間と形にしている。その様子を見るのは、なかなか悪くない気分だった。
「相沢さん。この配置図、とても分かりやすいね。写真部の皆さんがどう見せたいのか、きちんと伝わってくる」
「ありがとうございます。水野さんと相談しながら作ったので、そう言っていただけて嬉しいです」
紗月は落ち着いた声で答え、千景へ視線を向けた。千景は照れたように笑い、「紗月が細かいところまで考えてくれたんです」と付け加える。俺は二人の協力を素直に褒め、その場でできる調整だけ決めて打ち合わせを終えた。
廊下を離れたあと、心美が小声で話しかけてきた。
「会長、相沢さんってすごくしっかりしてますよね。写真も上手だって聞くし、なんだか憧れちゃいます」
「そうだね。自分で考えて動ける人は、頼もしいと思うよ」
「ふふ、会長にそんなふうに褒めてもらえたら、相沢さんも嬉しいでしょうね」
「どうかな。彼女はきっと、褒め言葉だけより、展示がうまくいく方が嬉しいんじゃないかな」
心美は少し考えてから、「確かに!」と頷いた。昴が横で小さく咳払いをしたので顔を向けると、彼は何とも言えない表情で俺を見ている。
「……何だい、昴?」
「いいえ。あなたらしい答えだと思っただけです」
それは褒めているのか、呆れているのか。判断しかねたが、追及しても素直な答えは返ってこないだろう。俺は笑って歩き出し、次の確認事項へ意識を向けた。
午後の授業はいつもどおり進んだ。教師の説明を聞き、必要なところをノートへ書き込み、問いかけられれば答える。学業と生徒会の仕事を両立することは俺にとって難しくないが、今日はどうしても、放課後の孝太たちが頭の片隅に浮かんでくる。
(今頃どこで話すつもりなんだろう。昨日は中庭だったから、今日は帰り道かもしれない。いや、こういうときに場所を推測してどうするんだ。追いかけないと決めただろう、俺)
自分で自分に突っ込みを入れ、黒板へ視線を戻す。こんなことを何度も繰り返している時点で、俺の好奇心はかなり深刻だ。だが、それでも約束を守るくらいの自制心は持っていたい。
◇
放課後、孝太は明里と二人で校門を出た。
いつもなら部活動の生徒たちが残る時間だったが、二人はそのまま帰宅することにしていた。少し歩けば通学路の商店が並ぶ道へ出る。大勢の生徒が行き交う坂を下り、人通りが少なくなったところで、明里は隣を歩く孝太をちらりと見た。
「……なんか、変な感じだね」
「そうだね。こうして二人で帰るの、久しぶりだし」
「久しぶりっていうか、昔は毎日のように一緒だったのにね。高校に入ってからは、時間が合わなくなっちゃったし」
明里はそう答え、歩道に落ちた小さな葉を避けた。かつて何度も歩いた道なのに、今日は周りの景色が少し違って見える。隣にいる相手は変わらないはずなのに、何を話せばいいか分からない時間が続いた。
二人が小学生だった頃、近所に小さな文具店があった。店先には色とりどりの鉛筆や消しゴムが並び、学校帰りに新しいノートを眺めるだけで楽しかったものだ。中学生になる頃には店主が高齢になって閉店してしまったが、店のあった建物は今も残っている。
「そういえばさ、あそこの文具店、なくなってからもう結構経つよね」
明里が角の建物を指差した。孝太もそちらを見て、懐かしそうに笑う。
「うん。明里、昔あそこで同じ柄の消しゴムを何個も買ってなかった?」
「それ、孝太が『この柄、珍しいね』って言ったからでしょ! 別に好きで集めてたわけじゃ……いや、ちょっとは好きだったけど」
「僕、そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ! 覚えてないの? 水色で、猫の絵が描いてあるやつ。孝太が一つ落としてなくしたから、私が予備をあげたんじゃない」
孝太は記憶を辿るように眉を寄せ、それから「ああ!」と声を上げた。思い出したらしい。明里は呆れたように笑ったが、その目元には懐かしさが浮かんでいた。
「昔から、孝太ってそういうところあったよね。大切そうにしてるのに、たまにうっかり忘れちゃう。私が見つけてあげると、すごく嬉しそうな顔するんだから」
「……うん。明里には、ずいぶん助けてもらったと思う」
「なにそれ、急に改まって。昔の話でしょ」
明里は軽く笑い飛ばそうとした。しかし孝太が真剣な顔をしていることに気づき、言葉を止める。二人は閉店した文具店の前を通り過ぎ、少し先にある小さな公園の外側で足を緩めた。
「明里。昨日、僕、今までどおりでいたいって言ったよね」
「……うん。覚えてる」
「あのときは、二人のことを傷つけたくなくて、そんなふうに言ったんだと思う。でも、今日まで考えていて、僕自身も今までの関係が変わるのを怖がってたんだって分かった」
孝太は公園の柵に目を向けた。中では小学生くらいの子供たちが遊んでいて、楽しそうな声が遠くまで響いている。昔の自分たちも、あんなふうに何も考えず笑い合っていたのかもしれない。
「僕、明里がいつも近くにいてくれるのが当たり前だと思ってた。何か困ったら相談できるし、僕の家族のことも知ってるし、言わなくても分かってくれることが多いから。でも、それって明里がずっと僕のことを見てくれてたからなんだよね」
「……うん」
「昨日、明里が言ってくれたこと、ちゃんと考えた。僕が知らない友達と話してるのを見て寂しかったって聞いたとき、正直びっくりしたんだ。だって、明里だって友達がたくさんいて、毎日楽しそうにしてるから」
明里は小さく頷いた。自分でも上手く説明できなかった気持ちを、孝太が真剣に考えてくれたことが分かる。その事実だけで胸がいっぱいになりそうだったが、今は最後まで話を聞きたかった。
「だけど、明里にとって僕が大切なのと同じくらい、僕にとっても明里は大切なんだ。……その大切が恋なのかどうか、まだ分からない。でも、幼馴染だから当たり前って言葉で片付けたくないと思った」
孝太の声は少し震えていた。普段なら何気なく口にできる言葉でも、今は重さが違う。明里はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう。孝太がそう思ってくれてるなら、嬉しい」
「うん。でも、ごめん。今すぐ好きだって言えなくて」
「だから、謝らないでって言ってるでしょ。私が言ってほしいのは、気を遣った返事じゃないもん」
明里は少し強めに言い、それから照れくさそうに笑った。孝太もその声に安心したらしく、ようやく肩の力を抜いた。
「私ね。朝倉さんが孝太を好きだって知ったとき、すごく焦った。あの子、綺麗だし、勉強もできるし、性格だっていいじゃない。私と違って落ち着いてるし、孝太もきっと、一緒にいると安心するんだろうなって思ったの」
「朝倉さんは、確かに優しい人だよ。でも、明里だって……」
「うん、そこで私のいいところを並べようとしなくていいよ。比べてほしくて言ってるわけじゃないから」
明里は首を振った。孝太は言いかけた言葉を飲み込み、彼女の話に耳を傾ける。
「私、朝倉さんのこと、嫌いじゃないんだ。むしろ、ちゃんと話したら仲良くなれそうだと思う。だから余計に、先に告白されたのが悔しかったのかもしれない。相手が悪い子だったら怒る理由を見つけられたかもしれないけど、あの子が勇気を出したのも分かるから」
明里は一度言葉を止め、公園の奥を眺めた。ブランコが軋む音と、子供たちの笑い声が風に混じる。夕方の光は柔らかく、二人の影を足元から長く伸ばしていた。
「でも、好きだって気持ちは譲れない。孝太に選んでもらえるかどうかは分からないけど、最初から諦めるつもりもない。だから……私のこと、昔から知ってる明里じゃなくて、今の私としても見てほしい」
孝太は何度か瞬きをした。それから、まっすぐに頷く。
「……分かった。僕も、今の明里をもっと知りたい。昔のことを知ってるからって、今のことも全部分かってるつもりになるのはやめるよ」
「ふふ。そう言われると、ちょっと恥ずかしいね」
「僕もだよ。こんな話をするの、初めてだから」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。長い時間を一緒に過ごしてきたはずなのに、初めて知ることがある。それは少し寂しくもあり、同時に新しい何かが始まるようでもあった。
帰り道を再び歩き始める頃、明里の足取りは少し軽くなっていた。ただし、胸の奥にある不安が消えたわけではない。孝太がどんな答えを出すのか分からないし、明日になれば朝倉さんとも向き合うはずだ。
それでも、今日の会話は無駄ではなかった。今までの関係が変わるのは怖い。けれど、変わることを恐れて何も言えないままより、ずっとよかったと思う。
「ねえ、孝太。明日からも、普通に話しかけていい?」
「もちろん。僕も、普通に話したい。でも……何か嫌だと思ったら、ちゃんと言ってほしい。僕も言うようにするから」
「了解。じゃあ、遠慮なく言わせてもらう。まず一つ、今日ずっと緊張しすぎ! 私まで緊張するじゃない!」
「ええっ!? 明里だって、さっきから鞄の持ち手ばっかり触ってたよ!」
「そ、それは関係ないでしょ!」
思わずいつもの調子で言い返すと、孝太が声を上げて笑った。明里もつられて笑う。二人の距離は、昨日までとまったく同じではない。それでも、長い付き合いの中で育ててきた親しさまで消えたわけではなかった。
◇
その頃、俺は生徒会室で、人生最大級の忍耐力を試されていた。
いや、少し大げさかもしれない。けれど、親友が大切な話をしていると分かっていながら、その内容を知らずに机へ向かうというのは、想像以上に難しいことだった。
「……遥輝。今度は何を数えているんですか?」
「ん? いや、別に。時計の針が一周するまで、どのくらい集中できるものか試していただけさ」
「集中していれば、時計の針を数える必要はありませんよね」
昴は容赦ない。俺は苦笑し、手元の申請書へ視線を戻した。向かい側では未来が予算表を確認し、心美は新しい行事案内の文章をまとめている。二人とも仕事に集中しているため、余計な心配をかけるわけにはいかない。
「会長、ここの説明、ちょっと分かりにくくないですか? 参加申し込みが必要なのか、それとも自由に見られる展示なのか、読んだだけだと迷う人がいそうで」
心美が差し出したのは、写真部の展示を含む校内文化活動の案内文だった。俺は内容を読み、彼女の指摘に頷く。確かに、文章だけを見ると展示見学にも事前申し込みが必要なように読めてしまう。
「そうだね。『見学は自由、体験活動のみ申し込みが必要』と分けて書こう。あと、展示場所が分かる簡単な図も添えておくと親切かな。未来、印刷枚数が増えても予算は大丈夫?」
「片面印刷にこだわらなければ、今の予算内で収まります。裏面に図を載せる形なら問題ありません」
「よし。それなら、心美は文章の修正を。昴、図の最終確認をお願いできる? 俺は先生への提出文をまとめるよ」
指示を出すと、三人がすぐに動き始めた。こういう時間は気持ちがいい。誰か一人がすべてを抱え込むのではなく、それぞれの力を組み合わせて物事が前へ進んでいく。生徒会という場所が好きな理由の一つだ。
「……会長、今日はちゃんと仕事してますね」
しばらくして、未来が感心したように言った。俺は顔を上げ、少々心外だと眉を寄せる。
「今日は、っていうのはどうかな。俺は普段から、やるときはやる男だよ」
「その『やるとき』が、もう少し多ければ助かるんですけど」
「ははは。手厳しいねえ」
「でも、会長がきちんと戻ってきてくださると、仕事が早く進むのは本当ですよ。だからこそ、最初からいてほしいんです」
未来はそう言って微笑んだ。俺は少し照れくさくなり、冗談めかして胸を張る。心美が笑い、昴もようやく表情を和らげた。
そのまま仕事を続けていると、窓の外から部活動を終えた生徒たちの声が聞こえてきた。校舎の向こうに傾いた夕日が差し込み、長机の上に細長い光を落とす。気づけば、孝太たちが帰ったであろう時間はとうに過ぎていた。
(……ちゃんと話せたかな。いや、話せたかどうかくらいは、本人が教えてくれるだろう。今日の俺にできるのは、待つことだけだ)
スマートフォンは鞄の中に入れたままだ。取り出せば確認したくなるから、あえて触らないことにしている。どうやら俺は、自分で思っていた以上に我慢が苦手らしい。
やがて最後の資料をまとめ終えた頃、昴が静かに声をかけてきた。
「遥輝。今日はお疲れさまでした。途中で何度か危うい顔をしていましたが、最後まで席を立たずに済みましたね」
「ありがとう、昴。君に褒められると、妙に達成感があるなあ。もっとも、俺は別に子供じゃないんだから、当然のことをしただけだけど」
「その当然のことを、昨日まで何度も破ってきたのはどなたでしたか?」
「……過去の話を持ち出すのは、あまり建設的じゃないと思うよ」
昴はとうとう笑った。声に出して笑うのは珍しいので、俺までつられて笑ってしまう。未来と心美は何の話か分からない様子だったが、二人とも仕事が終わったことを喜び、机の上の書類を片付け始めた。
◇
相沢紗月が屋敷へ戻ったのは、日が暮れる少し前だった。
写真部では仮の紙を壁に貼り、作品の並びと通行の邪魔にならない高さを確かめた。千景と何度も場所を入れ替えながら相談し、最終的には当初よりも見やすい配置に落ち着いた。作業そのものは地味だったが、少しずつ形になっていく展示を見るのは楽しかった。
屋敷へ戻ると、紗月は制服を片付け、仕事用の服に着替えた。東條家で過ごす時間と学園で過ごす時間。その切り替えには慣れているものの、学校で見かけた遥輝の姿を思い出すと、自然と口元が緩むことがある。
今日の遥輝は、生徒会長として実に頼もしかった。展示場所の問題をすぐに整理し、写真部の希望を頭ごなしに否定することもなく、可能な方法を一緒に考えてくれた。千景が「東條会長って、話してみるとすごく親切だね」と言っていたのも、紗月には嬉しかった。
(あの方は、もともとそういう方なのです。興味のあることには夢中になりすぎますけれど、誰かが真剣に取り組んでいることを、いい加減に扱うことはありません)
そう思いながら、紗月は居間に運ぶ茶器を確かめた。遥輝が帰るまで、まだ少し時間がある。今日の展示準備について話したいこともあったが、彼が疲れているなら無理に引き止めるつもりはない。
そのとき、スマートフォンに千景からのメッセージが届いた。週末、商店街の近くで開かれる小さな催しを写真に撮りに行かないかという誘いだった。授業や部活動とは別の、友人同士の気軽な外出である。
紗月は画面を見つめ、少し考えた。週末には屋敷での仕事もあるが、時間を調整できないわけではない。以前なら、まず自分が不在になって困ることを思い浮かべていただろう。しかし今は、友人と出かけたいという自分の気持ちも、同じように大切にしたいと思っている。
千景には、予定を確認してから返事をすると送った。仕事の調整は必要だが、それは自分の希望を諦める理由にはならない。そう考えられるようになったことを、紗月は少し嬉しく感じていた。
ほどなくして玄関から声が聞こえた。遥輝が帰ってきたらしい。紗月はスマートフォンをしまい、いつものように出迎えへ向かった。
「お帰りなさいませ、遥輝様。本日もお疲れさまでした」
「ただいま、紗月。今日はなかなか充実した一日だったよ。写真部の展示も、いい形にまとまりそうだね」
「はい。会長のおかげで、皆さんと相談しやすくなりました。ありがとうございます」
「いやいや、俺はできることをしただけさ。君たちの案がきちんとしていたから、話が進んだんだよ」
遥輝は朗らかに笑い、上着を脱いだ。紗月が受け取ると、彼はふと思い出したように首を傾げる。
「そうだ、紗月。今日は何か相談したいことがあるんじゃないかい? 帰り道で見かけたとき、少し考え込んでいるように見えたんだけど」
「……お気づきでしたか」
「そりゃ、顔を合わせたんだからね。でも、違ったなら俺の勘違いかな」
紗月は少し驚いた。遥輝は他人の恋愛についてよく話すが、それ以外のことを見ていないわけではない。むしろ普段から人の小さな変化によく気づく。ただし、その理由をいつも正しく言い当てるとは限らないのだけれど。
「実は、週末に千景さんから写真を撮りに行こうと誘われまして。仕事の予定と重なるところがあるので、時間を調整できないか相談したいと思っていました」
「それなら、もちろん相談しよう。君がいないと困る時間は他の人とも確認する必要があるけど、予定を動かせるなら動かせばいい。せっかく友達と出かけるんだろう?」
「ありがとうございます。先に仕事内容を整理して、必要な引き継ぎもまとめておきます」
「うん。無理のない形にしよう。紗月が撮ってくる写真も楽しみにしてるよ」
遥輝の言葉に、紗月は自然と笑みを浮かべた。彼にとっては特別なことではないのだろう。だが、専属メイドとしての仕事と、一人の高校生としての生活をどちらも大切にしてよいと言われるのは、彼女にとって嬉しいことだった。
◇
夕食を終え、自室へ戻った俺は、机に置いていたスマートフォンを確認した。画面には孝太からのメッセージが一件届いている。待ちに待った連絡に、思わず背筋が伸びた。
『今日は明里と話せたよ。昔のこととか、今まで言えなかったこととか、いろいろ。まだ答えは出てないけど、ちゃんと向き合えたと思う。相談に乗ってくれてありがとう』
俺はしばらく画面を眺め、それから大きく息を吐いた。返事が出たわけではない。それでも、孝太が自分で踏み出したことは確かだった。
(よかったな、孝太。君が何を選ぶにしても、今日のことはきっと無駄にならない。……ああ、それにしても具体的に何を話したのか気になる! 気になるけど、聞かないぞ。今日は聞かない!)
自分の好奇心へ必死に言い聞かせながら、返信を打つ。
『よかった。ちゃんと話せたなら、それが何よりだよ。報告してくれてありがとう。これからも焦らず、自分の気持ちを大切にしてくれ』
送信すると、胸の奥に小さな満足感が広がった。これまでの俺なら、結果を知るためにあれこれ推測していたかもしれない。もちろん、今だって想像はする。けれど、本人が話さなかった部分を、無理に埋める必要はないのだと思えるようになっていた。
そこへ控えめなノックが響いた。入室を促すと、紗月が温かい飲み物を運んできた。盆の上には俺の分だけでなく、小さめのカップがもう一つある。
「おや、紗月。君も少し休憩かい?」
「はい。仕事の区切りがつきましたので。もしお邪魔でなければ、少しだけご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろん。ちょうど話し相手がほしいところだったんだ」
紗月は椅子を引いて座り、自分のカップにも飲み物を注いだ。屋敷では日常的な光景だが、こうして同じ部屋で一息つく時間は、俺にとっても落ち着けるひとときになっている。
「今日は例のご友人と、お話できたのですか?」
「うん。いや、俺は直接話したわけじゃないけどね。本人から、ちゃんと向き合えたと連絡が来たんだ。詳しい内容は聞いていないけど、それで十分かなと思ってる」
「そうですか。それはよかったですね」
「うん。正直なところ、知りたくてたまらない部分もある。でも、本人たちのものだからね。俺が勝手に踏み込まない方がいいことだってあるだろう」
紗月は静かに頷いた。それからカップを両手で包み、少し考えるように視線を落とす。
「遥輝様は、恋愛を観察しているとき、相手の方々が幸せになればよいとお考えなのですよね」
「もちろん。どんな結果でも、本人たちが納得して選べるのが一番だと思う。俺の予想が当たるかどうかなんて、二の次さ」
「でしたら、今回のように直接見られないことがあっても、十分楽しめるのではありませんか?」
「……なるほど。確かに、そうかもしれないね」
俺は少し驚いた。俺にとって恋愛観察とは、目に見える変化を追いかけることだと思っていた。けれど、本人が何かを考え、行動したと知るだけでも、その物語が前に進んでいることは分かる。何もかも自分の目で確かめる必要はないのかもしれない。
「紗月、君は時々、俺が考えもしなかった答えを持ってくるね。実に面白いよ」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
「もちろん褒めてるとも。君がいてくれると、俺の知らない見方を教えてもらえるからね」
そう言うと、紗月は一瞬だけ目を伏せた。いつもならすぐに返事をする彼女が、珍しく言葉を選んでいるように見える。俺は首を傾げたが、紗月はほどなくして柔らかく笑った。
「ありがとうございます。私も、遥輝様のお話から学ぶことがたくさんありますよ」
「それは嬉しいな。じゃあ、これからも遠慮なく意見を聞かせてくれ。俺が間違っていると思ったら、ちゃんと言ってほしい」
「承知いたしました。……その代わり、明日の生徒会のお仕事も、きちんと終わらせてくださいね」
「ははは。結局そこへ戻るんだね」
二人で笑った。窓の外では夜の風が木々を揺らし、部屋の中には穏やかな時間が流れている。俺はカップを手に取り、紗月が友人と出かける週末の天気がよければいいなと、何となく思った。
その夜、眠る前に孝太からもう一通だけ連絡が来た。
『明日は朝倉さんとも、改めて二人で話してみるつもり。明里にはそのことも伝えたよ。まだ上手く話せるか分からないけど、ちゃんと考えてみる』
画面を見つめた俺は、思わず笑みを浮かべた。孝太は今、自分の足で一歩ずつ進もうとしている。明里と話したから終わりではなく、朝倉さんとも向き合うことを自分で選んだのだ。
(いいじゃないか。実にいい。恋愛とは、誰かを選ぶその一瞬だけで決まるものじゃない。答えを出すまでの時間だって、立派にその人たちの物語なんだな)
俺は返信を送り、スマートフォンを机に伏せた。明日、朝倉さんと孝太はどんな言葉を交わすのだろう。もちろん気になって仕方がない。だが、今度も後を追うつもりはなかった。
それよりも、本人たちが自分の意思で話し合い、少しずつ前へ進んでいく姿を、親友として応援していたい。観察が好きだからこそ、見えないものがあると知った今日のことを忘れないでいよう。
……とはいえ、好奇心がなくなったわけではないので、明日の朝、三人の表情くらいはいつもどおり確認させてもらいたい。
そう考えながら目を閉じた俺は、ふと今日の紗月の笑顔を思い出した。写真部の友人と展示の準備をしていたときの、屋敷とは少し違う笑顔だ。あの表情を見て嬉しくなった理由については、特に深く考えないことにした。
何しろ今の俺には、親友の恋愛という、実に興味深い研究対象があるのだから。
自分自身の気持ちにまで目を向ける日は、まだずっと先の話だろう。




