第2話 双眼鏡には映らない気持ち
さて、困ったことになった。いや、もちろん悪い意味ではない。半年間見守ってきた親友の恋愛が大きく動き、しかも当事者たちから直接話を聞かせてもらえるというのだ。恋愛観察を趣味としている俺にとって、これ以上興味をそそられる展開はそうそうない。なのに、今の俺は興奮するより先に、妙な緊張を覚えていた。
理由は簡単だ。宮川孝太も、朝倉さんも、七瀬明里も、今は俺に見せるためにここへ集まったのではない。三人はそれぞれに悩み、迷い、誰かの言葉を必要としている。これまで外側から眺めていた物語の中へ、俺自身が招かれてしまったのである。
(これは観察とは違うぞ、東條遥輝。いつもの調子で面白がっていたら、親友に呆れられるどころでは済まない)
図書室の窓から少し離れた四人掛けの机で、孝太は少し居心地が悪そうに椅子を引いた。朝倉さんはその隣ではなく向かい側に座り、明里も少し迷ってから孝太の斜め前へ腰を下ろす。俺に残された席は孝太の隣だったが、座りかけたところで近くの生徒から視線を向けられていることに気づいた。
考えてみれば、ここは図書室だ。話し合いをするために集まったとしても、静かに読書をしている人たちの邪魔をしてよいわけではない。俺が声を落として移動を提案すると、朝倉さんはほっとしたように頷いた。
「図書委員さんに、少し話せる場所がないか聞いてみましょうか。私、今日は返却当番のお手伝いをしていたので、奥の学習室が使えるかもしれません」
「いや、それなら中庭の東側にあるベンチはどうかな。放課後のこの時間なら人通りも少ないし、教室からもそれほど離れていない。もちろん、誰かが来たら話を止めればいい」
明里が「外なら気が楽かも」と言い、孝太も頷いた。朝倉さんは机の上に広げていた本を閉じ、貸出カウンターへ返却に向かう。俺はその後ろ姿を眺めながら、何気なく孝太へ視線を移した。
「なあ、孝太。俺が一緒にいて、本当に大丈夫かい? 相談したいと言ってくれたのは嬉しいけど、三人だけで話した方がよいこともあるだろう」
「うん、分かってる。でも、昨日から何度も考えて、僕だけだと同じところをぐるぐる回っちゃうんだ。遥輝なら、僕が変なことを言いそうになったとき、ちゃんと止めてくれると思って」
孝太は照れくさそうに笑った。その信頼がありがたくて、俺は思わず肩をすくめる。半年も恋愛模様を観察していたなどと、この場で自慢できるはずがない。今日の俺に求められているのは、気の利いた解説ではなく、話を聞く耳だった。
中庭の東側には、植え込みに囲まれた細長い通路がある。秋口の花が植えられた花壇の向こうには、古い木製ベンチが二つ並んでいた。校舎を出ると風が少し冷たく感じられたが、空は晴れていて、長く座っていても寒くはなさそうだった。
朝倉さんと明里が片方のベンチに腰掛け、孝太が反対側へ座った。俺は孝太の隣に座り、少し先の中庭を見渡す。たまに部活動へ向かう生徒が通るものの、こちらへ注意を向ける人はいない。
「それで……どこから話したらいいのかな」
孝太は膝の上で手を組んだ。昨日も同じように困った顔をしていたのだろうが、今は目の前にいるため、眉間に刻まれた小さなしわまで見える。朝倉さんがすぐに口を開かなかったので、俺は孝太が続けるのを待った。
「昨日、朝倉さんから好きだって言ってもらったんだ。びっくりしたけど、すごく嬉しかった。そうしたら明里が来て、明里も……僕のことを好きだって言ってくれて。僕、今までそんなふうに考えたことがなかったわけじゃないんだけど、二人の気持ちを聞いて、頭が真っ白になったんだ」
「孝太君。昨日も言ったけれど、私、返事を急がせるつもりはないからね」
朝倉さんの声は静かだった。ただ、静かだからといって落ち着いているとは限らない。膝の上に揃えた指先には力が入っており、言葉を選ぶたびに小さく息を吸っている。
「私、告白するまで何度も迷ったの。宮川君は優しいから、好きだと言われたら困るんじゃないかって。でも、何も伝えないままでいるのも嫌で……昨日は、自分で決めて呼び出したの」
「……私だって、そこは分かってる」
明里がぽつりと言った。いつもなら教室中に届きそうな明るい声の持ち主が、今は視線を落としている。膝に置いた鞄の持ち手を指でなぞりながら、彼女は少し悔しそうに笑った。
「昨日、急に割って入ったのは悪かったと思ってる。朝倉さんが勇気を出したところだったのに、台無しにしかけたから。……でも、あのまま黙って帰ったら、私、たぶんずっと後悔した」
「七瀬さんの気持ちも分かるよ。私も、もし立場が逆だったら……すぐに落ち着いていられたかどうか、自信ないもの」
朝倉さんはそう答え、ほんの少しだけ明里の方へ体を向けた。明里は意外そうに顔を上げる。昨日の俺には見えなかった、告白の後に続く会話がそこにはあった。
「それで、昨日は結局どうなったんだい? 話したくないところまで聞くつもりはないけれど、今どこで困っているのかを知らないと、俺も変なことを言ってしまいそうだ」
「うん。あのあと、僕が二人に『すぐには答えられない』って伝えたんだ。でも、それだけじゃなくて……僕、どちらのことも大切だから、できれば今までどおりでいたいって言っちゃって」
孝太の語尾が小さくなった。彼は自分の発言の何が問題だったのか、すでに気づいているようだった。それでも俺が黙っていると、代わりに明里が口を開いた。
「私、そこでちょっと怒った。今までどおりが嫌だから、気持ちを伝えたのにって。孝太に悪気がないのは知ってるけど、あの言葉は……私の勇気まで、なかったことになる気がしたから」
「うん。明里に言われて、僕もそうだって思った。朝倉さんにも失礼だったよね。だから、ちゃんと考える時間をほしいって言い直したんだ」
「私たちも、それなら待てるって話したんです。答えがどちらでも、宮川君が自分で考えてくれたなら……少なくとも、昨日までのように何も知らないままではなくなるから」
朝倉さんはそこまで言って、唇を引き結んだ。答えがどちらでも構わない、という意味では決してないのだろう。相手が他の誰かを選んだら辛い。それでも、自分の望みだけで孝太を動かしたくはない。そんな気持ちが、彼女の言葉の隙間から伝わってきた。
(なるほどな。俺が見逃した一時間の中で、三人はちゃんと話していたんだ。何も決まらなかったわけじゃない。決められないことを、互いに認めたんだな)
双眼鏡で見た昨日の光景を思い出す。明里が飛び込んできた瞬間は、予想が当たったことに舞い上がった。しかし、昨日の続きには、誰かが声を荒らげるような劇的な場面だけではなく、相手の言葉を待つ静かな時間もあったのだろう。
そこに気づくと、俺の中にあった「結末を見逃した」という悔しさが少しだけ薄れていった。代わりに、目の前の三人の気持ちを雑に扱ってはいけないという思いが強くなる。
「まず確認したいんだけど、孝太は『どちらかを選ばなくちゃいけないから困っている』のか、それとも『自分が誰を好きなのかまだ分からないから困っている』のか、どっちに近い?」
「……後者、かな。二人とも大切なのは本当なんだ。だけど、それが友達としてなのか、それ以上なのか、僕はまだはっきり言えない」
孝太はしばらく考えてから答えた。俺は頷き、その言葉を心に留める。選択肢が二つあるからといって、すぐにどちらかへ印をつければよいわけではない。そもそも、自分の気持ちを理解するところから始めなければならないのだから。
「だったら、今ここで答えを出そうとしなくていいと思う。ただし、考えると言って何も変えずに時間だけ過ぎるのは、きっと三人とも辛い。孝太自身が、二人とどう向き合うのかを決める必要はあるんじゃないかな」
「どう向き合うか……」
「例えば、二人が自分の気持ちを話してくれたんだから、君も感じたことを言葉にしてみる。まだ好きだと言えないなら、それはそれで正直に伝える。優しくしたいからって、期待させる言い方を選ぶ必要はないと思うよ」
孝太は膝の上の手を見つめた。少し考え込んでから、朝倉さんと明里へ顔を向ける。二人も黙って彼の言葉を待っていた。
「……僕、二人のどちらにも嫌われたくないんだ。情けないけど、それが一番怖かったのかもしれない。自分の答えで誰かを悲しませたくないって思ってたけど、今までどおりでいようとするのも、二人には失礼なんだよね」
「孝太、嫌われたくないって思うのは、別に悪いことじゃないよ」
明里はすぐに言った。けれど、続く言葉を探すように一度口を閉じ、ようやく顔を上げる。
「私だって嫌われたくない。孝太に迷惑だって思われたらどうしようって、昨日は本当に怖かった。でも、気持ちを伝えたからには、いつまでも子供の頃と同じ場所にいられないのかもしれないって……そこは、ちゃんと考えてる」
その言葉を聞いた孝太が、驚いたように彼女を見つめた。俺も初めて、明里が幼馴染という関係に抱いていた不安を少しだけ知った気がした。昨日、告白の場へ飛び込んできた彼女は勇敢に見えたが、その勢いの裏には、関係が変わることへの恐ろしさもあったのだ。
「小学生の頃ってさ、帰り道が同じなのも、休みの日に遊ぶのも当たり前だったじゃない? 孝太が何か面白いものを見つけたら、次の日には私に教えてくれた。でも高校に入って、知らない友達が増えて……私がいなくても孝太の毎日は普通に進んでいくんだなって思ったら、なんか急に寂しくなったの」
「明里……」
「別に、友達を作るなって話じゃないよ。私だって新しい友達がいるし。それでも、そのうち孝太の隣が別の誰かの当たり前の場所になったら、私ってどこにいるんだろうって……そんなことを考えちゃった」
明里は最後に、照れ隠しのように笑った。いつものような勢いで「孝太は絶対渡さない」と言い切るよりも、その笑顔はずっと切実に見えた。孝太は何か言いかけたが、うまく言葉にならないらしく、唇を結んでいる。
俺は二人に話す時間を渡そうとして、視線を外した。花壇の向こうでは、風に揺れる小さな花が午後の日差しを受けている。人の心は、想像していたよりもずっと細かい変化を積み重ねるものらしい。
「……私が宮川君を好きになった理由も、たぶんそんなに大きなことじゃないんです」
しばらくして、朝倉さんが静かに切り出した。彼女は明里を責めるような様子を見せず、むしろ自分の気持ちも言葉にしておこうと決めたようだった。
「春に、図書室で資料の整理を手伝っていたとき、分類の順番を間違えてしまったことがあって。そのせいで作業が遅れて、私、かなり焦っていたんです。宮川君が偶然通りかかったときも、きっと迷惑をかけると思って、最初は大丈夫って言いました」
「……ああ。覚えてる。僕、返却する本を探してたんだよね」
「うん。でも宮川君は、勝手に手伝ったり、私ができないことを責めたりしなかったでしょう。『困っているなら手伝うよ。どこを触っていいか教えて』って言ってくれた。あれが、すごく嬉しかったの」
孝太はきょとんとしている。おそらく本人にとっては、特別な親切をしたつもりがないのだろう。朝倉さんはそれを見て、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「私、何でも一人でできるように見られることが多くて。できないところを見せるのが苦手だったんです。でも宮川君は、私が何に困っているのか聞いてくれた。手伝ってもらっている間も、対等に話してくれた。それから少しずつ、もっと話してみたいと思うようになったんです」
そうだったのか、と俺は心の中で呟いた。春の図書室。あの頃、朝倉さんが孝太を目で追うようになったことには気づいていたが、その前に何があったのかまでは知らなかった。俺が最初の変化だと思っていたものにも、実は別の始まりがあったらしい。
(観察していれば何でも分かる、というわけじゃないな。当然といえば当然なんだけど)
孝太はしばらく顔を伏せていた。それから両手を握り直し、明里と朝倉さんを交互に見た。
「二人とも、そんなふうに考えてくれてたんだね。僕、知らなかった。……いや、知ろうとしてなかったのかもしれない。自分がどう見られてるかばっかり気にして、二人が何を感じてるか、ちゃんと考えてなかった」
「孝太君が悪いわけじゃないよ。私だって、告白するまで気持ちを隠していたんだもの」
「私も。むしろ、態度には出してたかもしれないけど、きちんと言ったのは昨日が初めてだしね」
明里が少しだけ普段の調子を取り戻した。三人の間に流れていた緊張が、ようやく別のものに変わり始めた気がする。ただし、それで三角関係が解決したわけではない。話せたことが増えた分だけ、これから考えるべきことも増えたのだろう。
「遥輝、もう一つ聞いてもいい?」
「もちろん。俺に答えられる範囲ならね」
「僕、二人と普通に話してもいいのかな。気持ちが決まっていないのに、朝倉さんに話しかけたり、明里と一緒に帰ったりしたら、期待させちゃうんじゃないかって……」
その問いには、俺もすぐに答えられなかった。誰かを好きだと知った途端、これまでの会話すべてに意味が生まれてしまうことがある。けれど、だからといって友人としての関わりを一切なくすのも違う気がする。俺が二人の立場だったとしても、一方的に距離を置かれたら悲しいだろう。
「それこそ、俺より二人に聞いた方がいいんじゃないか? 何をされると嬉しいか、何が辛いかは人それぞれだ。俺が勝手に決めることじゃないと思う」
朝倉さんが小さく頷いた。明里は少し考え込んでから、孝太をまっすぐ見つめる。
「私は、今までどおり話したいよ。でも、孝太が私に気を遣って、付き合うみたいなことをするなら嫌。例えば、私が寂しそうだからって無理に一緒に帰るとか、そういうのはやめてほしい」
「私も似ています。挨拶したり、勉強の話をしたりすることまでなくなるのは寂しいです。でも、もし宮川君が私たちの気持ちに答えようとして、何でも引き受けてしまうなら、それは違うと思います」
孝太は二人の話を真剣に聞いていた。その真剣さに俺も頷きかけたが、一瞬だけ、頭の中に「三人の関係整理表」という素晴らしい案が浮かんでしまった。さすがに恋愛相談へ議事録と工程表を持ち込むのは違うだろうと考え直し、何食わぬ顔で両手を膝に戻す。やがて孝太はゆっくり頷くと、自分から言葉を選び始めた。
「分かった。僕、今までどおりに見せようとするんじゃなくて、自分の気持ちをちゃんと考える。二人と話したいときは、自分が話したいから話す。何かを頼まれたら、できることとできないことをちゃんと伝える。……そんなところから始めても、いいかな」
「うん。私は、それでいいと思う」
「私も。……ただし、考えるのを忘れて何か月も放っておいたら、さすがに怒るからね」
明里が冗談めかして言うと、孝太はようやく笑った。朝倉さんも肩の力を抜き、三人の間に柔らかな空気が流れる。俺は心の中でひっそりと拍手を送りたくなった。
そこで孝太が、何か思い出したように朝倉さんを見た。
「あ、それと……今日、図書室に入るときのことも、ちゃんと言っておきたい。朝倉さん、僕の手を引いてくれたよね。僕、急に手をつながれて、すごくびっくりしたんだけど」
「えっ!? 手をつないだの!?」
明里が思わず声を上げ、直後に自分で口元を押さえた。朝倉さんも頬を染めているが、慌てて言い訳を重ねたりはしない。彼女は一度呼吸を整えてから、孝太をまっすぐ見た。
「うん。宮川君、図書室の前でずっと立ち止まっていたでしょう。人の行き来もあったから、あのまま入口で話すより、中に入った方が落ち着けると思って……思わず手を取ったの。驚かせたなら、ごめんなさい」
「違う、嫌だったわけじゃないよ。ただ、昨日のこともあったから、どう受け取ればいいか分からなくなって」
「そ、そうだよね。私の方こそ、少し慌てていたと思う。でも、あのときは宮川君を連れていこうとしただけで、返事をもらったつもりはないよ」
「……そっか。ならよかった。僕も、きちんと確かめておきたかったんだ」
明里は二人の顔を交互に見てから、ゆっくり息を吐いた。彼女がほっとしたような、少しだけ悔しいような顔をしているのは、きっと気のせいではない。ただ、その表情に今すぐ名前をつけるのは、俺の仕事ではなかった。
(なるほど、心美が見たのはその場面か。手をつないでいたのは事実だけど、交際が決まったという意味ではなかったわけだ。たった一つの光景から、とんでもない結論に飛びつくところだったな)
これだ。恋愛が面白いのは、誰かが選ばれる場面だけじゃない。自分の気持ちを伝え、相手の気持ちを聞き、明日も向き合おうとする。そんな小さな決断が、一つひとつ関係を変えていくのだ。
「……あ、そうだ。東條、一つ聞きたいことがあるんだけど」
明里が不意にこちらへ顔を向けた。その目が少し細められている。なんだろう、と俺が笑顔で答えると、彼女は昨日の出来事を思い出したように首を傾げた。
「さっきから思ってたんだけど、あんた、なんでそんなに落ち着いてるの? 普通、友達が二人から告白されたって聞いたら、もうちょっと驚かない?」
「……ああ、なるほど」
思わず口元が引きつりかけた。これはよくない。昨日、屋根の上にいたことを知られたら、親友としての信用が危うくなる。俺はどう答えたものか考え、ひとまず肩をすくめてみせた。
「驚いているさ。大変なことになったものだと思っている。ただ、ここで俺まで騒いだら、孝太がますます困るだろう?」
「……まあ、それはそうだけど」
「遥輝は昔から、こういう相談になると意外と落ち着いてるんだよ」
孝太が助け舟を出してくれた。俺はありがたく頷く。まさか、昨日の会話を途中まで双眼鏡で見ていたなどとは言えない。親友への誠実さを口にした直後に、その親友へ隠し事をしているのは少しばかり胸が痛むが、今ここで告白して話を混乱させるわけにもいかなかった。
(……今度からは、観察の仕方も考えた方がいいな。相手が隠しておきたい話まで追いかけるのは、さすがに違う)
そのとき、校舎の方からこちらへ向かってくる足音がした。顔を上げると、見覚えのある長身の男子生徒が、分厚いファイルを抱えて歩いてくる。眼鏡の奥の目は、遠目にも分かるほど冷静だった。
「……遥輝。お話は終わりましたか?」
「おや、昴。どうしたんだい、こんなところで」
「どうしたもこうしたもありません。あなたが『五分で戻る』と宣言してから、ずいぶん時間が経っています。新庄さんと立花さんが、次の確認事項をまとめて待っていますよ」
孝太が「ご、ごめん!」と立ち上がりかけた。俺はその肩を軽く押し、慌てる必要はないと伝える。昴は俺の友人たちへ丁寧に会釈し、事情を知らないふりをしてファイルを差し出した。
「会長をお借りしてもよろしいでしょうか。こちらも急ぎの仕事がありまして。もちろん、皆さんの大切なお話を邪魔するつもりはありませんが、そろそろ一区切りかと思いましたので」
「はい。私たちも、今日はもう話せましたから」
朝倉さんがそう答えると、明里も大きく頷いた。孝太は俺へ向き直り、照れくさそうに笑った。
「遥輝、ありがとう。まだ答えは出てないけど、何から考えればいいかは少し分かった気がする。……それと、生徒会の仕事、邪魔しちゃってごめん」
「気にしなくていいさ。俺も君たちと話せてよかった。次は、俺じゃなくても三人で話せると思うよ」
「……うん。そうだね」
孝太は小さく頷いた。明里は「次こそ遅刻しないでよね、東條」と笑い、朝倉さんも穏やかに会釈する。俺は三人をその場に残し、昴と一緒に校舎へ戻ることにした。
歩き出してから少し経ったところで、昴が隣から声をかけてきた。
「ずいぶんと真面目な顔をしていましたね。楽しい観察はできましたか?」
「……いや。今日は観察というより、友達の話を聞いていたかな」
「珍しいですね。てっきり、会長が話を聞きながら頭の中で大喜びしているものだと思っていました」
「それも少しはあったよ。だって、あの三人の関係は本当に興味深いからね。でも……なんというか、外から眺めているだけでは分からないことがたくさんあると気づいたんだ」
昴は何も言わず、俺が続けるのを待った。こういうところが彼らしい。普段は遠慮なく口を挟んでくるくせに、こちらが大切なことを考えているときには、急かすことをしない。
「朝倉さんには朝倉さんが好きになった理由があって、明里には明里が怖がっているものがある。孝太にも、二人とは違う悩みがある。俺は半年も見てきたつもりだったけど、彼らの心を全部知っていたわけじゃなかった」
「それはそうでしょう。どれだけ近くにいても、本人が話してくれなければ分からないことはありますよ」
「うん。だからこそ、ますます面白くなった」
「……結局、そこへ戻るんですか」
「もちろん。知らなかったことを知る喜びまでなくなったら、俺らしくないじゃないか」
俺が笑うと、昴は呆れたように肩を落とした。しかし、その表情にはわずかに安堵したような色もあった。きっと、俺が何か余計なことを言って三人を傷つけないか、心配していたのだろう。
「ただ、今度からは双眼鏡の使い方も考えるよ。友達の秘密を覗き込んでまで知りたいわけじゃないからね」
「……その判断だけは、もっと早くしていただきたかったです」
「ははは。人間というのは日々成長するものだよ、昴」
「その成長を、生徒会の出席率にも反映させてください」
見事な切り返しに、俺は返す言葉を失った。昔から昴には勝てない場面がある。議論ならいくらでもできるはずなのに、彼は大抵、俺が反論しづらい事実を持ち出してくるのだ。
生徒会室へ戻ると、未来が机いっぱいに書類を広げて待っていた。心美はホワイトボードに提出期限を書き足しており、俺たちの姿を見るなり、嬉しそうに手を振った。
「お帰りなさーい! 会長、さっきの話、どうなりました?」
「それは当事者の秘密だよ、心美。俺が勝手に話すわけにはいかない」
「ええっ、気になるのに! ……でも、そっか。確かにそうですよね。ごめんなさい、ちょっと浮かれちゃいました」
心美は素直に謝り、頬をかいた。未来も隣で頷き、それから机の上に積んだ書類を示す。
「会長が戻るまでに、確認できるところは済ませました。あとはこちらの署名と、来週の予算調整です。相談が大事なのは分かりますけど、仕事を残したままいなくなられると困るんですからね」
「本当にごめん。二人とも、いつも助かってる。よし、ここからは集中しよう」
椅子に座り、申請書を一枚ずつ確認していく。未来が整理してくれた資料は分かりやすく、心美の書いた提出期限も一目で把握できた。昴は必要な書類を順に渡し、俺が確認を終えたものから別の封筒へ収める。
「……それにしても、会長って不思議ですよね」
少し時間が経った頃、心美がペンを動かしながら言った。俺が顔を上げると、彼女は楽しそうに首を傾げている。
「何がだい?」
「人の恋愛の話になるとすっごく嬉しそうなのに、ご自分の話は全然しないじゃないですか。会長って、好きな人とかいないんですか?」
未来のペンが止まった。昴も一瞬だけ俺へ視線を向ける。どうやら、心美は何の気なしに口にしたらしいが、二人にとっても興味のある質問だったようだ。
「好きな人? もちろん、いるとも。孝太も昴も、未来も心美も大切な仲間だ。好きか嫌いかと聞かれたら、迷わず好きだと答えるよ」
「そういう意味じゃなくて! 恋愛対象として、ですよ!」
「ははは。残念ながら、今のところは特にいないかな。俺は他人の恋愛を眺める方が性に合っているみたいでね」
心美は「もったいなーい」と大げさに肩を落とした。未来は呆れたように笑い、昴だけは妙な表情を浮かべている。俺が首を傾げると、彼はすぐに書類へ視線を戻した。
「昴、何か言いたそうだね」
「いいえ。別に何も。あなたがそう思っているなら、今はそれでいいでしょう」
「今は、というのが気になるんだけど」
「気になるなら、ご自身で考えてみてはいかがですか。さあ、次の書類です」
いつもの調子で話を打ち切られ、俺は苦笑しながらペンを握り直した。恋愛対象として好きな人。改めて考えてみても、今の俺にはぴんと来ない。誰かの恋を眺めるのは楽しいし、幸せになってほしいと思う相手も多い。でも、自分がその渦中に飛び込む姿は、どうにも想像しにくかった。
その後、四人で協力したおかげで仕事は順調に進んだ。最後の確認を終える頃には窓の外が少し暗くなり、校庭から聞こえる部活動の声もまばらになっていた。未来が提出用の封筒を揃え、心美がホワイトボードの期限を消す。俺は二人に礼を言い、今後はもう少し早く戻ると約束した。
「『もう少し』じゃなくて、ちゃんと時間を守ってくださいね」
「了解。明日は五分ではなく、最初から余裕を持って動くことにするよ」
「それって、また抜け出す前提じゃないですか!」
未来の抗議に、心美が声を上げて笑った。昴は無言で眼鏡を押し上げている。どうやら俺の信用を取り戻すには、まだ時間がかかりそうだった。
◇
同じ頃、相沢紗月は校舎の一角にある写真部の活動スペースで、提出を終えた一枚の写真を見つめていた。
雨上がりの商店街。濡れた路面に古い店の灯りが映り、看板を片付ける店主の背中が静かな時間を作っている。写真の中央に特別な事件が写っているわけではない。それでも紗月には、あの日あの場所で立ち止まった理由が、写真の隅々に残っているように思えた。
「紗月、やっぱりこっちにしたんだね。昨日は夕暮れの方にしようか迷ってたのに」
隣から声をかけたのは、写真部で一緒に活動している同級生の水野千景だった。机に並べた展示用の名札を確認しながら、彼女は紗月の写真へ顔を近づける。
「うん。昨日、少し話を聞いてもらってね。私が撮りたかったものは、こっちだったと思い出したの」
「へえ、誰に? 写真部の先輩?」
「……身近な人、かな。私の写真をちゃんと見てくれる人」
紗月は曖昧に答え、名札の位置を直した。千景はそれ以上追及せず、「そういう人がいるの、いいね」と笑っている。紗月も微笑み返したが、その胸には少しだけ説明しにくい温かさが残った。
(遥輝様は、いつも私が何を選びたいのかを聞いてくださる。仕事のことなら遠慮なく頼まれるのに、写真のことでは、最後は私が決めるようにと)
東條家で働くことは、紗月が自分の意思で選んだ道の一つだ。だからといって、学校生活のすべてがその仕事のためにあるわけではない。写真を撮る時間も、友人と笑い合う時間も、自分で選び、大切にしたいと思っている。
その気持ちを理解してくれる遥輝に、紗月は感謝していた。もっとも、彼が恋愛観察に夢中になって予定を忘れるたび、ひとこと言いたくなるのも事実だったが。
「ねえ紗月。さっき廊下で東條会長と話してたでしょう? 何か頼み事でもされたの?」
千景が不意に聞いた。紗月は動揺を顔に出さず、手元の写真を封筒へ戻す。
「ううん。図書室に向かっていたみたいだから、急いで転ばないようにって言っただけ。会長さん、忙しそうだったから」
「へえ。あの人、すごく仕事ができるって聞くけど、たまに子供みたいに笑うよね。今日も何か楽しそうだったなあ」
「……そうだね」
千景の言葉に、紗月は思わず笑みを深めた。誰よりも物事を素早く理解するくせに、興味を持ったことには驚くほど一直線になる。あの姿を知っている人は、学園にも少なくないのだろう。
(けれど、皆さんが知っている遥輝様と、私の知っている遥輝様は、少し違う)
その違いを、自分だけの特権だと考えたことはない。昴も同じように遥輝を知っているし、孝太には孝太の知る彼がいる。それでも、学校での笑顔の裏に疲れが隠れていないか、帰宅したときにどんな声をかければ少し気が休まるかを考えるのは、紗月が長く続けてきた習慣だった。
千景と一緒に片付けを終えると、紗月は展示用の写真を部室に残し、校舎を後にした。夕暮れの廊下には、少し前まで騒がしかった生徒たちの足音がほとんど残っていない。窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、彼女は小さく息をついた。
(今日も、きっと恋愛のお話をなさるのでしょうね。あんなに他の方の気持ちを知りたがるのに、ご自分のことになると……)
そこまで考え、紗月はふと足を止めた。自分の心に浮かびかけた言葉を、まだはっきりと形にできなかったからだ。やがて彼女は静かに首を振り、鞄を持ち直して歩き出した。
◇
屋敷へ戻ると、玄関の照明が柔らかく灯っていた。制服から着替えた俺は居間へ入り、今日の出来事を頭の中で整理しようとしたが、三人の会話が何度も思い返されてしまう。いつもなら観察の結果を楽しげに語るところだが、今日はどこまで話してよいものか少し迷っていた。
「お帰りなさいませ、遥輝様。お疲れのようですね」
メイド服に着替えた紗月が、盆に温かい飲み物を載せて入ってきた。俺は軽く手を上げて礼を言い、ソファに腰を下ろす。紗月はカップを置くと、少し離れた位置で俺の様子を窺った。
「疲れたというより、考えることが増えたかな。今日は親友に恋愛の相談をされたんだ。……ああ、内容は話さないよ。本人たちが真剣に話してくれたことだからね」
「承知しております。では、その相談を受けて、遥輝様が何をお考えになったのかだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「それなら、いくらでも。いや、むしろ聞いてほしい」
俺が身を乗り出すと、紗月は椅子を引いて向かい側に座った。仕事中であっても、こうして話を聞いてもらう時間は珍しくない。ただし、彼女に用事があるときは無理に引き止めたりしない。今日も写真部の活動で疲れているだろうから、長話になりすぎないようにしなければならない。
「俺はね、半年も近くで見ていれば、誰が誰を好きなのか、ある程度は分かると思っていたんだ。でも今日、本人たちの話を聞いて気づいた。好きになった理由も、今まで言えなかった気持ちも、外からは分からないことが多いんだね」
「そうでしょうね。写真でも、写っているものがすべてとは限りませんから」
「写真?」
「はい。私たちが写真を撮るとき、画面に入るものを自分で選びます。けれど、写さなかったものが、その場になかったわけではありません。写真を見ただけで、撮った人が何を考えていたか、すべて分かるとも限りませんし」
その言葉に、俺は思わず膝を打ちそうになった。なるほど、確かにそうだ。双眼鏡の中に見えているものも、本人たちの物語の一部分でしかない。見えていないところにこそ、大切な出来事が隠れていることもある。
「いい例えだね、紗月。さすが写真部だ。君の言うとおり、俺は自分が見ていた範囲を、物語の全部だと思いかけていたのかもしれない」
「遥輝様ほど観察がお好きな方なら、見えているものだけで十分だとは、きっと思われないでしょうけれど」
「ははは。うまいことを言うなあ。これからは、分からないところを勝手に埋めないようにしないとね」
紗月は満足そうに頷いた。それから時計を見て、夕食まで少し時間があることを教えてくれる。俺はカップを手に取り、ふと思いついて尋ねた。
「ところで紗月。君は、恋愛というものをどう思う?」
紗月の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。けれどすぐにいつもの落ち着いた表情へ戻り、少し考えるように首を傾げる。
「随分と広いご質問ですね。恋愛そのものについて、でしょうか」
「そう。好きな相手ができるとか、誰かと付き合うとか。俺は観察するのが楽しくて仕方ないけれど、自分が当事者になるところは、あまり想像できないんだ」
「……そうですね。きっと、相手のことを知りたいと思う気持ちだけでは、足りないのではありませんか」
彼女は少し時間を置いて続けた。
「相手が何を好きなのか、何を考えているのかを知るのは楽しいと思います。ですが、それだけなら友人でもできますから。自分の気持ちを知ってほしいと思ったり、その人と過ごす未来を自分で選びたいと思ったり……そういうことも、恋愛にはあるのかもしれません」
「……ふむ。自分の気持ちを、相手に知ってほしいか」
なるほど、俺はそこを考えたことがなかった。誰かの心を理解したいと思うことはあっても、自分の心を特別な誰かに知ってほしいという感覚には、まだ馴染みがない。それでも紗月の言葉には、どこか納得できる響きがあった。
「ありがとう。参考になったよ。君はいつも、俺とは違う方向から物事を見てくれるね」
「お役に立てたのでしたら何よりです。ただ……遥輝様は、今のお話まで観察記録のように整理なさらないでくださいね」
「えっ? どうしてだい?」
「私も、まだ答えを知っているわけではありませんから。分からないことを、分からないまま大切にする時間があってもよいと思うのです」
紗月はそう言って微笑んだ。俺は彼女の言葉を頭の中で繰り返し、ゆっくりと頷く。答えを急がず、大切にする時間。今日、孝太たちがようやく手に入れたものも、きっとそれに近いのだろう。
「そうだ。写真展の準備は進んだ?」
「はい。昨日決めた雨上がりの写真を提出しました。友人にも見てもらったのですが、私らしいと言ってくれました」
「それはよかった。展示が始まったら、昴も誘って見に行こうかな。もちろん、君が迷惑じゃなければ」
「迷惑だなんて、とんでもありません。ぜひ、いらしてください」
紗月は柔らかく笑った。よく見ると、いつもよりほんの少し嬉しそうだ。その表情を見られたことが、俺にも嬉しかった。誰かが自分で選んだものを胸を張って見せてくれるのは、見ている側にとっても幸せなことなのだろう。
夕食の時間が近づき、紗月は準備のために席を立った。俺はその背中へ礼を言い、しばらく窓の外を眺める。屋敷の庭には小さな灯りがともり、風に揺れる木々の影が窓ガラスに映っていた。
(それにしても、恋愛というものは奥が深い。知れば知るほど、知らないことが増えていく。こんなに面白いものを、自分で経験するより先に眺めていられるなんて、俺は本当に幸せ者だな)
そんなことを考えていると、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、宮川孝太からのメッセージだった。
『今日はありがとう。遥輝に話して、少し落ち着いたよ。明日、僕から明里と二人で話そうと思う。朝倉さんにも、先に伝えておいた。今までみたいに何も言わずに流すのは、やめようって決めたんだ』
俺はメッセージを読み終え、思わず口元を緩めた。昨日までの孝太なら、自分から明里を誘って真面目な話をするなど、想像するだけで緊張していたはずだ。けれど、今日の彼は少し違う。自分で考え、自分で決めて、一歩を踏み出そうとしている。
『いいじゃないか。君が決めたことなら応援するよ。無理に立派なことを言おうとしなくていい。君の言葉で、ちゃんと伝えておいで』
そう返信すると、すぐに『ありがとう。頑張ってみる』という短い返事が届いた。俺はスマートフォンを伏せ、満足げに息を吐く。明里との話がどうなるのか気になって仕方ないが、今度こそ、こっそり追いかけるような真似はしないつもりだった。
もちろん、気になるものは気になる。本人が話してくれるその日まで、朝の挨拶や教室での小さな変化を眺めるくらいは許してもらいたい。親友の大切な恋を応援したい気持ちと、恋愛観察を楽しみたい気持ちは、俺の中で矛盾していないのだから。
人間は平等ではない。誰もが同じものを持って生まれ、同じように愛され、同じ答えにたどり着くわけではない。それでも、誰かを好きになったときに、自分の言葉で向き合おうとする勇気には、他人が簡単につけられる優劣などないのだろう。
そして、その勇気がどんな未来につながっていくのかを知ることは、きっとこれからも俺の何よりの楽しみであり続ける。
……もっとも、今日のところは、昴に明日の生徒会の予定を確認しておいた方がよさそうだ。
親友の恋愛を見届ける前に、俺自身が副会長から説教を受け続ける未来だけは、できれば避けたいからね。




