第1話 生徒会長は、恋の結末を見届けたい
人間は皆、等しく平等である。
誰が最初にそんなことを言い始めたのか、俺は知らない。ただ、ずいぶんと思い切ったことを言う人がいたものだとは思う。生まれる家も、与えられる環境も、生まれ持った容姿や才能も違うというのに、何をもって平等と呼ぶのだろう。
裕福な家庭に生まれる子供もいれば、明日の食事に困る家庭に生まれる子供もいる。何をしても褒められる子供がいる一方で、頑張っても認められず、失敗したときだけ叱られる子供だっている。そこから先も、成績、運動能力、性格、容姿、他人との付き合い方など、比べるための物差しは際限なく増えていく。
もちろん、人間としての尊厳まで違ってよいという話ではない。誰にだって大切にされる権利はあるし、理不尽な扱いが許されるわけでもない。けれど、現実に与えられる条件が同じかと問われれば、答えは明らかだった。
人間は、決して平等ではない。
俺がそれを自分なりに理解したのは、八歳のときだ。それ以来、他人と自分の違いを意識するようになり、できることを増やすための努力を惜しまなくなった。いや、正確には、当時の俺は努力という言葉すらあまり好きではなかったと思う。自分にできないことなどないと信じて疑わず、周囲の人間を勝手に評価しては、随分と偉そうなことを言っていたからだ。
思い返せば、なんとも可愛げのない少年だった。もっとも、顔立ちだけは大変可愛らしかったと自負している。昔の写真を見れば分かる。あれは親戚一同が構いたがるのも仕方がない。いやあ、実に罪深い美少年だった。
……こほん。話がそれた。
そんな俺も、今では私立立川学園に通う高校生だ。八歳の頃に比べれば、人間として随分と丸くなった自覚がある。少なくとも、他人を見ただけで優劣を決めつけるような真似はしなくなったし、世の中には俺の知らないことが山ほどあると理解している。
その最たるものが、恋愛だ。
優秀だから好かれるとは限らない。外見が整っているから選ばれるとも限らない。長い時間を一緒に過ごしたからといって、最後に隣に立てる保証はどこにもない。本人たちでさえ自分の気持ちを持て余し、ほんの一言で昨日までの関係を変えてしまうことがある。
なんて不合理で、なんて予測しがたく、そして――なんて面白いのだろう。
「孝太君。私、君のことが好きなの。よかったら、私と付き合ってください!」
「……えっ? あ、朝倉さんが? 僕と? ちょ、ちょっと待って。ごめん、今、頭が全然追いついてなくて……!」
秋の風が、体育館の裏手に植えられた木々を揺らした。部活動の掛け声やボールの弾む音が遠くから聞こえてくる中、ひと組の男女が向かい合っている。女子生徒は胸元で両手を握り、男子生徒は困惑したまま何度も瞬きを繰り返していた。
女子生徒の名前は朝倉。清楚な雰囲気と整った容姿で知られ、学園で一番の美少女だと言う生徒も少なくない。成績もよく、誰に対しても態度を変えない彼女が、今は頬を真っ赤に染め、たった一人の返事を待っている。
そして男子生徒の名は、宮川孝太。派手なところはないが、頼み事を断るのが苦手で、人の話を最後まで聞こうとする、少々お人よしな俺の親友だ。自分のこととなると途端に自信をなくすところが玉にきずだが、そこも含めて彼の人柄なのだろう。
さて。どうして俺が二人の様子をここまで詳しく説明できるのか、不思議に思われたかもしれない。
「ふふ……ついに来た。ついに、この日が来たぞ……!」
答えは簡単だ。俺は二人から少し離れた用具倉庫の屋根の上で、身を低くし、双眼鏡を構えているからである。
倉庫の屋根には体育館の裏手を見渡せる場所があり、こちら側には枝の茂った木が一本伸びている。地上からは見えにくいが、屋根の上からなら、二人がどれほど緊張しているのかも手に取るように分かった。もちろん、見つかれば格好がつかない。だからこそ、息を潜める必要がある。
(半年……! 春から見守り続けて、ようやく朝倉さんが一歩踏み出した! あの慎重な彼女が、自分から呼び出して告白するとは!)
俺は思わず拳を握った。初めは教室でのちょっとした会話だった。落としたプリントを孝太が拾ったとき、朝倉さんがほんの少し嬉しそうに笑った。それだけなら偶然と片付けられたが、次第に彼女は孝太を見つけると足を緩めるようになったし、孝太もまた、以前より自然に彼女と話すようになった。
お互いの好きなものを知り、試験前に教え合い、雨の日には傘を貸し合う。その一つひとつは何の変哲もない出来事だ。けれど、積み重なっていく小さな変化を見ていると、思いがけず胸が弾む。恋というものは、劇的な瞬間だけで生まれるわけではないらしい。
しかも、孝太を巡る物語には、もう一人、見逃せない人物がいる。
「孝太君が優しいのは知ってる。だから、その……私に気を遣って答えなくていいの。孝太君の気持ちを、ちゃんと聞きたい」
「朝倉さん……。僕、そんなふうに言ってもらえるなんて思ってなくて。でも、嬉しい。すごく、嬉しいんだ」
「じゃあ……」
「ちょっと待ちなさーいっ!!」
校舎の方角から、風を切るような声が響いた。朝倉さんが肩を跳ねさせ、孝太が悲鳴に近い声を上げる。俺は反射的に双眼鏡を握り直し、思わず口元を押さえた。
現れたのは、長い髪を揺らしながら走ってきた女子生徒だった。七瀬明里。孝太とは幼い頃から家が近く、互いの家を行き来していたという、いわゆる幼馴染である。普段は明るく、言いたいことをはっきり口にする彼女が、今日は肩で息をしながら二人の間へ割って入った。
「明里!? どうしてここに……というか、そんなに走って大丈夫?」
「今は私の心配なんてしなくていいの! 孝太、それより先に聞くことがあるでしょ!」
「き、聞くこと? ええと……体育館裏に用事でもあったの?」
「違う! もうっ、あんたって本当にそういうところが……!」
明里は言いかけた言葉を飲み込み、朝倉さんに視線を向けた。朝倉さんも逃げずに彼女を見つめ返している。ほんの数秒だったが、二人の間には孝太だけが理解できていない緊張が漂っていた。
「朝倉さん。ごめん、割り込んで。でも、私、黙っていられない」
「……七瀬さんも、宮川君のことが好きなの?」
「そうよ。ずっと前から好きだった。言わなくても伝わるなんて、勝手に思ってたけど……そんなわけ、ないよね」
明里の最後の言葉は、それまでの勢いとは違って小さかった。孝太は口を開けたまま固まり、朝倉さんは胸元で握った指に力を込める。俺は双眼鏡の向こうに映る三人から、どうしても目を離せなくなった。
(来た……! 七瀬明里、ここで本音を打ち明けるか! 朝倉さんを責めるんじゃなくて、自分の気持ちを言葉にした。そうだ、それでこそ君だ!)
実に素晴らしい。幼馴染という近すぎる距離は、ときとして関係を一歩進める邪魔になる。明里もそれを薄々理解していたはずだ。だからこそ、先を越されたと知って走ってきたのだろう。
とはいえ、俺には彼女を勝者とも敗者とも決められない。孝太がどちらを好きなのか、それともまだ誰も選べないのかは、彼自身にしか分からないからだ。
「孝太。私だって、ちゃんと女の子として見てほしい。幼馴染だからって、何も言わなくていいと思わないで」
「明里……そんなこと、考えてたのか。ごめん、僕……」
「謝らないで! 別に今までのことを怒ってるんじゃないし、返事だってすぐに欲しいわけじゃ――」
「坊ちゃま」
「……ん?」
唐突に聞き慣れた声が頭上から降ってきた。正確には、俺のいる屋根の反対側だ。振り向くと、縁の近くに眼鏡をかけた長身の男子生徒が立っていた。風に乱れた前髪を指で直しながら、彼はいつもどおりの涼しい顔で俺を見下ろしている。
名前は昴。幼い頃から俺のそばにいる、数少ない遠慮のない友人だ。現在は生徒会副会長を務めており、俺が最も信頼している相棒でもある。屋敷では昔の癖で俺を坊ちゃまと呼ぶが、人前では決して使わない。つまり、今は俺たちのほかに誰もいないと判断したのだろう。
「なんだい、昴。大事な場面なんだけど」
「その大事な場面を眺める前に、会長として大切な仕事があったはずですが。時計はご覧になりましたか?」
「時計? いや、そんなものを見ていたら決定的な瞬間を逃すだろう。それに今は、半年分の観察が報われようとしているところでね」
「なるほど。では、半年分の観察記録に加えて、未処理の申請書も眺めていただきましょうか」
俺は双眼鏡を目から離した。昴が取り出した薄いファイルには、見覚えのある赤い付箋がいくつも貼られている。今日中に確認する約束をした、各委員会からの申請書だ。どうやら、冗談で見逃してくれる量ではないらしい。
「……五分だけ。あと五分あれば、たぶん何か分かる」
「あなたの『あと五分』が五分で済んだことは、これまで一度もありません」
「それは言い過ぎじゃないかな。先月はちゃんと七分で戻っただろう?」
「自分で反論になっていないと気づいてください。さあ、双眼鏡を」
昴が手を差し出した。俺は粘ってみたものの、眼鏡の奥の目がまったく笑っていないことを察し、渋々双眼鏡を渡す。昴はそれをケースに収め、屋根の裏側に固定された管理用のはしごへ向かった。
「せめて最後に一目だけ……」
「駄目です。向こうも人生の大事な話をしているんでしょう? あなたが騒いで気づかせたら台無しですよ」
「うっ……それは、確かにそうだな」
正論を言われると弱い。俺だって、観察対象の恋路を邪魔したいわけではないのだ。仕方なく屋根の低い側から管理用の踏み台とはしごを使って下り、昴に続いて校舎へ戻る。途中で体育館裏を振り返ったが、木々が邪魔をして三人の姿は見えなかった。
(気になる……! あれから孝太は何と言うんだ? 明里の告白を聞いた朝倉さんは? いや、そもそも孝太がその場で返事を出せるとは思えない。思えないが、ひょっとしたら……!)
「遥輝、顔に全部出ていますよ」
「今、俺は親友の青春について真剣に考えているんだ」
「真剣に考えている人間は、普通、用具倉庫の屋根に双眼鏡を持って上がりません」
「君は昔から細かいことを気にしすぎる」
「あなたは昔から、細かいことを気にしなさすぎるんです」
こうして、俺の人生でも指折りの興味深い瞬間は、無情にも中断されたのである。
私立立川学園の生徒会室は、校舎二階の廊下の端にある。窓からは中庭が見え、午後になると西日が長机の上を照らす。室内には書類棚、掲示物の見本、行事予定の書かれたホワイトボードが並んでおり、学校の運営に関わる細かな仕事の多さを嫌でも思い知らされる場所だった。
ただし、俺はこの部屋が嫌いではない。学校という小さな社会を、裏側から少しずつ動かしていく仕事は面白いし、何より仲間たちが頼もしい。多少、俺の行動に口うるさいという問題はあるが、それはそれで愛情の一種だろう。たぶん。
「あっ! 会長、やっと帰ってきた!」
「もう、どこに行っていたんですか! 私と心美ちゃん、ずっと待っていたんですよ!」
扉を開けるなり、二人の女子生徒がこちらを向いた。椅子から半分立ち上がっているのが会計の新庄未来、机の上に色分けした用紙を広げているのが書記の立花心美だ。どちらも仕事には真面目だが、性格はずいぶん違う。
未来は数字に強く、支出の一円単位まできっちり確認する堅実派。心美は人と話すのが得意で、教員や委員会との連絡に物怖じしない。二人とも、俺がうっかり仕事を増やしたときには容赦なく抗議してくる。
「ただいま。遅くなってごめんね。ちょっと、どうしても見届けたいものがあって」
「見届けたいもの?」
「ええと……青春の、非常に大切な一場面というか」
「会長。また何か変なことに首を突っ込んだんじゃないでしょうね」
未来が目を細める。俺は笑顔で首を傾げたが、その背後で昴が深くため息をついたせいで、まるで説得力がなくなってしまった。心美だけが楽しそうに笑いながら、俺の前に積まれた書類を指で示した。
「まあまあ、帰ってきたならいいじゃないですか。ほら、会長の見せ場ですよ。私たちで仕分けまでは終わらせておきましたから!」
「ありがとう、心美。未来も助かったよ。さあ、取り返すとしようか」
椅子に腰を下ろし、最初の申請書を手に取る。学園で開催予定の交流行事に関する備品の申請だった。項目をひとつずつ確認すると、別の委員会から同じ折りたたみ机が重複して申請されていることに気づく。
「昴、これとこっち、使用時間が三十分だけ重なっている。第二会議室の予備机を使えば追加購入はいらないね。未来、購入予定に入れていた分は保留。心美、担当委員に貸出時間の確認をお願いできる?」
「了解です。あっ、これ、私も変だと思ってたんですよ!」
「さっき気づいたときに言ってくれたらよかったのに」
「会長が帰ってこないんですもん!」
「……返す言葉もないな」
笑いが起き、張りつめていた空気が少し緩んだ。その後も俺は申請書の不備を確認し、担当教員への回答案をまとめ、翌週の会議で必要な資料に目を通していく。面倒な手続きでも、理由が分かれば処理の順序は決められる。物事を整理するのは、昔から得意だった。
未来が修正した会計表を差し出すと、俺は数字の並びを確かめ、予備費の扱いについて二か所だけ質問した。彼女は少し得意げに説明してくれたので、その判断を採用する。頼れる仲間がいるなら、何もかも自分一人で決める必要はない。
「……会長って、仕事を始めると本当に早いですよね」
心美がしみじみと言った。俺が最後の書類に署名すると、未来も複雑そうな表情で頷く。
「だからこそ、最初から座っていてくれたら助かるんですけど」
「それはごもっとも。でも、最終的には間に合っただろう?」
「間に合えば何をしてもいいわけではありません」
昴がすかさず言い返した。俺は笑って降参の意思を示し、三人に礼を言う。それから、窓の外に落ちかけた夕日を見て、胸の奥が急にそわそわし始めた。
そうだ。まだ間に合うかもしれない。
「それじゃ、残りの確認も済んだし、俺はちょっと――」
「体育館裏には誰もいないと思いますよ」
「……昴。君は人の考えを読む能力でも身につけたのかい?」
「顔を見れば分かります。それに、かれこれ一時間以上たっていますから」
一時間。確かに、告白の返事を聞くには十分すぎる時間だ。それでも確かめずにはいられなかった。俺は鞄を手に取り、仲間たちへの挨拶もそこそこに生徒会室を出た。
結果は、予想どおりだった。
体育館裏には誰もいない。夕日に照らされた地面に長い影が伸び、風が落ち葉を転がしているだけだ。朝倉さんの姿も、孝太の姿も、明里の姿も見当たらない。俺はしばらくその場に立ち尽くしてから、がっくりと肩を落とした。
「……なんということだ。歴史的瞬間を見逃してしまった……」
無論、恋愛は俺のために進むわけではない。本人たちの気持ちが一番大切で、俺の都合など何の関係もない。それは十分理解している。理解しているが、知りたいものは知りたいのだ。
校門へ向かう途中、俺は孝太に連絡しようとスマートフォンを取り出した。だが、文章を打ちかけたところで指が止まる。『今日、体育館裏で何があった?』などと送れば、どうして知っているのかと聞かれるに決まっている。
(親友として話を聞くのは構わない。けれど、本人が話したくなる前に答えをせがむのは違うな)
そう判断して画面を閉じた。少なくとも、その程度の分別は持ち合わせているつもりだ。好奇心と相手の大切な気持ちを、同じ天秤に載せるべきではない。
校門近くでは、下校する生徒たちの声が重なっていた。部活動帰りの集団が通り過ぎ、その後ろから二人の女子生徒が歩いてくる。一人は明るい声で何かを話しており、もう一人はその話に静かに耳を傾けていた。
後者の顔を見て、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
相沢紗月。同学年の女子生徒だ。派手な装いを好むわけではなく、制服の着こなしもきちんとしている。整った顔立ちに落ち着いた雰囲気があり、教室では必要以上に目立とうとしない。ただし、親しい友人の前では笑うし、興味のある話題になると意外によく喋る。
俺と紗月の間には、学校の誰にも知られてはいけない秘密がある。
「東條会長、こんにちは。まだ学校にいらしたんですね」
すれ違いざま、紗月がごく自然に挨拶した。隣にいた女子生徒も軽く頭を下げる。俺はいつもと同じ調子で微笑み、二人に応えた。
「こんにちは、相沢さん。生徒会の仕事が少し長引いてね。そちらはもう帰り?」
「はい。写真部の展示に使う写真を選んでいたんです。思ったより迷ってしまって」
「それは楽しみだ。展示が始まったら見に行かせてもらうよ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
紗月は小さく会釈すると、友人と並んで校門を出ていった。隣の女子生徒が「会長って思ったより話しやすいね」と笑い、紗月が「そうだね」と答える声が風に乗って届く。
誰が見ても、よくある生徒同士の会話だ。生徒会長と同学年の女子生徒が、帰り際に短い挨拶を交わした。ただそれだけである。
しかし、俺は知っている。
今夜、あの紗月が東條家の屋敷でメイド服に着替え、俺の帰りを迎えてくれることを。
彼女は俺と同い年でありながら、東條家で俺の生活を支える専属メイドでもある。事情を知る者はごく少数で、学校ではその関係を一切明かしていない。昴は当然知っているが、生徒会の未来や心美でさえ知らない。俺たちはそれを、互いの学校生活を守るための約束にしていた。
そもそも、紗月が俺のそばにいるからといって、彼女自身の時間まで俺のものになるわけではない。学校では友達と笑い、写真を撮り、好きなことをしてほしい。それは、俺が彼女に望んでいることでもある。
その日の夜、屋敷へ戻った俺を迎えたのは、見慣れた黒と白のメイド服姿だった。
「お帰りなさいませ、遥輝様。本日もお疲れさまでした」
「ただいま、紗月。学校ではどうも。展示する写真、まだ決まらないのかい?」
「はい。候補が二枚まで絞れたのですが、どうしても決めかねておりまして。あとでご意見を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。ただし、最終的に選ぶのは紗月だ。君が一番納得できるものを出すといい」
「承知しております。遥輝様のご意見は、あくまで参考にさせていただきますので」
少しだけ悪戯っぽく笑った紗月に、俺も笑い返す。学校の丁寧だが距離のある口調とは違い、屋敷ではいつもの呼び方に戻る。彼女は鞄を受け取りかけたが、俺がまだ中身を取り出す予定だと告げると、無理に手を伸ばすことはしなかった。
居間に入ると、温かい紅茶の香りが漂ってきた。窓際には小さな花瓶が置かれ、淡い色の花が一輪挿してある。紗月が今朝選んだものだろう。季節が変わるたびに屋敷の小さな風景も変わるのは、彼女の細やかな楽しみの一つだった。
「ところで遥輝様。今日は随分と残念そうなお顔をされていますね」
「分かるかい? 実はね、半年ほど注目していた恋愛が、今日とんでもない局面を迎えたんだ。ところが、肝心の結末を見逃してしまって」
「それは残念でしたね。ですが、お相手の方々にとっては、静かに話し合う時間が必要だったのではありませんか?」
「まったくそのとおりだよ。だから俺も割って入るつもりはないんだけど……気になるものは気になるんだ!」
身振りを交えて訴える俺を見て、紗月は紅茶を注ぐ手を止めずに微笑んだ。彼女は俺の趣味を昔から知っている。ときには呆れられることもあるが、事情を話したときに頭ごなしに否定されたことは一度もなかった。
「遥輝様は、皆様の恋愛を随分と楽しそうにお話しになりますね」
「そりゃそうさ。勉強にも競技にもある程度の傾向はある。でも恋愛は、同じような条件でも人によって答えがまるで違う。それぞれが相手のことを考えて、時には間違えて、悩んで……そこに本人だけの物語が生まれる。面白くないはずがないだろう?」
「そうですね。誰かが誰かを大切に思う理由は、外から見ているだけでは分からないこともありますから」
「うん。その分からなさが魅力なんだ。……あれ、紗月。今のは俺に何か言い聞かせようとしている?」
「いいえ。一般論でございます」
紗月は澄ました顔でカップを置いた。彼女がこういう表情をするときは、大抵何かを知っているのだが、尋ねても簡単には教えてくれない。俺は紅茶を一口飲み、代わりに写真部の話を持ち出した。
紗月が見せてくれた二枚の写真は、どちらも学園から少し離れた古い商店街を写したものだった。一枚は雨上がりの路地、もう一枚は夕暮れの店先。後者には店の灯りを見上げる小さな子供の後ろ姿が、遠くに写り込んでいる。
「俺は夕暮れの方が好きだな。奥の通りへ視線が自然に向くし、店の灯りが印象に残る。でも、紗月が撮りたかったものは、雨上がりの方にある気がする」
「……よく分かりましたね。あちらは、店の方が閉店後に看板を片付けているところを撮りたくて、何度か通ったんです。雨の日だけ、路面に灯りが映るので」
「それなら、そちらを選んだ方がいい。君の好きな景色が伝わってくるから」
紗月はしばらく二枚を見比べたあと、雨上がりの写真を丁寧に封筒へ戻した。その横顔は、仕事をしているときよりも少し幼く見える。自分の好きなものを選んだとき、人はこんな顔をするのかもしれない。
「ありがとうございます、遥輝様。おかげで決心がつきました」
「どういたしまして。展示の日程が決まったら教えてくれ。それと、明日はいつもより少し早く登校するつもりだ」
「承知しました。……宮川様たちのご様子を確かめるため、ですか?」
「さすが紗月! よく分かったね!」
「これだけ熱心にお話を伺えば、さすがに分かります。ですが、朝食だけはきちんと召し上がってくださいね」
彼女は困ったように笑い、それからいつものように明朝の予定を確認した。俺は素直に頷く。別に、紗月に怒られるのが怖いわけではない。彼女が正しいことを言っているから従うだけだ。……本当に、それだけである。
翌朝。俺は約束どおり朝食を済ませ、いつもより早い時間に学園へ向かった。
空はよく晴れていたが、朝の空気には少し冷たさが混じっている。校門へ続く坂道では、制服姿の生徒たちが友人と談笑しながら歩いていた。俺は挨拶を返しつつ、昨日の三人の様子をどう確かめるか考えていた。
まず、孝太が学校を休んでいないか。次に、朝倉さんと明里が普段どおり登校しているか。そして三人が顔を合わせたとき、どんな距離感で話すのか。このあたりを見れば、少なくとも昨日すぐに何か決まったのかどうかは判断できるはずだ。
ところが、現実はそう都合よく運ばなかった。
「おはよう、遥輝。今日はずいぶん早いね」
教室に入るなり、孝太がいつもどおりの笑顔で声をかけてきた。机の上には教科書とノートがきちんと並び、彼は次の授業の予習をしている。顔色も悪くないし、浮かれているようにも見えない。むしろ、いつもより少し眠そうな程度だった。
「おはよう、孝太。君こそ早いじゃないか。何かあったの?」
「別に何もないよ。昨日、家に帰ってから考え事をしていたら、寝るのが遅くなっちゃってさ。だから今日は、授業中に眠くならないよう早めに準備しようと思って」
「考え事、ねえ」
「う、うん。……どうしたの? そんなに僕の顔を見て」
「いや、親友が何か悩んでいるなら、力になりたいと思っただけさ。話したくなったら聞くよ」
孝太は少し驚いたように目を見開き、それからほっとしたように笑った。
「ありがとう。まだ、自分の中でも整理できてなくて。ちゃんと考えられたら、相談するかもしれない」
「いつでも歓迎するよ。ただし、無理に答えを出す必要はない。君の気持ちは君のものだからね」
「……遥輝って、そういうところは本当に頼りになるよね」
そういうところ『は』という言い方が少々気になったが、今は聞き流しておこう。孝太が大切な話を俺にしてくれるというなら、そのときは観察者ではなく親友として向き合いたい。とはいえ、本人が何を考えているのか気になるのは事実だった。
朝倉さんも登校してきた。普段と変わらず友人に挨拶し、窓際の席で鞄を開いている。明里は少し遅れて教室に現れ、孝太の机の近くを通ったときに「おはよう」と言った。孝太も普通に挨拶を返したが、彼女はそれ以上話しかけず、自分の席へ向かった。
(ううむ……何も分からん! 誰かが明らかに避けるわけでもなければ、二人きりで親しげに話すわけでもない。三人とも、よくもまあ普段どおりに振る舞えるものだ)
俺が内心で唸っていると、背後から昴が教室へ入ってきた。眼鏡越しの視線が俺、孝太、朝倉さん、明里の順に動き、最後に呆れたようにこちらへ戻る。どうやら、一瞬で事情を察したらしい。
「おはようございます、遥輝。朝から楽しそうですね」
「おはよう、昴。いや、楽しそうに見えるかもしれないけど、実際は苦戦しているんだ。昨日の謎は、思った以上に深い」
「謎にしたのは、あなたが勝手に覗いていたからでしょう。親友の話なら、本人が話してくれるまで待てばいいじゃないですか」
「待つよ。もちろん待つとも。でも、観察までやめる理由にはならないだろう?」
「……あなたに何を言っても無駄だということだけは、よく分かりました」
昴は疲れたように息を吐き、自分の席へ向かった。彼が言っていることも分かる。俺としても、孝太の決断を急かしたり、誰かに昨日の出来事を言いふらしたりするつもりはない。ただ、普段のやり取りから気持ちの変化を見つけるくらいは許してほしい。
休み時間になっても大きな変化はなかった。朝倉さんは友人に借りていた本を返し、明里は体育の授業について女子たちと話し、孝太は購買で買ったパンを落としかけて慌てていた。三人の生活は昨日と変わらないように見えたが、だからといって心の中まで同じとは限らない。
昼休み、俺は中庭のベンチに腰を下ろした。手元の昼食を食べながら、校舎の窓を見上げる。視界の端には、写真部の活動紹介を載せた小さな掲示物があった。昨日紗月が話していた展示の案内だ。
ふと目を向けると、紗月が友人と一緒に掲示物の前に立っていた。彼女は展示場所を指で示し、何か説明している。俺と目が合ったのはほんの一瞬だったが、互いに小さく頷いただけで、それ以上の反応はしなかった。
(あの写真が飾られるのか。楽しみだな)
そう思ったとき、少し妙な気がした。昨日から俺の頭の中は孝太たちのことでいっぱいだったが、紗月の展示については、結果を知るより先にそこへ至る過程を見たいと思っている。彼女が何を選び、どんなふうに見せるのか。それは恋愛観察とはまた別の、素直な興味だった。
もっとも、その理由を深く考える必要はないだろう。長い付き合いのある相手が頑張っているなら、応援したくなるのは当然だ。
午後の授業が終わり、生徒会室へ向かう頃には、俺の好奇心は限界に近づいていた。今日はもう何も分からないかもしれない。それなら明日、明後日と様子を見ればいい。頭ではそう納得しているのに、昨日の三人の声が何度も蘇ってくる。
「はああぁ……」
生徒会室の窓辺に立ち、俺は長いため息をついた。
「遥輝。窓ガラスが曇るほど息を吐いても、昨日の出来事は戻ってきませんよ」
机に向かっていた昴が顔を上げる。俺は椅子へ戻りながら、思わず両手を広げた。
「昴、考えてもみてくれ。半年だぞ? 半年間、孝太の周りに生まれる小さな変化を見てきたんだ。それが、あんなところで中断された。気にならない方がおかしいと思わないか?」
「普通の人間は、まず親友が悩んでいることを心配すると思いますが」
「心配してるとも。あいつが傷つくのは嫌だし、二人にも悲しい思いはしてほしくない。ただ、全員が望む答えになるとは限らないんだ。それを分かっているからこそ、どう向き合うのかが気になる」
昴は少しだけ黙った。書類を揃える音が止み、眼鏡の奥の視線がこちらへ向く。
「……だったら、その気持ちは忘れないでくださいね。恋愛はあなたの好きな観察対象かもしれませんが、あの三人にとっては自分の人生なんですから」
「分かってるよ。だから結果を無理に聞き出したりはしない。俺はただ、彼らが自分で選ぶところを見たいんだ」
「でしたら、今日は仕事をしてください。あなたが選ぶべきものは、そちらの書類です」
「……君は本当に手厳しいなあ」
思わず苦笑すると、昴もわずかに口元を緩めた。昔からそうだ。彼は俺を無条件に褒めることはないが、俺の言葉を頭ごなしに切り捨てることもしない。だからこそ、俺も彼の意見には耳を傾けられる。
しばらくして、生徒会室の扉が開いた。
「会長~! 頼まれてた書類、提出してきましたよ~!」
「担当の先生からも確認をいただきました。こちらが控えです」
戻ってきたのは未来と心美だった。未来が書類を机に置き、心美は何やら興奮した様子で鞄を抱えている。彼女の目が妙に輝いているのを見て、俺は首を傾げた。
「お疲れさま、二人とも。何かいいことでもあったのかい?」
「ふっふっふ。会長、聞きたいですか? さっき、ものすごく青春っぽいものを見ちゃったんですよ!」
「心美ちゃん、その話、別に今しなくても……」
未来が困ったように声をかけたが、時すでに遅し。俺の意識は、たった一つの単語に引き寄せられていた。
「青春? 詳しく聞こうか。もちろん、話せる範囲で構わないよ」
「えっとですね、図書室の前を通ったら、宮川先輩と朝倉先輩がいたんです。それだけなら普通なんですけど、なんと二人、手をつないでいたんですよ! そのまま一緒に図書室へ入っていって!」
ガタンッ!
椅子が床を擦り、想像以上に大きな音を立てた。俺は勢いよく立ち上がっていた。心美が目を丸くし、未来も驚いたように俺を見る。昴だけは、まるでこうなることを最初から知っていたかのように、静かに額を押さえた。
「……手を、つないでいた?」
「はい! 手を引いていた、という方が近いかもしれませんけど。朝倉先輩、ちょっと慌てていたみたいで。でも仲良さそうでしたよ!」
「それはいつの話だい?」
「ええと、ほんの十分くらい前です。二人とも急いでいる感じじゃなかったから、まだ図書室にいるんじゃないかなって」
十分前。図書室。手をつないでいた。俺は頭の中で三つの情報を並べた。昨日あれほど真剣に告白していた朝倉さんと、その返事を迷っていた孝太が、翌日には手をつないで歩いていたというのか。
(いや、待て。手を引いていた可能性もある。それだけで交際が始まったと判断するのは早計だ。だが、何かが動いたのは間違いない……!)
「心美、素晴らしい情報をありがとう。未来、提出も助かった。昴、今日の仕事は――」
「まだ終わっていません」
「分かってる、分かってるとも。でも、今度こそ五分で戻る!」
「昨日もそう言いましたよね!?」
昴が立ち上がるよりも早く、俺は机の端に置いてあった上着をつかんだ。そのまま廊下へ出ようとして、ふと足を止める。振り返り、未来と心美に向き直った。
「一つだけ。今の話は、他の人に面白おかしく広めないであげてほしい。二人には二人の事情があるだろうからね」
「えっ? あ、はい。それはもちろんです」
心美が戸惑いながらも頷く。未来は俺を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
「会長、そういうこと言うなら、ご自分もそっとしておいてあげてくださいよ」
「ははは。努力はするさ!」
「そこは約束してください!」
抗議の声を背に、俺は廊下を駆け出した。……いや、途中ですれ違った教師に「廊下は走らない」と注意されたため、すぐに早歩きへ切り替えた。生徒会長が校則を破っていては格好がつかない。こういうときほど冷静でなければ。
図書室は同じ校舎の別棟にある。渡り廊下を抜けると、窓の向こうに中庭が広がり、午後の柔らかな光が床に模様を落としていた。俺は胸の高鳴りを抑えながら歩調を速める。
(さて、どんな展開になっている? 昨日の告白に答えを出したのか。それとも、まだ三人で話している途中なのか。どちらにせよ、焦って結論を決めつけるべきじゃないな)
角を曲がったところで、見覚えのある女子生徒が立っていた。相沢紗月だ。手には写真展の申請書らしき封筒を持っている。隣には友人がいたが、ちょうど「先に教室へ戻るね」と言って別の廊下へ向かったところだった。
「東條会長。そんなにお急ぎで、どうされたんですか?」
紗月は普段どおりの、よそ行きの声で尋ねた。近くにはほかの生徒もいる。俺は足を緩め、何でもないことのように笑って答えた。
「ちょっと図書室に用事があってね。相沢さんは展示の申請?」
「はい。先生に確認をいただいたところです。会長も、あまり慌てて転ばないようお気をつけください」
「ありがとう。君も気をつけて」
それだけ言ってすれ違う。だが、数歩進んだところで、背後から小さな声が聞こえた。
「……遥輝様。どうか、お友達のお気持ちだけはお忘れなく」
驚いて振り返ると、紗月はすでに廊下の向こうへ歩き始めていた。振り返りもしないし、足も止めない。すぐ近くにいた生徒は気づいていないようだった。あの一瞬で、こちらにだけ聞こえるように声を落としたらしい。
俺は思わず笑ってしまった。
(昴と同じことを言うんだな。まったく、俺はそんなに信用がないのかい?)
それでも、不思議と嫌な気はしなかった。紗月は俺の趣味を知っているし、その面白さを理解しようとしてくれる。だからこそ、観察する相手のことも忘れるなと教えてくれるのだろう。
図書室の扉が見えてきた。廊下には静寂が広がり、室内からは紙をめくる微かな音だけが聞こえてくる。俺は扉の前で足を止め、乱れた襟を整えた。ここまで来て慌ただしく入室したら、さすがに不審に思われる。
そっと扉を開けると、貸出カウンターの向こうにいくつもの書架が並んでいた。窓際の席には数人の生徒が座っている。俺はまず、孝太たちの姿を探した。
いた。
窓から少し離れた机に、孝太と朝倉さんが向かい合って座っている。二人の間には開いた本が一冊置かれていた。少なくとも、この瞬間は手をつないでいない。朝倉さんは何かを説明しているようで、孝太は真剣な表情で頷いていた。
(ふむ。険悪な様子はない。だが、これだけでは何も分からないな……)
俺は適当な書架の前に立ち、背表紙を眺めるふりをした。知りたい気持ちは山ほどある。しかし、耳をそばだててまで二人だけの会話を盗み聞きするつもりはなかった。ここは図書室だ。せめて本くらいは選んで帰ろう。
そう思って一冊を抜き出した、そのときだった。
「……遥輝?」
背後から聞こえたのは、聞き慣れた親友の声だった。振り返ると、孝太が机から立ち上がり、こちらを見ている。その隣では朝倉さんが驚いたように目を丸くしていた。
「ああ、孝太。奇遇だね。俺はちょっと本を探しに来たところで――」
「えっ? でも遥輝、その本、上下巻の下巻だよ?」
俺は手元を見た。確かに、表紙の隅には堂々と『下』と書かれている。しかも、どうやら歴史資料の分厚い解説書らしい。普段なら気にも留めないような初歩的な失敗だった。
「……もちろん、上巻も借りるつもりだったさ」
我ながら苦しい言い訳だと思った。孝太は不思議そうに首を傾げたものの、それ以上追及せず、こちらへ近づいてくる。朝倉さんも少し迷ってから席を立った。
「遥輝。あのさ、実はちょうど君に相談したいことがあったんだ」
「……ほう?」
予想外の言葉に、俺の胸が高鳴った。親友として頼られるのは嬉しい。だが、こんなタイミングで相談したいことがあると言われれば、どうしたって昨日のことが頭をよぎる。
孝太は朝倉さんと顔を見合わせた。彼女は緊張した面持ちのまま、それでも小さく頷く。二人の間に流れたその短い沈黙を、俺はじっと見守った。
「昨日、朝倉さんと明里に、大事なことを言われたんだ。僕、一人で考えていたんだけど……どうすればちゃんと向き合えるのか、分からなくなってきて」
思わず息を呑みかけた。けれど、俺は口元に浮かびそうな笑みを抑え、親友の目を見た。これは観察ではない。孝太自身が、俺に話を聞いてほしいと言っている。
「分かった。話してくれ。俺でよければ、一緒に考えよう」
「ありがとう。……それで、もう一人にも来てもらうことにしてるんだ」
「もう一人?」
孝太が頷いたのとほぼ同時に、図書室の扉が開いた。そちらに目を向けると、七瀬明里が立っていた。走ってきたのか少し頬が赤いが、昨日のように声を荒げたりはしない。彼女は俺の姿を見つけると、わずかに眉を上げた。
「……あれ? 東條もいるの?」
「やあ、七瀬さん。奇遇だねえ」
「奇遇って……孝太、東條にも話したの?」
「うん。僕だけじゃ、うまく考えられなくて。二人が嫌なら、もちろん無理にとは言わないけど……」
明里はしばらく孝太を見つめ、それから朝倉さんに目を向けた。朝倉さんも彼女から目を逸らさず、静かに頷く。昨日、体育館裏で向かい合っていた三人が、今度は図書室で同じ机を囲もうとしている。
(……なるほど。そう来たか)
俺は自分がとんでもない勘違いをしかけていたことに気づき、心の中で笑った。二人が手をつないでいたからといって、結論が出たとは限らない。むしろ、そこに至るまでの事情こそが大切なのだ。
明里は一度深く息を吸い、俺に向かって言った。
「東條。あんた、孝太の親友なんでしょ? だったら、変に片方の味方をしないでよね」
「もちろん。俺は誰かを勝たせるためにここにいるわけじゃない。三人とも、自分の気持ちを大切にしてほしいだけさ」
「……それなら、いい」
それを聞いた孝太が安堵したように肩の力を抜いた。朝倉さんも、ほっとした顔で席へ戻っていく。俺は手にしていた下巻を元の場所へ戻し、三人について歩き始めた。
恋愛とは、実に不思議なものだ。好きになっただけでは終わらない。想いを伝えたあとにも、考えなければならないことがいくつもある。答えを急ぐ必要がないと分かっていても、心は勝手に先へ進もうとする。
そして何より、俺が半年かけて眺めてきた物語は、まだ始まったばかりだったらしい。
(人間は平等じゃない。育ちも、性格も、得意なことも違う。それでも、誰かを好きになったときに何を選ぶかは、他人が決めていいことじゃない)
俺は三人の背中を見ながら、静かに胸を躍らせた。今日こそ、この目で見届けられるかもしれない。いや、見届けるというより、親友たちが選ぶ答えに立ち会うことになるのだろう。
その答えがどんなものであれ、俺はきっと彼らの勇気を忘れない。
……ただ、一つだけ問題がある。
(昴に五分で戻ると言ったんだよな。どう考えても、五分じゃ終わらないぞ、これは)
生徒会室に残してきた書類と、眼鏡の奥で静かに怒る幼馴染の顔が脳裏をよぎった。
ああ、まったく。青春というものは、どうしてこうも忙しいのだろう。




