第5話 恋の答えは、誰かの噂では決まらない
人間は、自分の目で見たものを信じる。
それ自体は悪いことではない。むしろ、何でも人から聞いた話だけで決めつけるより、ずっと健全な態度だろう。けれど、目に映ったものが事実であったとしても、そこから導き出した結論まで正しいとは限らない。
例えば、男女が手をつないでいたとする。
仲がよいのかもしれない。恋人同士なのかもしれないし、急いでいた片方がもう一人の手を引いただけなのかもしれない。転びかけた相手を支えたという可能性だってあるだろう。
手をつないでいたという一つの事実だけで、二人の関係を断定することなどできない。……できないのだが、人間というのは、不思議なほど簡単に物語を作り上げてしまうものらしい。
(いやあ、つくづく難しいね。俺もつい先日、まったく同じ間違いをしかけたばかりだから、偉そうなことは言えないんだけど)
朝の教室で、俺は窓の外を眺めながら、昨日の出来事を思い返していた。
親友の宮川孝太は、一昨日に幼馴染の七瀬明里と、昨日には朝倉琴葉さんと、それぞれ二人で話をした。本人の報告によれば、どちらにもまだ返事はしていない。ただ、二人の気持ちを知り、自分自身の気持ちも時間をかけて考えるつもりだという。
朝倉さんとは今度、図書室で一緒に本を探す約束をしたらしい。それを聞いたときは、素晴らしい進展だと思わず声を上げた。もちろん、今度こそ口だけではなく、二人が大切にしたい時間を邪魔しないつもりでいる。
ところが、今朝の教室には、いつもと少し違う空気が漂っていた。
「ねえ、聞いた? 宮川君と朝倉さん、昨日一緒に帰ってたらしいよ」
「えっ、そうなの? この前も図書室で一緒だったって聞いたけど、もしかして付き合ってるとか?」
「分かんない。でも、なんか仲よさそうだったんだって」
窓際で話している数人の声が、こちらに届いた。
俺は開きかけていた教科書から視線を上げる。誰も大声で騒いでいるわけではないし、言葉にも悪意は感じられない。友人同士で耳にした話を確かめ合っているだけだろう。
だが、内容は気になった。
(昨日、二人が並んで帰ったこと自体はおかしくない。話し合いを終えて校門まで一緒だったってだけかもしれないしね。しかし、その姿を見ただけで交際していると考えるのは、さすがに早すぎるな)
しかも、俺にはもう一つ気がかりがあった。
昨日の二人の話し合いは、幼馴染の明里にも伝えられていた。彼女自身は孝太と朝倉さんが話すことを受け止め、自分も気持ちを諦めないと決めている。けれど、周囲から「もう二人は恋人だ」と言われ続けたら、どう思うだろう。
俺が考え込んでいると、椅子を引く音がした。
「おはよう、遥輝。今日はどうしたの? 何だか難しい顔をしてるね」
隣に立っていたのは、件の宮川孝太だった。いつもどおりの柔らかい笑顔を浮かべているが、俺を見る目には少し心配そうな色がある。
「おはよう、孝太。いや、朝から少々考えさせられる話を耳にしてね。それより、昨日はよく眠れたかい?」
「うん。緊張してたから、帰ってからはちょっと疲れちゃったけど……ちゃんと眠れたよ。昨日も相談に乗ってくれてありがとう」
「俺は大したことをしていないさ。二人に向き合ったのは、君自身だからね」
孝太は少し照れくさそうに笑い、自分の席へ向かった。その背中を見送りながら、俺は改めて周囲を見渡す。朝倉さんはまだ登校しておらず、明里は教室の反対側で友人と話していた。
その明里が、ふとこちらへ視線を向けた。
偶然かもしれない。それでも、彼女の目が一瞬だけ孝太の方へ動いたことを、俺は見逃さなかった。
(ふむ……気にならないはずはないよな。恋愛は順位表じゃない。誰かが先に一緒に帰ったからといって、そのまま結論が決まるわけでもないんだ)
「……朝から観察に夢中ですか」
背後から声をかけられ、俺は振り向いた。いつの間に来たのか、昴が鞄を机へ置きながら、眼鏡の奥からこちらを見ていた。
「おはよう、昴。いや、今日は観察というより少し心配していてね。孝太たちのことで、妙な話が広がり始めているらしい」
昴は俺の視線の先へ目をやった。教室の端で話している生徒たちを確認したあと、声を落として尋ねてくる。
「本人たちは、その話を知っているんですか?」
「分からない。今のところ、俺が聞いたのは憶測ばかりだよ。だから下手に騒ぎを大きくするつもりはない。ただ、当人たちが困るようなら放っておくわけにもいかないだろう?」
「……それなら、まず本人の様子を見ましょう。周囲を黙らせようとして、かえって注目を集めるのは避けたいですから」
「同感だ。君はこういうとき、実に頼りになるね」
「普段から頼っていただいて構いませんので、放課後の仕事も忘れないでください」
昴はそう言って、今日確認する予定の書類を俺の机へ置いた。俺はその手際のよさに苦笑する。まったく、この幼馴染は、どんな話題からでも生徒会の業務へ戻してしまう天才なのではないだろうか。
◇
朝倉琴葉が教室へ入ってきたのは、始業までまだ少し余裕のある時間だった。
いつもどおり友人に挨拶を交わし、窓際の席へ向かう。その足取りは落ち着いていたが、机に鞄を置いたところで、近くの女子生徒から声をかけられた。
「朝倉さん、昨日、宮川君と一緒に帰ったんだって?」
「……え?」
琴葉は思わず顔を上げた。相手の女子生徒は好奇心に目を輝かせていたが、からかっているというより、友人の近況を聞こうとしているようだった。
「別に変な意味じゃないよ。ただ、二人で楽しそうに歩いてたって聞いたから。最近よく話してるし、仲よくなったのかなって」
「うん。昨日は少し話をしてから、途中まで一緒に帰ったよ。……でも、みんなが思っているようなことは、まだ何も決まっていないの」
「そっか、ごめんね。勝手にそういう話にしちゃって」
女子生徒は素直に謝った。琴葉も微笑んで首を振り、そこで会話は終わった。
終わったはずだった。
(……今の答えで、よかったのかな)
琴葉は椅子に座り、鞄から教科書を取り出した。けれど、指先は思うように動かない。昨日、孝太と話した時間は確かに嬉しかった。自分が彼を好きになった理由を伝えられたし、今度一緒に本を探そうという約束もできた。
そのことまで、隠さなければならないわけではない。
ただ、周囲が先に結論を出してしまうことは怖かった。まだ答えが出ていないのに、既に恋人同士なのだと思われたら、孝太に余計な負担をかけてしまうかもしれない。そして何より、明里がそれを耳にしたらどう思うのだろう。
昨日の帰り道、校門の近くで会った明里は、琴葉に「まだ諦めない」と伝えてくれた。
琴葉も同じ気持ちだと答えた。互いに望んでいる未来が異なる以上、いつかはどちらかが悲しい思いをするかもしれない。だからといって、相手を傷つけることが恋愛の目的ではないはずだ。
(七瀬さんにも、宮川君にも……私のせいで嫌な思いをしてほしくない)
そう考えた直後、琴葉は小さく首を振った。
自分が告白したことを後悔する必要はない。それは、昨日の話し合いで少しだけ理解できたことだった。人を好きになることまで遠慮し始めたら、結局は本当の気持ちを伝えられなくなってしまう。
「朝倉さん」
顔を上げると、少し離れたところに明里が立っていた。普段と同じように明るい表情を浮かべているが、その目にはほんの少し迷いが見えた。
「七瀬さん。おはよう」
「おはよう。……さっきの話、ちょっとだけ聞こえちゃった。別に聞き耳立ててたわけじゃないんだけど」
「うん。大丈夫だよ」
明里は一度、教室の周囲を見渡した。まだ登校していない生徒も多く、近くでは別の話題で盛り上がる声が聞こえる。
「昨日のこと、私も知ってるし。孝太がちゃんと話すって言ってたんだから、一緒に帰ってたって何もおかしくないでしょ。……その、変な噂で困ったら言ってね」
琴葉は驚いて明里を見た。
恋敵であるはずの少女から、そんな言葉をかけてもらえるとは思っていなかったからだ。
「……ありがとう、七瀬さん。でも、七瀬さんこそ大丈夫? 嫌な気持ちになったんじゃない?」
「そりゃ、全然気にならないって言ったら嘘だけどさ。昨日も言ったじゃない。私、諦めないって。だから、朝倉さんが孝太と話したことまで嫌がるのは、何か違う気がするんだよね」
明里は少し照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、琴葉の胸にあった緊張が少しずつ和らぐ。
「私も、七瀬さんとちゃんと話したいと思ってたの。宮川君のことだけじゃなくて……普通に、いろんなことを」
「えっ、私と?」
「うん。昨日、七瀬さんが私のことを羨ましいって言ってくれたでしょう? 私も七瀬さんのことを、今まであまり知らなかったんだなって思ったから」
明里はしばらく口を開けたまま琴葉を見つめ、それから急に笑い出しそうな顔になった。
「……なんか、変な感じ。好きな人が同じなのに、普通に友達になろうとしてるなんて」
「変……かな?」
「ううん。嫌じゃないよ。ただ、こういうのって、もっと険悪になるものだと思ってたから。私、恋愛のこと、案外何も知らないのかも」
「ふふ。私もだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。まだ互いの気持ちが完全に整理できたわけではない。それでも、同じ教室で過ごす相手として、少しずつ知り合っていくことはできる。
その会話の間、孝太は少し離れた席で予習をしていた。二人が何を話しているかまでは聞こえなかったが、笑い合う姿が見えたことに、彼はほっとしたように息を吐いた。
◇
昼休みになると、俺の予想とは少し違う出来事が起きた。
廊下へ出ようとしたところで、孝太が俺の袖を軽く引いたのである。振り向くと、彼は普段より真剣な顔をしていた。
「遥輝、ちょっと相談してもいい? 今朝、僕と朝倉さんが付き合ってるんじゃないかって話してる人がいて……明里も朝倉さんも、嫌な気持ちになってないか心配なんだ」
俺は内心で頷いた。どうやら、本人の耳にも噂が届いていたらしい。
「それは気になるね。でも、まず聞きたい。孝太自身は、その話をどう思った?」
「……正直、困ったよ。朝倉さんとはまだ何も決めていないし、明里ともちゃんと向き合おうとしてる。なのに、僕がもう朝倉さんを選んだみたいに言われたら、二人に失礼なんじゃないかって」
「うん。そこは大事なところだね」
俺は彼を廊下の端へ促した。通行する生徒の邪魔にならない場所を選び、窓の外へ目を向けながら考える。
「噂を聞いた全員に事情を説明する必要はないと思うよ。君たちの気持ちは、君たちのものだ。ただ、勝手に交際していると決めつける人には、まだそんな事実はないと伝えても構わないんじゃないかな」
「……でも、それで余計に騒がれたらどうしよう」
「その可能性もあるね。だから大げさに否定するんじゃなくて、聞かれたときに落ち着いて答えればいい。あとは、朝倉さんと明里にも、どうしてほしいか一度聞いてみるといいと思う」
孝太は少し考え込み、やがて小さく頷いた。
「そっか。僕だけで何とかしようとするんじゃなくて、二人にも聞けばいいんだね。……ありがとう。なんか、昨日から相談してばっかりだな」
「親友なんだから、遠慮する必要はないさ。ただ、いつか俺が困ったときには、君にも相談に乗ってもらうかもしれないよ?」
「もちろん! 僕にできることなら何でも言ってよ」
孝太は力強く頷いた。その素直さが彼の美点だと、俺は改めて思う。
(もっとも、俺が恋愛で悩むなんて事態は、当分起こらないだろうけどね)
そのとき、教室の方から明里の声が聞こえた。
「孝太ー! 朝倉さんと相談してたんだけど、ちょっといい?」
俺たちは振り向いた。明里の隣には朝倉さんが立っていて、二人ともこちらへ歩いてくる。孝太は一瞬緊張したようだったが、すぐに顔を上げた。
「うん。僕もちょうど二人に聞きたいことがあったんだ」
「えっ、何? また難しい話?」
「難しいというか……今朝の噂のこと」
明里と朝倉さんは顔を見合わせた。どうやら二人も、同じ話題について考えていたらしい。
俺は一歩下がりかけたが、朝倉さんがこちらを向いた。
「東條君も、少しだけ聞いてもらっていいですか? 昨日相談に乗ってもらったばかりで申し訳ないんですけど……」
「もちろん。ただし、俺が勝手に答えを決めるつもりはないからね。三人がどうしたいか、一緒に考えるくらいなら喜んで」
そう答えると、朝倉さんは安心したように微笑んだ。
四人で空いている小さな談話スペースへ移動する。廊下に面した場所だが、昼休みの人通りから少し離れていて、普通の声量でも落ち着いて話せる場所だった。
「……私たち、今朝ちょっと話したんだ」
明里が先に口を開いた。
「誰かが孝太と朝倉さんを恋人同士だって思ってても、いちいち説明する必要はないと思う。でも、それで孝太が困るなら、私たちもちゃんと話しておいた方がいいかなって」
「うん。私も同じ気持ち。昨日一緒に帰ったのは本当だけど、それ以上のことを勝手に決められると、宮川君も困ると思うから」
朝倉さんが続けた。孝太は二人の言葉を聞き、ほっとしたように肩を落とす。
「僕も、同じことを考えてた。誰かに聞かれたら、まだ付き合っていないって答えようと思う。でも、朝倉さんや明里の気持ちまで勝手に説明するつもりはないよ」
「うん、それでいいと思う」
明里が頷いたあと、少しだけ笑った。
「まあ、私が孝太を好きだってことまで広まったら、さすがに恥ずかしいしね。昨日までは勢いで言えたけど、同じことをクラス全員の前で言えって言われたら無理!」
「……明里、そういうのは本人の前で言うと、こっちも恥ずかしいんだけど」
「いいじゃない。今さらでしょ?」
孝太の頬が赤くなり、朝倉さんも小さく笑った。三人の空気が少し和らいだのを見て、俺は安心する。
しかし、俺の中には、まだひとつ引っかかっていることがあった。
「三人がそれでいいなら、俺から口を挟む必要はないね。ただ……一つだけ、俺自身も考えさせられたことがあるんだ」
孝太たちがこちらを見る。俺は少し言葉を選んでから続けた。
「昨日、朝倉さんと孝太が一緒に帰った。それを見た人が、二人は恋人なんだろうと考えた。見た光景自体は本当でも、結論は別だった。こういうことは、恋愛に限らずいくらでも起こるんだろうね」
「……東條君にも、そういうことがあるんですか?」
朝倉さんが少し意外そうに尋ねた。
「もちろん。俺だって、見えたものから勝手に意味を読み取ろうとすることがある。人の気持ちを何もかも分かったつもりになるのは、危ないことだと最近痛感していてね」
正直に答えると、明里がじっとこちらを見た。
「……東條って、もっと何でも分かってる人かと思ってた」
「ははは。買いかぶりすぎだよ。俺が得意なのは、考えることと、分からないことを面白がることくらいさ」
「いや、それができるのも結構すごいと思うけど……」
明里は少し呆れたように笑った。孝太も頷いている。俺としては大げさに褒められるようなことを言ったつもりはなかったが、二人が穏やかな表情をしているなら、それでいい。
やがて昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
四人は教室へ戻るために立ち上がる。そのとき、孝太が少しだけ足を止めた。
「……二人とも、ありがとう。僕、誰かにどう見られるかばっかり気にしてたけど、まず二人にちゃんと聞けばよかったんだね」
「そうよ。孝太はすぐ一人で考え込むんだから」
「ふふ。でも、今日みたいに聞いてくれたら、私も嬉しいよ」
明里と朝倉さんがそれぞれに答える。孝太は照れくさそうに笑い、それから三人で教室へ向かった。
俺は少し遅れて歩き出した。
(ふむ。恋愛の勝者も敗者も、まだ誰も決まっていない。そもそも、恋をしている本人たちが、勝ち負けとして考えていないのかもしれないな)
それはそれで、実に面白い。
◇
放課後、生徒会室では、いつもどおりの慌ただしい時間が始まっていた。
「会長、こちらの確認をお願いします。文化活動展示の掲示場所について、担当の先生から返答が届きました」
未来が書類を差し出した。俺は目を通し、昨日確認した配置図と照らし合わせる。写真部の展示場所は、通路の幅を確保できる配置であれば使用可能という判断だった。ただし、案内表示の位置については、曲がり角の視界を妨げないことが条件になっている。
「うん。これなら問題なさそうだね。案内板は床に置かず、掲示板の端へ固定する形がいい。写真部には最終案をもう一度出してもらおうか」
「分かりました。立花さん、連絡をお願いしてもいい?」
「はーい! 写真部の皆さん、今日も準備してるみたいですから、すぐ伝えてきますね!」
心美が元気よく立ち上がりかける。しかし、その前に昴が声をかけた。
「連絡は書面でも残しておきましょう。口頭だけだと、後で条件が分からなくなることがありますから」
「あっ、そっか! じゃあ、私が短い確認用の文章を作ります。会長、あとで見てくださいね」
「もちろん。ありがとう、心美」
彼女は嬉しそうに頷き、席へ戻って文章を打ち始めた。未来は予算表に必要な数字を書き込み、昴は別の委員会から届いた申請書を整理している。
俺はそんな三人を眺めながら、ふと思った。
生徒会長という立場は、ときどき周囲からずいぶん特別なものに見られる。何でもできる、いつでも正しい判断をする、誰よりも忙しく働いている。そんな評価を耳にすることもあるが、実際の俺はこうして仲間たちに支えられている。
書類の細かな数字を確認してくれる未来がいて、相手に伝わる文章を考えてくれる心美がいて、俺が勢いで動き出しそうになると止めてくれる昴がいる。俺一人で同じ仕事をこなそうとしたら、今よりずっと時間がかかるだろう。
(人を一つの肩書きだけで決めつけるのは、やっぱりよくないね。生徒会長だって、何でも一人でできるわけじゃない。……いや、俺の場合は単純に、恋愛観察に夢中になりすぎるという問題もあるけど)
「遥輝。何を笑っているんですか?」
昴が不審そうに尋ねてきた。
「いや、君たちが頼もしいなと思ってね。俺はずいぶん恵まれた生徒会長だなあ、と」
「……急にどうしたんですか。何か新しいお願い事でもあるんでしょうか」
「ちょっと待ってくれ。俺が感謝の言葉を口にすると、必ず裏があるように聞こえるのは悲しくないかい?」
「これまでの行いを振り返っていただければ、理由は分かると思います」
未来が笑いを堪え、心美はとうとう声を上げて笑った。俺は大げさに肩を落としてみせるが、こうして遠慮なく冗談を言い合える時間も、嫌いではなかった。
そこへ扉が控えめにノックされた。
「失礼します。写真部の相沢です。展示の件で、確認したいことがありまして」
顔を出したのは紗月だった。隣には水野千景もいる。二人とも制服姿で、手には先ほど話題になった配置図を持っていた。
「ちょうどよかった。こちらから連絡しようと思っていたところなんだ。入っておいで、相沢さん。水野さんもどうぞ」
「ありがとうございます、東條会長」
紗月は普段どおりの落ち着いた声で応じた。俺も、学校での彼女に合わせて自然な距離を保つ。
ただ、今日は少しだけ珍しいことがあった。
配置図の説明を始めたのが紗月ではなく、千景だったのである。
「先生から曲がり角の案内表示について注意があったと聞いたので、場所を変えた案を作ってきました。こちらなら、人が集まっても通りやすいと思うんですけど、どうでしょう?」
千景は緊張した様子だったが、一つひとつの理由を丁寧に説明した。紗月は隣で必要な資料を手渡し、友人が話し終えるまで口を挟まない。
俺は説明を聞き終えてから、配置図を確認した。
「なるほど。通路の幅だけでなく、展示を見る人の動きまで考えてあるんだね。水野さん、とても分かりやすかったよ」
「ほ、本当ですか? よかったあ……。人前で説明するの、あまり得意じゃなくて」
「十分伝わっていたと思うよ。あとは先生にも現場で確認してもらえば、案内表示の場所は決められそうだ」
千景が安心したように笑う。その横で、紗月も自分のことのように嬉しそうな表情を浮かべていた。
(そうか。紗月は今日は、友人が自分で説明できるよう支える側に回っていたんだな)
いつも俺を支えてくれる彼女が、学校では別の友人をさりげなく支えている。だからといって、すべてを代わりにやってしまうわけではない。千景が自分で話せるように見守り、必要なところだけ手を貸している。
その姿を、俺は少し新鮮な気持ちで眺めた。
打ち合わせが終わると、紗月と千景は礼を言って生徒会室を出ていった。扉が閉まったあと、心美が感心したように呟く。
「写真部って、いい雰囲気ですね。水野さん、最初は緊張してたけど、相沢さんが隣にいると安心するみたいでした」
「そうだね。仲間がいるからこそ、できることが増えるのかもしれない」
俺が答えると、昴がちらりとこちらを見た。
「……何でしょう。今日は妙に素直ですね」
「昴。君は一日に何回、俺の言葉を疑えば気が済むんだい?」
「疑わせるようなことを言わなければ、回数は減るかもしれませんね」
そんなやり取りに、未来と心美がまた笑う。
今日の生徒会室も、実に平和だった。
◇
同じ頃、図書室では宮川孝太が返却した本を棚へ戻そうとしていた。
その隣には朝倉琴葉がいる。昨日、今度一緒に本を探そうと約束した二人だったが、今日は新しい本を選ぶためではなく、休み時間に借りていた資料を返すために立ち寄っただけだった。
「宮川君、それは一つ上の棚だと思う。背表紙の番号が違うから」
「あ、本当だ。ありがとう、朝倉さん。危うく間違えるところだった」
孝太は笑い、正しい位置に本を戻した。琴葉も微笑み返す。
以前なら、それだけで自然に会話は終わっていただろう。けれど今日は、二人とももう少し話したいと思っていた。
「……ねえ、宮川君。今朝のこと、気にしてる?」
琴葉が静かに尋ねた。孝太は少しだけ考えてから頷く。
「うん。だけど、昼休みに二人と話せてよかった。僕、また一人でどうにかしようとしてたみたいだから」
「ふふ。宮川君って、誰かが困っていると放っておけないんだね」
「そんなに立派なことじゃないよ。僕、自分がどう思われるか怖いだけなのかもしれないし」
琴葉は首を振った。
「怖いと思っても、ちゃんと聞いてくれたでしょう? 私は、それが嬉しかったよ」
孝太は少し照れくさそうに笑った。その表情を見て、琴葉は胸の奥が温かくなるのを感じる。
ただ、今日の彼女には、もう一つ伝えたいことがあった。
「それとね。七瀬さんと、今朝ちょっと話したの」
「明里と?」
「うん。お互いに、まだ知らないことがあるんだなって。……好きな人が同じだから、いつも仲よくできるとは限らないと思う。でも、七瀬さんのことを嫌いになりたいわけじゃないの」
孝太は静かに耳を傾けた。
「だから、宮川君も、私たちがどうなるかを先に決めようとしなくていいと思う。今はそれぞれ、自分で考えていけばいいんじゃないかな」
「……ありがとう、朝倉さん。僕、二人がそう言ってくれることに甘えすぎないようにするよ」
琴葉は頷いた。返事を待つと言ったのは自分自身だ。待つと決めたからには、孝太が考える時間も大切にしたい。
ただし、いつまでも何も進まないままでは、自分の心も苦しくなるかもしれない。そのときは、自分の気持ちをもう一度伝えよう。そう心に決めた。
「……それじゃ、例の短編集は、また別の日に探そうか」
「うん。今日は返却だけのつもりだったから。今度はもう少し時間を取って、朝倉さんのおすすめをゆっくり聞きたいな」
「楽しみにしてるね」
琴葉は微笑んだ。孝太も同じように笑い、二人は図書室を出ていった。
◇
夜。東條家の屋敷へ戻った俺は、居間のソファに腰を下ろしていた。
窓の外には庭の灯りが浮かび、室内には穏やかな音楽が流れている。今日の生徒会の仕事は予定どおり終わり、昴からも特に追加の連絡はない。実に平和な夜だった。
そこへ、紗月が紅茶を運んできた。
「お疲れさまでございました、遥輝様。本日はお仕事も順調だったと伺っております」
「ははは。誰から聞いたのかな? 昴なら、俺が予定どおりに働いただけで大事件のように話しそうだけど」
「昴様からは、『今日は最後まで席にいらっしゃいました』とだけ。未来さんや心美さんも、きっと喜んでいらっしゃるでしょうね」
「……君たちの中で、俺が一日中仕事をすることはそんなに珍しいのかい?」
紗月は答えず、にっこりと微笑んだ。
実に見事な無言の返答だった。
俺は苦笑し、紅茶のカップを手に取る。少し甘い香りが立ち上り、肩の力が抜けていくのを感じた。
「そういえば、今日の写真部の打ち合わせ、よかったね。水野さんが自分の言葉で説明してくれたのが印象的だったよ」
「はい。千景さん、以前から説明する役をやってみたいとおっしゃっていたんです。ただ、大勢の方の前では緊張してしまうようでしたので、今日は一緒に資料を整理してきました」
「なるほど。君が全部話すこともできただろうに、あえて任せたわけか」
「はい。私ばかり説明していては、千景さんが考えたことまで私の言葉になってしまいますから。せっかく一緒に作った展示ですし、千景さんにも自信を持っていただきたかったんです」
紗月は少し嬉しそうに微笑んだ。その表情を見て、俺は自然と頷く。
「いい考えだね。今日の説明は分かりやすかったし、水野さん自身も嬉しそうだった。君たちの展示、ますます楽しみになってきたよ」
「ありがとうございます。……遥輝様は、学校ではあまり私に話しかけようとなさらないのですね」
不意の言葉に、俺はカップを持つ手を止めた。
紗月はいつもの穏やかな顔をしていたが、その問いには、普段とは少し違う響きがあった。
「そうだね。主従関係を隠している以上、あまり親しくしすぎると不自然かと思っているんだけど……何か困ることがあった?」
「いいえ。秘密を守るという意味では、今の距離感で問題ございません。ただ、今日の千景さんとのやり取りをご覧になって、遥輝様が何をお考えになったのか、少し気になりまして」
「……なるほど」
俺はしばらく考えた。紗月は俺の専属メイドであると同時に、学園では自分の友人や趣味を持つ一人の女子生徒だ。そのことは頭では理解していたつもりだったが、今日の打ち合わせでは、彼女の新しい一面を見た気がした。
「君が水野さんを支えている姿を見て、いいなと思ったよ。屋敷では俺が世話になってばかりだけど、学校でも君は君らしく、誰かと一緒に物事を作っているんだなって。……それを知れて、嬉しかった」
紗月はゆっくり瞬きをした。
それから、視線を少し落として微笑む。
「……ありがとうございます。私も、学校では自分の力でできることを増やしていきたいと思っておりますので、そう言っていただけて嬉しいです」
「もちろんさ。屋敷での仕事と学校生活は、どちらも君自身が選んでいる大切なものだろう? 俺の都合で片方を犠牲にする必要なんてないよ」
紗月は静かに頷いた。
その横顔を見ていると、ふと朝の教室で耳にした噂を思い出した。
人は、見えている部分だけで相手を判断しがちだ。朝倉さんを学校一の美少女と呼び、孝太と一緒に歩いていれば恋人同士だと考える。紗月についても、学園の生徒たちは写真部の落ち着いた女子生徒として見ているだろう。
だが、俺は彼女が仕事をしている姿も知っている。写真を選ぶときに迷う姿も、友人を支えようとする姿も、たまにいたずらっぽく笑う顔も知っている。
それでも、知らないことはまだ山ほどあるのだろう。
「……紗月」
「はい、遥輝様」
「君は、俺に言いにくいことってあるかい?」
自分でも、少し唐突な質問だと思った。
紗月は驚いたように目を見開いたあと、しばらく考えてから口を開く。
「……ございますよ。少しは」
「おや。これは意外だね。君は普段から、俺にかなり遠慮なく意見を言ってくれると思っていたんだけど」
「それは、必要なことだからです。お仕事に関わることや、お身体を気遣うことについては、きちんとお伝えするようにしています。でも……自分自身のことになりますと、少し迷うこともございます」
紗月は穏やかに答えた。
俺はその言葉を、すぐには返せなかった。
考えてみれば、当然のことかもしれない。俺は紗月に何でも言ってほしいと思っているが、だからといって彼女がいつでも気兼ねなく話せるとは限らない。立場の違いがある以上、こちらから確認しなければ伝わらないこともあるだろう。
「……そうか。だったら、今すぐ全部話してほしいとは言わないよ。ただ、君が自分のことを話したくなったときには、俺にも聞かせてほしい。仕事の相談でも、学校での悩みでも、それ以外のことでもね」
「……よろしいのですか?」
「当然だろう。君は俺の生活を支えてくれている大切な人なんだから。俺だって、君の力になれることがあれば嬉しいよ」
紗月はしばらく俺を見つめていた。
その表情には、いつもの落ち着いた笑顔とは少し違う、説明しにくい柔らかさがあった。
「……ありがとうございます、遥輝様。そのお言葉、覚えておきます」
「うん。いつでもどうぞ」
俺は笑って頷き、紅茶を一口飲んだ。
その直後、紗月が何か思いついたように小さく笑う。
「では早速、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。何だい?」
「今夜は、いつもより少し早めにお休みくださいませ。ここ数日、ご友人の恋愛が気になって、夜更かしなさっているようですから」
「……おや。そこへ来るのかい?」
「はい。私自身のお願いでございます」
紗月は澄ました顔でそう答えた。
俺は思わず笑い出してしまう。まったく、この少女にはかなわない。真面目な話をした直後に、こんなふうに自然と冗談を交えてくるのだから。
「分かったよ。今日は早めに休むことにしよう。君にも明日の予定があるだろうしね」
「ありがとうございます。それでは、お飲み物が冷めないうちにどうぞ」
紗月は満足そうに微笑んだ。
窓の外では、夜風が庭木を揺らしていた。部屋の中には紅茶の香りが漂い、いつもと変わらない穏やかな時間が流れている。
やがて紗月が仕事へ戻るために立ち上がったとき、俺のスマートフォンが小さく震えた。
画面には、孝太からのメッセージが表示されている。
『今日、朝倉さんと明里と話して、少し安心したよ。二人とも噂のことを気にしてたみたいだけど、ちゃんと相談できた。あと、二人が普通に話してるのを見て、僕もちょっと嬉しかった』
俺は思わず微笑んだ。
朝倉さんと明里。互いに同じ人を好きになった二人が、自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ相手のことも理解しようとしている。
それは、最初に俺が想像していた三角関係とは少し違う形だった。
けれど、だからこそ面白い。
人間は誰も同じではない。好きになる理由も、嫉妬の仕方も、相手との距離の取り方も違う。誰かの恋愛を眺めていると、その違いが次々と見えてくる。
そして、今日の俺は一つ学んだ。
恋愛に勝者と敗者を決めつけるのは、まだ早すぎる。
もっと言えば、誰かが誰かを好きになったというだけで、それを競争にしなければならない理由なんてないのかもしれない。
(……いやあ、本当に奥が深い。朝倉さんも明里も、俺の予想とは違う方向へ進んでいく。孝太だって、少しずつ頼もしくなっている。これは、ますます目が離せないな)
俺はスマートフォンへ返信を打ち、そっと机に置いた。
親友の恋愛はまだ続く。
答えが出る日がいつになるのかは、今の俺にも分からない。
それでいい。
分からないからこそ、楽しみなのだ。
……もっとも、他人の恋愛ばかり気にしている俺自身が、いつか誰かから同じように観察される側になるなど、このときは想像すらしていなかったのだけれど。




