第7話
第一演習ダンジョンの実習を翌日に控え、教室には普段より重い空気が残っていた。
地下演習区画で起きたことは、設備事故として生徒たちへ伝えられている。それでも一部の区画が封鎖され、補助教員が廊下に立っていれば、何かあったことまでは隠せない。
カナメたちが教室へ入ると、いくつかの視線が集まった。
「またあの四人か」
「今度は何を壊したんだ?」
小声は聞こえていた。
ガイが振り返ると、声の主たちはすぐに目をそらす。
「放っとけ」
カナメは自分の席へ向かった。
妙な目で見られることには慣れている。今回は一人ではなく、四人まとめて見られているだけだった。
セラが机の上へ装備確認表を広げる。
「水、携帯食、救難信号、包帯、白墨、測定縄、予備灯。忘れ物はない?」
ガイは面倒そうな顔をしながらも、自分の荷物を開いた。ツムグも外套の内側を確かめる。右の人差し指には、まだ薄い保護布が巻かれていた。
「検査は?」
カナメが尋ねる。
「異常なし。千糸も普通に使える」
ツムグは指を軽く曲げた。
「それならいい」
鐘が鳴り、城戸先生が教室へ入ってきた。
「再調査の結果を伝える」
私語が止まる。
「第一演習ダンジョンの第一区画から第三区画までを調査した。魔力濃度、魔物の生息数、管理術式に大きな異常はない」
城戸先生は黒板へ簡略化した地図を貼った。
「ただし、内部構造が変化している箇所がある。第二区画から先で、地図と一致しない部分が増えている」
教室の空気がわずかに揺れる。
「実習は行う。範囲は第二区画まで。再調査で確認した経路から外れるな。各班には補助教員を一人つけ、救難信号の監視も増やす」
セラが地図を見上げた。
「実習中に変化が見つかった場合は?」
「その時点で中止する」
返答は短かった。
「地図と違う場所、黒い変色、原因不明の振動を見つけたら止まれ。信号を使い、補助教員を待て。勝手に調べるな」
城戸先生の視線がツムグへ向く。
ツムグは何も言わず、両手を少し上げた。
「課題より帰還を優先しろ。以上だ」
◇
翌朝、第一演習ダンジョンの入口には、実習へ参加する生徒たちが集まっていた。
石造りの門には管理用の術式が幾重にも刻まれ、その奥には非常時に降ろす鉄製の防壁が収められている。門前では教員と補助教員が装備を調べ、班ごとの帰還予定時刻を記録していた。
門の向こうから流れてくる風は冷たい。湿った土と苔の匂いが混じり、暗がりから落ちる水音は一定しない。
学院地下の演習区画とは、空気から違った。
本物のダンジョン。
ここは、学院ができる前から存在していた場所だ。
「緊張してる?」
セラが尋ねる。
「結構」
「なら大丈夫そうね」
「基準が分からない」
「緊張してない方が心配だから」
肩のスピカが短く鳴いた。
ガイは破城を具現化し、肩へ担いでいる。ツムグは門の石材へ指先を触れた。
「何かある?」
「今のところは、ただの洞窟や」
ツムグは手を離した。
「入るぞ」
城戸先生の合図で、四人は門をくぐった。
◇
隊列はガイ、セラ、カナメ、ツムグの順だった。
スピカが先行し、千糸が後方と脇道を警戒する。カナメは中央から全体を見る。
担当の補助教員は、十数歩離れて後方を歩いていた。危険が迫れば介入するが、通常の判断は生徒に任せることになっている。
第一区画は、自然の洞窟へ石材の補強を加えた通路だった。天井は場所によって高さが違い、破城を縦に構えられないほど低い場所もある。
スピカが戻り、尾羽で正面の曲がり角を示した。
「小型が四体。床近くを移動してる」
カナメは通路の幅と天井を見る。
「ガイは正面を止めて。ツムグは三体まで足を取れる?」
「いけるで」
「残りはセラとスピカに任せる」
ガイが破城を肩から下ろした。
「俺様一人で足りる」
「横に振ったら糸も壁も巻き込む」
ガイは天井を一度見た。
「分かってる」
破城を斜めに構える。
ツムグの糸が床すれすれに張られた。
セラがスピカを曲がり角の奥へ送る。青白い光が瞬き、甲殻を持つ鼠型の魔物が四体、通路へ飛び出してきた。
一体目が糸を越える。
二体目。
三体目。
「今や」
ツムグが指を引いた。
三体の前脚が絡み、石床へ折り重なる。
「ガイ!」
カナメの声と同時に、ガイが破城を斜めに振り下ろした。
折り重なった三体がまとめて石床へ叩きつけられる。
甲殻が砕け、三体の動きが止まった。
最後の一体が壁際を抜ける。
「右へ来る!」
カナメが声を飛ばす。
セラはスピカを見上げなかった。
視界の端で光羽の位置を捉えたまま踏み込み、短剣で魔物の目を狙う。
一撃では止まらない。
飛びかかった背へ、スピカの光羽が突き刺さった。
魔物の身体が石床を滑る。
誰も怪我をしていない。
糸も切れていない。
破城も壁へぶつかっていなかった。
「次」
ガイが前を向いたまま言う。
カナメは少し遅れて歩き出した。
指示を聞いた。
それだけのことが、以前とは違っていた。
曲がり角の先には、小さな石柱が立っていた。
セラが刻印を確かめ、差し込まれていた確認標識を引き抜く。
「一つ目、回収したわ」
記録板へ印をつけ、四人は先へ進んだ。
◇
第二区画へ入ると、通路は地下水路へ変わった。
足元を浅い水が流れ、左右の岩壁は高く切り立っている。天井までは十数メートル。上部には細い岩棚が天然の梁のように延びていた。
スピカが急に高度を下げる。
「上に三体!」
セラの声と同時に、岩肌と同じ灰色の影が動いた。
長い腕。岩を削る黒い爪。厚い毛皮に覆われた猿型の魔物が、三方向から壁を蹴る。
一体がガイへ飛びかかった。
破城が横から迎え撃つ。
岩爪猿は刀身へ爪をかけ、そのまま上へ跳んだ。重い剣を足場にし、ガイの頭上を越える。
「後ろ!」
カナメは片手剣を抜いた。
二体目がツムグへ向かう。千糸が前へ走るが、爪に引っかけられ、数本がまとめて切られた。
ツムグが後ろへ跳ぶ。
三体目は岩壁を蹴り、セラへ落ちる。
「セラ、伏せて!」
カナメは脚へ心装力を流した。
水を蹴り、魔物の進路へ飛び込む。
振り下ろされた爪を片手剣で受け流した。衝撃で腕が沈み、刃先が水面を裂く。
正面からは受け切れない。
力に逆らわず身体を回す。
岩爪猿の腕が脇を抜けた。
カナメは踏み込み、空いた脇腹へ片手剣を振り抜いた。
硬い。
刃は毛皮を裂いたところで勢いを失った。厚い筋肉に押し返され、浅い傷しか残らない。
だが、爪を受け流された勢いまでは殺せなかった。岩爪猿の着地が崩れる。
「ガイ、足元!」
ガイが一歩踏み込む。
破城が岩爪猿の胸を捉えた。
刃が深く入ったようには見えなかった。
次の瞬間、岩爪猿の巨体が大きく折れる。
胸の奥で鈍い破裂音が続き、背中側の毛皮が不自然に膨らんだ。魔物は岩壁へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
訓練場で見た一撃とは違う。
破城は表面を斬っただけではない。触れた場所から、破壊を奥へ通していた。
残る二体が左右の岩棚へ逃れる。
「上へ行くで!」
ツムグが切れた糸を消し、別の千糸を右側の岩爪猿へ飛ばした。
一本が右腕へ巻きつく。続けて腰と左脚にも糸が絡んだ。
ツムグは両脚を強化し、腰を落とす。
「落ちろ!」
腕を引く。
張り詰めた千糸が低く鳴った。
岩棚へかかっていた指が外れ、岩爪猿の巨体が壁から引き剥がされる。
カナメは落下する魔物へ向かって走った。
岩爪猿が石床へ落ちる。着地の衝撃で両脚が沈み、上体が前へ傾いた。
カナメは片手剣を両手で握る。
狙うのは、ツムグに引かれて開いた胸元。
脚から両腕へ身体強化をつなぐ。
最後の一歩で深く踏み込んだ。
全身の重みを乗せた剣先が、岩爪猿の胸へ突き刺さる。
先ほどは刃を押し返した筋肉が、今度は大きく沈んだ。
剣先が止まる。
カナメは柄を押し込み、さらに一歩踏み込んだ。
剣先を止めていた硬い手応えが砕ける。
岩爪猿の身体から力が抜ける。
カナメはすぐに剣を抜き、倒れる巨体から離れた。
最後の一体が岩棚からセラへ飛びかかる。
セラは避けなかった。
周囲を飛んでいた光羽が、岩爪猿の顔へ集中する。
魔物が腕を上げ、目をかばった。
「スピカ!」
白銀の小鳥が翼を畳む。
長い尾羽が光の軌跡を引き、岩爪猿の側面へ回り込んだ。
岩爪猿が腕を下ろしたときには、スピカは喉元へ迫っていた。
嘴の先に、青白い光が集まる。
「星嘴!」
白銀の閃光が喉元を貫いた。
岩爪猿の身体が空中で傾き、岩壁へ激突する。
水路へ落ちた巨体は、もう動かなかった。
しばらく、水の流れる音だけが残った。
ガイは破城を肩へ戻した。
カナメも剣についた血を水で払い、鞘へ収める。
「先へ進もう」
四人は隊列を整え直し、水路の奥へ進んだ。
◇
水路を抜けた先は、開けた地下沼だった。
中央は、足首から膝ほどまで沈む泥に覆われている。
右手には、沼の奥まで続く乾いた岩場がある。左手には背の高い岩柱が三本並んでいた。
二つ目の確認標識は、沼の奥にある崩れた石台のそばに立っている。
その周囲に洞窟蜥蜴が四体。
泥の表面からは、さらに四本の尾がのぞいていた。
残る二体は、左の岩壁に張りついている。
全部で十体。
「沼へは入らず、右の岩場へ移動しよう」
カナメは泥の深さと、魔物の位置を確かめた。
「ツムグは千糸で魔物の進行方向を限定して、岩場の正面へ集めて。セラはスピカを使って、泥の中の四体を誘き出せる?」
「ええ」
「ガイは岩場で待機。集まった群れを、破城で叩いて」
「まとめて寄越せ」
四人は右の岩場へ移動した。
スピカが沼の上へ飛ぶ。
光羽が泥の表面へ突き刺さった。
潜んでいた四体が泥を跳ね上げて姿を現す。標識の周囲にいた四体も、四人へ向かって走り出した。
「八体、正面から来る!」
セラが声を上げる。
ツムグの指先から千糸が広がった。
沼の中央と左の岩柱へ扇状に張られていく。
八体の洞窟蜥蜴は糸を避け、ガイの待つ岩場の正面へ集まり始めた。
残る二体は沼へ下りなかった。
左の岩壁を這い、岩柱を渡りながら四人の側面へ近づいてくる。
千糸の一本が震えた。
「横から二体や」
ツムグが左手を上げる。
六本の千糸が岩壁へ走った。
二体の洞窟蜥蜴が岩壁を蹴る。
飛びかかる直前、三本ずつに分かれた千糸が、それぞれの前脚と後脚、長い尾へ巻きついた。
ツムグは両脚を強化し、腰を落とした。
両腕を交差させるように引く。
二体の軌道が変わり、空中で正面からぶつかった。
甲殻同士が激突し、硬い音が響く。
ツムグは手を止めない。
「そっちは行き止まりや」
身体をひねり、二体を岩柱へ振り抜いた。
甲殻に覆われた身体が、重なったまま岩へ激突する。
岩肌が砕けた。
ツムグが両手を振り下ろす。
二体の洞窟蜥蜴は岩場へ頭から叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
正面では、八体の群れがガイへ迫っていた。
ツムグの千糸に進路を絞られ、互いの身体を押し合っている。
「今だ、ガイ!」
ツムグが誘導に使っていた千糸を解く。
「離れろ!」
三人が破城の軌道から退く。
ガイが右脚を踏み込んだ。
心装力が脚から腰、背中、両腕へ駆け上がる。
破城が横薙ぎに振り抜かれた。
刃が捉えたのは、先頭の一体だけだった。
甲殻が砕ける。
破壊の衝撃はそこで止まらない。
重なっていた二体目、三体目の身体まで、内側から弾けるように跳ね上がった。
後続も巻き込まれ、八体の群れがまとめて泥の中へ吹き飛ぶ。
沼全体が大きく波打った。
六体は泥の中へ倒れたまま動かない。
残る二体が、砕けた甲殻を引きずりながら立ち上がった。
一体はガイの右から岩場へ這い上がる。
もう一体は左へ回り、セラへ向かった。
「右は俺が止める!」
カナメが走った。
洞窟蜥蜴が尾を低く振るう。
カナメは身体強化を脚へ流し、迫る尾を跳び越えた。
着地と同時に片手剣を両手で握る。
洞窟蜥蜴が口を開いた。
カナメは牙の内側へ剣先を突き入れ、そのまま全身で押し込んだ。
切っ先が上顎を貫く。
魔物の身体が大きくのけぞり、泥の中へ倒れた。
左では、洞窟蜥蜴がセラへ飛びかかっていた。
光羽が魔物の顔へ集中する。
洞窟蜥蜴が目を閉じ、頭を振った。
セラはその横へ踏み込む。
短剣が甲殻の隙間から首の付け根へ入った。
洞窟蜥蜴は勢いを失い、セラの足元を滑って泥へ落ちる。
最後の一体が動かなくなった。
後方の補助教員は、最後まで動かなかった。
ガイが破城を肩へ戻す。
刀身には泥がついているだけで、刃こぼれ一つない。
「標識を取るぞ」
四人は沼を避け、右の岩場から奥の石台へ回り込んだ。
セラが周囲を確認してから、二つ目の確認標識を引き抜く。
「回収したわ」
これで課題は達成だ。
カナメが時計を確かめる。
帰還までの時間には余裕がある。
「戻ろう」
今度は誰も反対しなかった。
◇
帰路は、往路より静かだった。
倒した魔物の痕跡を避けながら、水路を抜け、第二区画の分岐へ戻る。
そこでツムグが足を止めた。
「ちょい待ち」
床へ残していた千糸を指先へ引き寄せる。
「ここ、さっきより遠ないか?」
セラが記録板を開いた。
往路では、水路の入口から分岐まで六十歩。
同じ歩幅で測り直す。
六十五歩あった。
「測定縄を出して」
セラとカナメが距離を測る。
記録の誤りではなかった。
補助教員も確認し、分岐の壁と床を見る。
「立ち止まるな。記録だけ取って帰る」
四人は隊列を崩さず、入口へ向かった。
通り過ぎる直前、スピカが何もない岩壁へ顔を向けた。
羽ばたきを止め、空中に浮かぶ。
「スピカ?」
セラが呼ぶ。
白銀の小鳥は首を傾げたあと、仲間の方へ戻った。
岩壁には細い亀裂すらない。
カナメにも何も見えなかった。
それでも、スピカは何度か後ろを振り返っていた。
◇
入口へ戻り、二つの標識と記録板を提出する。
担当教員は課題達成の印を押したあと、測定距離の欄で手を止めた。
「往路と復路で五歩の差?」
「全員で測り直しました」
セラが答える。
教員は同行した補助教員へ目を向けた。
「間違いありません」
城戸先生が記録板を受け取る。
数字を確かめ、門の奥を見た。
「今日はもう入るな。ほかの班も順次戻す」
出発を待っていた生徒たちから、不満の声が上がる。
城戸先生は説明せず、補助教員へ帰還命令を伝えた。
鉄製の防壁を下ろす準備が始まった。
◇
入口から遠く離れた第三区画。
今日の実習では、誰も足を踏み入れていない。
静まり返った通路の奥で、岩壁が低く軋んだ。
細かな砂がこぼれ、何もなかった壁に一本の亀裂が走る。
その奥から、冷たい空気が流れ出した。




