第6話
通路の向こうから現れた城戸先生は、塞がれた壁を一目見ただけで足を止めた。
その後ろには救助担当の教員が2人と、学院章の入った灰色の外套を着た補助教員が3人。誰も状況を尋ねるより先に動き、赤く明滅する救難信号の周囲へ警戒線を張っていく。
「負傷者は」
「いません」
セラが答えた。
カナメは左肩の固定帯へ触れた。模擬戦の痛みは残っているが、今回の騒ぎで新たに負傷した者はいない。
城戸先生の視線が4人を順番に通り、最後に石床へ置かれた短い糸で止まる。
「触れた者は」
「俺の千糸です」
ツムグが手を上げる。いつもの軽い調子はない。
「亀裂へ伸ばした糸をつかまれました。黒い染みは、糸の先から広がりました」
「身体への異常は」
「今のところは」
城戸先生が救助担当へ目を向ける。白い手袋をはめた教員がツムグを検査区画へ連れていき、別の一人が黒く染まった糸へ透明な筒をかぶせた。
筒の内側に青い光が満ちる。
黒い染みが、わずかに縮んだ。
「全員、下がれ」
カナメたちはさらに距離を取る。
教員が筒を封じ、補助教員へ渡した。受け取った男の表情が強張る。
黒い染みが動いたことに驚いたのか。それとも、別の理由があるのか。カナメには分からなかった。
「何があった」
城戸先生が尋ねる。
セラが記録板を開いた。最初に振動を感じた位置、確認標識を回収した順番、引き返した時刻、救難信号を使うまでを報告する。
ガイは黒い指と感知糸を切断し、破城で亀裂を塞いだ状況を補足した。ツムグは糸を通じて異物が入り込むような感覚があったと説明する。
カナメは最後に、亀裂の奥で小さな窪みを見たことを伝えた。
城戸先生は塞がれた壁へ目を向けたが、それ以上は尋ねなかった。
◇
事情聴取は、学院地下の医務区画で行われた。
4人は別々の部屋へ通され、同じ出来事を何度も尋ねられた。振動を感じた回数。亀裂の形。黒い指の本数。鳴き声の高さ。窪みが見えた位置。
質問をする教員は途中で2度入れ替わったが、全員が黒い指について直接の名称を口にしなかった。
知らないから言えないのか。
知っていて言わないのか。
判断できる材料はなかった。
窓のない部屋で最後の質問へ答え終えると、カナメは廊下へ出された。長椅子にはセラが座り、スピカを膝へ乗せている。
「終わった?」
「たぶん」
セラは隣の席を空けた。
カナメは腰を下ろし、亀裂の奥で見た窪みを思い返す。
鍵穴だったのかもしれない。
だが、無銘鍵は応えなかった。形が似ていただけの可能性もある。
「また一人で考えてる」
カナメはセラを見る。
「悪い。どこから話せばいいか分からなくて」
「分からないところからでいいの」
セラは隣へ座ったまま、返事を待った。
向かいの扉が開き、ガイが出てくる。
「同じことばっかり聞きやがる」
続いてツムグも出てきた。検査のために外套を脱がされ、両手の指には細い包帯が巻かれている。
「心装の奥へ、知らん手ぇを入れられたみたいやったわ」
笑みは戻っている。声だけが少し硬い。
「異常は?」
セラが尋ねる。
「今のところは。明日も検査やと」
城戸先生が廊下の奥から現れた。
「全員そろったな」
4人が立ち上がる。
「本日の訓練は終了。演習区画は閉鎖する。許可なく地下へ入るな」
視線が一瞬だけツムグで止まる。
「特に綾部」
ツムグは肩をすくめた。
「口外については」
城戸先生の声が低くなる。
「教員の調査が終わるまで、黒い亀裂と内部の存在について他班へ話すな。不必要な混乱を避けるためだ」
「隠すんですか?」
セラが尋ねる。
「確認できていない情報を広めない。それだけだ」
ツムグの笑みが薄くなる。
「来週の第一演習ダンジョンでの実習は?」
カナメが尋ねる。
「現時点では、判断は保留する」
城戸先生は4人を見渡した。
「明日、第一演習ダンジョンを再調査する。実習を行うかは、その結果を見て決める」
「中止にはしないんですか?」
セラが尋ねる。
「探索者を育てる以上、危険があるというだけで訓練は止められん」
城戸先生の声は低かった。
「だが、異常な危険がある所へ生徒を入れるつもりもない」
ガイも今度は口を挟まなかった。
「今日は帰れ。綾部は明日も検査。他の3人は通常授業だ」
城戸先生が一度言葉を切る。
「報告書は4人で一つ。明日までにまとめろ。同じ現場でも、見たものは違う。食い違いも消すな」
面倒な課題だが、悪くはない。
カナメに見えなかったものを、3人は見ているかもしれない。
逆も同じだった。
◇
夕方、4人は空き教室へ集まった。
机を寄せ、中央へセラの地図と4枚の記録用紙を広げる。
「最初から確認するわよ」
セラが筆を持った。
「振動を最初に感じたのは、ツムグだけ?」
「俺の糸だけやな。カナメは俺の反応を見た」
「ガイと私は気づいてない。次」
事実を一つずつ並べる。
誰が見たのか。
何を見たのか。
推測を含んでいないか。
城戸先生の指示どおり食い違いを確認すると、同じ場所にいたはずなのに、4人の記憶は少しずつ違っていた。
セラは亀裂の周囲でスピカの距離感覚が乱れたことを覚えている。ガイは破城を通じ、壁の向こうから押し返す力が一定ではなかったと感じていた。ツムグは、糸を通じて心装の内側へ入り込まれる感覚があったと表現した。
カナメに見えた鍵穴は、3人には見えていない。
「破城には染みが残っとらんかったんやな」
「ああ」
ガイが短く答える。
「俺の片手剣にもなかった」
カナメは糸が黒く浸食されていった時のことを思い返す。
「黒い染みは、亀裂へ入れた先端から広がってた。ガイが糸を切ったら止まった」
セラが記録板へ書き加えた。
「原因は不明。確認できたのはそこまでね」
話し合いは思ったより長く続いた。
セラは3人の言葉を整理し、曖昧な部分があれば何度でも聞き直した。
別々に見たものが、少しずつ一枚の報告書へ集まっていく。
セラが報告書の最後を指した。
「再発時の対応」
「教員へ即時報告。誰も亀裂へ触れない」
カナメが答える。
「千糸も奥へ入れへん」
ツムグが続けた。
「安全が確認されるまで近づかねぇ。それでいいだろ」
ガイの言葉を、セラが最後の欄へ書き込んだ。
正しい対応だった。
それでも、カナメの脳裏には一瞬だけ見えた鍵穴が残っている。
窓の外では、日が沈み始めている。
第一演習ダンジョン実習まで、あと6日。
◇
夜になっても、地下演習区画の調査は続いていた。
崩れた石材は撤去され、亀裂の跡は幾重もの晶壁で囲まれている。
城戸先生が現場へ戻ると、補助教員が図面を広げた。
「亀裂の先を確認しました」
「途中から空間が閉じています。崩落ではありません。通路そのものが消えています」
城戸先生は図面へ目を落とした。
「通路ごと、別の場所へ移ったか」
図面に残された距離と角度をしばらく見つめる。
「第一演習ダンジョンも調べる。測量班を増やせ。古い図面も全部出せ」
「了解しました」
補助教員が図面を畳み、足早に通路を離れる。
別の教員が、封じた黒い糸の入った筒を差し出した。
「こちらはどうしますか」
「検査室へ回せ。糸に残った付着物を調べろ」
教員が筒を持って離れる。
城戸先生は晶壁の前へ立った。
亀裂の先は、不気味なほど静かだった。




