第5話
誰もいなくなった演習通路で、石壁がごく小さく震えた。
その振動は床を伝い、壁際に残された一本の糸へ触れる。
先を歩いていた綾部ツムグの右手が止まった。
カナメは、すぐ後ろを歩いていたから気づいた。指先がわずかに引かれ、普段なら絶やさない笑みが一瞬だけ消えたことにも。
「どうしたんだ?」
「何がや?」
問い返すまでが早すぎた。
ツムグは歩調を変えず、通路の先へ視線を向けている。だが、右手の人差し指だけが背後から伝わる何かを確かめるように、細かく動いていた。
「さっきの壁だろ」
今度は返事がなかった。
先頭を歩くガイと、その後ろで地図を確認しているセラは、まだ会話に気づいていない。少し先ではスピカが淡い光を残しながら、次の曲がり角を調べていた。
ツムグが小さく息を吐く。
「壁がちょい揺れただけや」
「配管だったんじゃないのか?」
「配管かて揺れるやろ」
理屈としては通る。ただし、本当にそう思っている顔には見えなかった。
カナメは来た道を振り返る。通路は緩く曲がっていて、先ほどの壁はもう見えない。
「城戸先生に報告しよう」
「何を? 壁が一回震えました、言うんか」
「図面にない場所で、原因不明の振動があっただろ」
「せやから、古い設備かもしれへんやろ」
ツムグの指が、もう一度引かれた。
今度は先ほどより強い。
袖口から伸びる糸が、わずかに張った。
その直後、糸が切れた。
音はしなかった。ただ、張りつめていたツムグの指だけが不自然に跳ねる。
彼は足を止めた。
「切れたのか?」
「……古い糸やったんや」
つい先ほどの訓練中に具現化したばかりの心装が、古いはずはない。
カナメが口を開くより先に、前方からセラの声が飛んだ。
「カナメ、ツムグ。遅れてるわよ」
ガイも振り返り、苛立ったように破城の柄を鳴らす。
「何ちんたらしてやがる」
「今行く」
カナメが答える横で、ツムグはすでにいつもの笑みを取り戻していた。
「怪我人に合わせとっただけや」
「俺のせいにするなよ」
軽口を返しながら、ツムグは歩き出す。
その右手は外套のポケットへ入ったままだった。
◇
残りの確認標識は、予定された通路上にあった。
2つ目は低い天井の奥、3つ目は模擬崩落区画の手前。セラが地図とスピカの経路を照合し、ガイが瓦礫をどかし、ツムグの糸が足場を補助したことで、大きく時間を失わずに回収できた。
4人の動きは、最初の戦闘よりわずかに噛み合っていた。
ガイは曲がり角へ入る前に一度止まり、セラの報告を待つようになった。ツムグは破城の軌道を避けて糸を張り、セラもスピカへ意識を向ける間は壁へ背を預け、自分の足を止める場所を選んでいる。
さっきまでなら、それぞれの改善を面白いと思えたはずだった。
だがカナメの意識は、最後尾のツムグへ何度も引かれた。
彼は役割を果たしている。危険な罠を2つ見つけ、足場の崩れも事前に知らせた。手を抜いている様子はない。
それでも、分岐へ糸を残すたび、そのうち一本だけを来た道へ深く伸ばしていた。
出口を確保するための感知糸にしては、向きが違う。
どの糸も、先ほどの壁へつながろうとしている。
「ツムグ」
3つ目の確認標識を記録し終えたところで、カナメは呼び止めた。
「残した糸で、何を調べてる?」
セラが記録板から顔を上げる。ガイも破城を担ぎ直し、ツムグへ視線を向けた。
ツムグは困ったように笑った。
「仕事熱心な遊撃やろ。退路の確認や」
「出口は反対だ」
笑みが薄くなる。
「俺の糸を一本ずつ数えとったんか。趣味悪いで」
「数えたんじゃない。全部、同じ方向へ伸びてたんだよ」
セラが来た道を見る。
「あの壁?」
ツムグは答えない。
「何か見つけたのなら言いなさい」
「まだ何も分かってへん」
「……なら、分からないことを共有して」
セラの声は強くない。だが、逃がすつもりもなかった。
ツムグの視線が3人を順番に移る。ガイは苛立ち、セラは警戒し、カナメは返事を待っている。
「教師へ報告したら、すぐ封鎖される。何があったかも分からんままや」
「だから黙って調べたの?」
ツムグは答えなかった。
カナメには、自分で確かめたくなる気持ちは理解できた。だが、危険がツムグ一人で済む保証はない。
「壁の向こうから、何が返ってきたんだ?」
「振動や。一定やない。機械でも水でもない。糸は向こうから引かれた」
ガイが破城を肩から下ろす。
「それを先に言え」
「言うたら戻るやろ」
「当たり前だ!」
怒声が通路へ響いた直後、足元から振動が返ってきた。
どくん。
4人とも動きを止める。
水滴の音ではない。機巧獣の駆動音でもない。低く、重い震えが石床を通り、靴底から身体へ伝わった。
間を置いて、もう一度。
どくん。
スピカが警戒するように鳴き、来た道へ身体を向ける。
「壁の方ね」
セラが記録板を閉じた。
「課題は終わり。戻って報告する」
ツムグが何か言いかけたが、今度はガイが先に動いた。
「行くぞ。正体が何だろうが、戻る道にいるなら放っとけねぇ」
4人は来た道を引き返した。
◇
壁の前へ戻るまでに、通路は変わっていた。
先ほどまでは何の変哲もなかった石壁に、縦一筋の黒い亀裂が走っている。その周囲だけ苔が枯れ、床には濡れたような染みが広がっていた。
セラが全員を手で制し、スピカを先行させる。
白銀の小鳥は亀裂へ近づいたが、手前で急に高度を上げた。尾羽の光が乱れ、何かを嫌がるように旋回する。
「空間が変だって」
セラは感覚を言葉へ置き換えようとし、短く息を詰めた。
「向こうまでの距離が、うまく分からないみたい」
壁の厚さは1メートルもないはずだ。だが亀裂から流れ込む空気は、深い洞窟の底から吹き上がってくるように冷たい。
ツムグが指先から新しい感知糸を伸ばした。
「待て」
カナメが手首をつかむ。
「黙って奥まで伸ばすな。何かあったら、すぐ言ってくれ」
ツムグは亀裂を見たまま、小さく息を吐いた。
「……振動だけ見る。引かれたらすぐ切る」
糸が亀裂へ入り込む。
「2メートル。まだ空洞や」
銀灰色の糸が、暗闇へ吸い込まれていく。
「5メートル。下り坂。壁に触れへん」
あり得ない。
学院の図面どおりなら、その先は厚い地盤で、空洞が続く余地はない。
「10メートル……まだ先がある」
ツムグの笑みは完全に消えていた。
「何か触れた」
「戻せ!」
カナメが言った瞬間、糸が強く張った。
ツムグの身体が亀裂へ引かれる。
ガイが外套の襟をつかみ、力任せに引き戻した。セラはスピカを亀裂の上へ回し、光羽を構えさせる。
「切れ!」
「切っとる!」
ツムグの指が動く。しかし糸は消えない。
「向こうで絡まれた。糸の操作を乗っ取られとる!」
心装の糸を通じ、何かがこちらへ干渉している。
亀裂の内側から、濡れたものが石を擦る音がした。
黒い指が1本、隙間から現れる。
人間のものに似ているが、関節の数が多い。枝分かれした指先が、感知糸へ絡みついていた。
黒い染みが糸を伝い、ツムグの指先へ近づいてくる。
「手ぇ離せ!」
ガイが壁際へ踏み込む。
破城を振り下ろし、黒く染まりかけた感知糸を壁際で断つ。
ツムグの身体を引いていた力が消えた。
「糸、戻せるか」
「もういける」
ツムグが腕を引く。通路へ残していた感知糸が一斉に指先へ戻った。
亀裂からなお出ようとしてくる黒い指へ、スピカの光羽が降り注ぐ。
青白い光を受けた指は身をよじり、焼けた泥のように崩れた。
亀裂の奥で、低い音が鳴る。
今度は三本の指が押し出され、壁の表面へ根のように広がった。
「まだ来る!」
カナメは片手剣を抜き、ツムグの手元へ伸びた一本を斬る。刃へ黒い汚れが付いたが、剣が勝手に動くことはなかった。
狙われているのは千糸だ。
黒い指は切断された感知糸の先を探し、亀裂の周囲を這い回っている。
「残っとる糸は全部戻した。もうつながっとらん!」
ツムグが後退しながら、清浄な糸を壁の手前へ張る。黒い指へ直接触れない位置で石材を支え、崩落に備えた。
セラは短剣を構えたまま、スピカを亀裂の上へ回す。
光羽が黒い指だけを狙い、一本ずつ焼き落としていく。
ガイが破城を立て直した。
「まとめて押し戻すぞ!」
刀身の広い面を亀裂へ叩きつける。
残った黒い指が壁との間で潰れ、亀裂の奥へ押し込まれた。
ガイは心装力を両脚から肩へつないだ。そのまま破城を盾のように押し込み、内側から返ってくる力を受け止めた。
カナメは目へ身体強化を流す。
刀身の脇から出ようとする黒い指は、ばらばらに動いているようで、伸びる直前だけ同じ場所へ縮んでいた。
亀裂の奥。
そこに、小さな窪みが見えた。
機巧獣の停止円盤で見たものに似ている。
鍵穴。
そう思った瞬間、破城がさらに深く押し込まれた。黒い指が引き、窪みも暗闇へ消える。
「今や!」
ツムグが糸を引く。
亀裂の周囲へ張った糸が、崩れかけた石材を内側へ傾けた。
セラの光羽が刀身の脇へ集まり、最後まで残った黒い指を焼き切る。
「引け!」
ガイが破城を壁から離した。
支えを失った石材が内側へ落ち、最後に太い岩が亀裂を塞ぐ。
振動が止まった。
通路には4人の荒い呼吸と、石粉が落ちる音だけが残る。
ツムグは床へ落ちた短い糸を拾った。
ガイが断ち切った感知糸の先端だけが、黒く染まっている。
「それで、どうすんだ」
険しい視線はツムグではなく、瓦礫に塞がれた亀裂へ向けられていた。
「報告するしかないやろ」
ツムグは指先に残った糸を見下ろした。銀灰色だった糸の一部が、黒く染まっている。
「振動のことも、糸を通じて干渉されたことも、この染みも。隠して済ませられる段階やない」
セラが小さく頷き、救難信号を取り出した。
「課題は中止。全員でここに残って、救助班を待つわ」
「異論はねぇ」
ガイが壁の前へ立つ。亀裂がもう一度開いた場合に備えるつもりらしい。
ツムグは黒く染まった糸を切り離し、石床の上へ置いた。
「証拠品や。触らん方がええ」
軽口の調子は戻っていたが、その目は笑っていなかった。
セラが救難信号を作動させる。
赤い光が天井近くへ上がり、一定の間隔で明滅を始めた。
訓練課題は失敗になる。
それでも、誰も異論を口にしなかった。
◇
救助班を待つ間、カナメは崩れた壁を見ていた。
一瞬だけ見えた窪みは、機巧獣の停止円盤にあったものとよく似ていた。
鍵穴だったのかもしれない。
確かめるには、見えた時間が短すぎた。
◇
救助班の足音が近づく。
ツムグは石床へ置いた黒い糸を見下ろした。
振動。
糸を伝って入り込んだ力。
触れた場所から広がる黒い染み。
報告すべきことを、頭の中で順番に並べていく。
ただ一つを除いて。
これと同じものを、以前にも見たことがある。
その事実だけは、まだ誰にも話すつもりはなかった。
ツムグは塞がれた壁へ目を向ける。
「やっぱり、同じやったか」
「何が?」
カナメが振り返った。
聞かれたか。
ツムグは一拍置いてから、いつもの笑みを浮かべた。
「救助が早くて助かった、言うたんや」
カナメの目は疑っている。それでも、問い返すより先に、通路の向こうから城戸先生の声が響いた。
ツムグは黒い糸から目を離した。
今はまだ、話すときではない。




