第4話
模擬戦の翌朝、御門カナメは左肩に薄い固定帯を巻いて教室へ入った。
治療担当の見立てでは打撲。右足首にも軽い捻挫があったが、歩けないほどではない。身体強化は患部へ負担をかけるため、今日一日は使用禁止を言い渡されていた。
勝った代償としては軽いのかもしれない。
教室の後方にはガイがいた。椅子へ浅く腰かけ、窓の外を睨んでいる。カナメが入ってきても、視線は動かなかった。
「おはよう」
声をかけてみる。
「……チッ」
返事かどうかは微妙だった。
それでも無視されなかっただけ、昨日よりは前進しているのかもしれない。
自分の席へ向かう途中、細いものが足首へ触れた。
反射的に止まる。
床すれすれに、一本の糸が張られていた。朝の光をわずかに反射しなければ、気づかず足を取られていただろう。
「惜しいなぁ」
窓際の席で、綾部ツムグが頬杖をついていた。昨日と同じ、人当たりだけはよさそうな笑みを浮かべている。
「怪我人を転ばせるつもりだったのか?」
「人聞き悪いわ。気ぃつけて歩けるか試しただけや」
「それを罠って言うんじゃないか」
「ちゃんと気づいたんやから、結果よしやろ」
ツムグが指を軽く曲げると、床に張られていた糸が音もなく浮かび、その指先へ吸い込まれて消えた。
昨日握手したとき、指に細かな傷があった。刃物か工具を扱うためだと思ったが、糸を操る訓練でできたものなのかもしれない。
「それが心装?」
「せやで」
ツムグは机の上へ片手を置いた。
「心装起誓。千糸」
指先から、銀灰色の糸が数本伸びる。
髪より細い糸は机の脚を巡り、隣の椅子を通り、離れた窓枠へ絡みついた。光の加減で見え隠れするため、全体がどこまで広がっているのか分かりにくい。
「変化型。指先から糸を出して、太さも硬さも変えられる。張っとけば触れたもんも大体分かる」
説明しながら、ツムグは一本だけ太くした。細い糸は瞬く間に紐ほどの太さとなり、椅子を軽々と持ち上げる。別の一本は机上の鉛筆へ巻きつき、手元まで運んできた。
力が強いだけではない。複数の糸を、異なる太さと張力で同時に操っている。
罠にも、拘束にも、足場にも使える。狭い場所では特に厄介そうだった。
「使い道が多そうだな」
ツムグは持ち上げた椅子を静かに戻し、カナメを見た。
「昨日から、よう見とるなぁ」
教室の扉が開き、七瀬セラが入ってきた。肩のスピカが先にカナメを見つけ、固定帯へ視線を落として短く鳴く。
セラも同じ場所を見たが、今朝は何も言わなかった。代わりにカナメの机へ紙を置く手つきが、普段より少しだけ乱暴だった。
「自分の席は向こうだろ」
「分かってるわよ。配る資料を置いただけ」
机上に置かれた紙には、第一次ダンジョン実習と記されていた。
教室の空気が一気に変わる。
◇
鐘が鳴ると同時に、城戸先生が入ってきた。
私語が止まる。城戸先生は全員が着席したことを確かめ、黒板へ4つの項目を書いた。
前衛。
索敵。
指揮。
遊撃。
「来週、第一演習ダンジョンで実地訓練を行う。本日から4人一組で準備へ入れ。午後は地下演習区画で訓練だ。第一演習ダンジョンと違って、こちらは既に機能を失ったダンジョンだが、油断はするな」
教室のあちこちで視線が行き交った。仲のよい者同士で組めると考えた生徒もいたようだが、城戸先生は名簿を開く。
「班はこちらで決めた」
期待の声が消えた。
「役割は状況によって変わる。まずは自分の仕事を覚えろ」
呼ばれた生徒が、順番に教室の四隅へ分かれていく。
やがて城戸先生が、カナメにとって嫌な予感しかしない4人の名を読み上げた。
「獅堂ガイ。七瀬セラ。綾部ツムグ。御門カナメ」
教室が少しざわついた。
ガイはカナメを睨んだ。
「獅堂。前衛。敵を引き受けて道を開け」
「俺様以外に誰がいる」
「七瀬。索敵。スピカを先行させ、経路を記録しろ。判断を一人で抱えるな」
「はい」
「綾部。遊撃。感知、罠、拘束、足場と退路の確保」
「随分こき使われそうですなぁ」
「お前の糸なら回せるだろう」
ツムグの笑みがわずかに薄くなった。
「買いかぶりやと思いますけどね」
「御門。指揮。全体を見ろ。気づいたことはすぐ伝えろ」
ガイが立ち上がる。
「俺様にこいつの指図を聞けってのか?」
「御門の仕事は情報を出すことだ。どう動くかは戦場で判断しろ」
指揮といっても、3人を従わせる立場ではない。
判断に必要な情報を拾い、声にする。それが今のカナメに任された役目だった。
模擬戦で一本取っても、力を認められたわけではない。カナメは小さく息を吐いた。
「今日は役割確認と、班ごとの隊列訓練を行う。仲良くする必要はない。判断と行動を共有しろ」
班員。
まだ仲間ではない。
その距離感が、今の4人にはちょうどよかった。
◇
午後、4人は学院地下の演習区画へ移動した。
アルセリア学院の地下には、かつて休眠した小規模ダンジョンの浅層部を整備して造られた演習区画がある。
壁や床の大半は学院によって補強され、罠や可動壁も訓練用に置き換えられている。第一演習ダンジョンへ出る前に、隊列や探索手順を学ぶための安全な施設だ。
少なくとも、生徒たちはそう教えられていた。
石造りの通路には枝分かれした脇道、低い天井、崩落を模した瓦礫、感知すると塗料を飛ばす模擬罠が配置されている。課題は20分以内に3つの確認標識を回収し、出口へ戻ること。魔物役として小型の機巧獣も数体放たれていた。
「俺様が先頭だ。来い」
説明が終わるなり、ガイが歩き出す。
「待ちなさい」
セラが呼び止めた。スピカはすでに通路の先へ飛び、曲がり角の向こうを探っている。
「正面に2体。右の脇道にも何かいる」
カナメは通路の幅と、右の脇道までの距離を見る。
「正面へ入る前に、右を確かめよう。挟まれる」
「スピカを回すわ」
セラが指先を右へ向ける。
白銀の小鳥が高度を落とし、脇道へ入った。
「小型が1体。こっちへ来る」
「全部潰せば同じだろうが」
ガイは速度を落とさない。
ツムグが後方で指を振った。細い糸が通路の両壁へ伸び、ガイの前を横切る。
破城の切っ先が糸へ触れ、足が止まった。
「てめぇ、何しやがる」
「右から来るで」
直後、脇道から小型機巧獣が飛び出した。
ツムグの糸が前脚へ絡み、勢いのまま機巧獣を横転させる。糸は固く縛りつけるのではなく、脚が前へ出る瞬間だけ軌道をずらしていた。
ガイが破城を横薙ぎに振り抜く。
機巧獣の胴が装甲ごとひしゃげ、壁へ叩きつけられた。
正面から来た2体へ、スピカの光羽が降り注ぐ。一体が光を避けたところへセラが踏み込み、短剣で感知器を打ち抜いた。
残る一体が飛びかかる。
ガイは振り抜いた破城を大きく回し、足を踏み替えた。勢いを乗せた刀身が機巧獣を横から捉え、そのまま床へ叩き落とした。
戦闘は数秒で終わった。
壁際に張られていた糸が、何本か切れている。
「人の糸まで切りよったな」
「剣の軌道へ張るな」
ツムグは切れた糸を回収し、次は少し高い位置へ張り直した。
ガイも次の分岐では、踏み込む前に一度だけ左右を見た。
スピカが先の曲がり角で尾羽を振った。セラが記録板へ経路を書き込み、全員を手招きする。
「左が最短。正面は瓦礫で通れない」
4人は左へ進んだ。
最後尾を歩くツムグの指から、感知糸が石壁へ沿って伸びている。糸は通ってきた道を記録するように分岐へ残され、わずかな振動も拾っていた。
カナメは、ツムグの笑みが薄くなったことに気づいた。
だが、指先の糸は動きを止めていない。
壁の向こうへ向かって、一本だけが深く伸びようとしていた。演習通路の図面では、その先に部屋も通路もないはずだった。
ツムグが糸を軽く弾く。
返ってきたのは、足音でも機巧獣の駆動音でもない。
もっと低く、不規則な振動だった。
どくん。
間を置いて、もう一度。
まるで厚い壁の向こうで、何かが脈打っているような。
カナメが足を止める。
ツムグは先に糸を引いた。
「古い配管でもあるんやろ。急がんと時間切れやで」
笑みは戻っていた。
説明としてはあり得る。学院地下には、今は使われていない設備も多い。
けれど、ツムグは確認する前に糸を引いた。それまでの彼なら、正体が分かるまで調べ、使える情報かどうかを見極めたはずだ。
カナメは壁へ目を向けた。
石材の継ぎ目に不自然なところはない。ただ、その一角だけが周囲よりわずかに冷たく見えた。
気のせいかもしれない。
まだ材料が足りない。
「置いてくわよ」
先へ進んだセラが呼んでいる。
「今行く」
カナメは壁の位置を記憶し、3人の後を追った。
誰もいなくなった演習通路で、石壁がごく小さく震えた。




