第3話
個人実戦評価から3日後、アルセリア学院の第一訓練場には、普段より広い模擬戦区画が設けられていた。
床には有効範囲を示す白線が引かれ、壁際には治療担当の教員と補助員が控えている。生徒たちが身につけているのは、刃と打撃を軽減する訓練用防具。使用する通常武器も刃を潰した訓練用だが、心装の使用は許可されていた。
勝敗は、審判が有効と認める一撃を先に与えた側の勝ち。
単純な条件だからこそ、実力差をごまかしにくい。
御門カナメは対戦表の前で、自分の名前から伸びる線を目で追った。その先に書かれた相手の名を見つけ、しばらく動けなくなる。
獅堂ガイ。
見間違いを疑ってもう一度確認したが、文字は変わらなかった。
「朝から景気の悪い顔しとるなぁ」
横から、どこか楽しそうな声がした。
振り向くと、細身の男子生徒が対戦表を覗き込んでいた。少し長めの黒髪と、何を考えているのか分からない笑み。制服はきちんと着ているのに、立ち方だけが妙に気安い。
「初対面だよな?」
「せやな。綾部ツムグや。よろしゅう」
差し出された手を握る。指先には、細かな傷がいくつもあった。
「御門カナメ」
「そら知っとるよ。心装の名前が分からんかったやつやろ」
できれば別の理由で覚えられたかった。
ツムグは対戦表と、区画の向こうで準備をしているガイを交互に見た。ガイの傍らには、すでに巨大な大剣が立てかけられている。
「運が悪いんか、城戸先生に目ぇつけられたんか。どっちにしても御愁傷さまやな」
「まだ負けたわけじゃない」
「ほう」
口元の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「そういうこと言えるんやったら、見る価値はあるか」
ツムグはそれ以上話さず、観戦する生徒たちの方へ歩いていった。
カナメはもう一度ガイを見る。
正面から打ち合えば勝ち目はない。破城の一撃は訓練用防具で受けられる威力ではなく、通常の剣術でも身体強化でも、今のカナメは遠く及ばない。
それでも、完全に手がないとは思わなかった。
3日前に見えたものが、偶然でなければ。
◇
模擬戦は順調に進んだ。
攻撃型の心装を持つ生徒が押し切る試合もあれば、相手の射線や間合いを利用し、通常武器で一本を取る試合もある。城戸先生は勝敗よりも、試合後に本人が何を答えるかを重視しているようだった。
やがて、カナメの名前が呼ばれる。
「次。獅堂、御門」
訓練場の空気がわずかに変わった。
先に区画へ入ったガイは、具現化済みの破城を片手で持ち上げ、肩へ担いだ。巨大な刀身が動くだけで周囲の空気が押し退けられる。
「逃げ回るだけなら、最初から降参しろ」
カナメも訓練用の片手剣を抜き、区画へ入る。
「逃げ切れたら、それはそれで勝ちにしてくれるのか?」
「するわけねぇだろ」
「なら、逃げるだけじゃ終わらないよ」
ガイの口元が吊り上がった。怒ったのではない。ようやく多少は殴りがいのある返事が来た、という顔だった。
区画の外では、七瀬セラが腕を組んでいる。肩のスピカは落ち着かない様子で、白銀の翼を何度も浮かせていた。
セラと言葉を交わす余裕はない。代わりに一度だけ視線を合わせると、彼女はわずかに眉を寄せた。
無茶をするな。
声にしなくても、それくらいは分かる。
城戸先生が二人の間から下がった。
「始めろ」
ガイが床を蹴った。
速い。
カナメは心装力を目へ流した。視界がわずかに明るくなり、ガイの踏み込みに合わせて制服の下で隆起する筋肉、床を蹴る足の角度、身体を巡る力の偏りが、普段より鮮明に見える。
両脚へ集まった心装力が、踏み込みとともに腰へ上がる。そこから肩を通り、破城を握る両腕へ流れ込んだ。
力任せではない。心装力を移す速さも、一度に扱う量も、自分よりはるかに上だった。
破城が横薙ぎに振るわれる。
カナメは目の強化を解き、心装力を右脚へ移して後ろへ跳んだ。巨大な刀身が胸の前を通過し、風圧だけで防具が軋む。
着地と同時に左脚へ流し、姿勢を整える。
次が来る。
ガイは振り切った破城の勢いを腰と脚で受け止めた。
刀身を引き戻し、踏み込みながら斜め下から振り上げる。床すれすれを走った刃が、カナメの退路を削る。
横へ逃げる。だが、そこへガイの肩が迫っていた。
大剣だけを見ていた。
カナメは咄嗟に剣を立て、腕と腰を強化した。
衝撃を止めきれず、数歩分押し戻された。
右肩が痺れた。
「軽いな!」
ガイは体勢を崩さない。踏み込む足、押し込む肩、破城を戻す腕へと、心装力を淀みなく移している。
強い。
破城が強いだけではない。ガイ自身が、あの大剣を振るうための身体と技術を持っている。
カナメは舌の奥に広がる焦りを押し込み、もう一度目を強化した。
次の一撃は縦ではなく、肩口を狙った斜めの振り下ろし。両腕へ移った力が破城を加速させるが、刀身が床へ届く前にガイは腰へ流れを戻し、軌道を止めた。刃は深く食い込まず、隙も生まれない。
3日前とは違う。
城戸先生の指摘を受け、すでに修正している。
ガイは愚かではない。乱暴で自信過剰でも、正しいと判断したことを戦いへ取り入れる速さは並ではなかった。
「どうした、鍵野郎!」
破城の平らな腹が迫る。
避けきれない。
カナメは脚と胴へ同時に力を流し、後ろへ跳びながら剣で受けた。衝撃が腕から肩へ突き抜け、身体が床を転がる。
右肩を打った。
痛みはある。腕は上がる。折れてはいない。
立て。
ガイは待たない。
カナメは左脚で床を蹴って起き上がり、追撃の切っ先から逃れた。白線までは残り数歩。このまま下がれば場外になる。
攻撃は3度。縦の大振りはまだ一度もない。
最初から床まで振り抜かせようとすれば、ガイも警戒する。深く振る必要がない距離で避け続けている限り、あの隙は出ない。
なら、選ばせる。
カナメは意図的に右側の退路を狭めた。先ほど破城が削った床の亀裂を背にし、左側には白線が迫っている。正面から見れば、逃げ場を失ったように見える位置だった。
ガイの視線が足元を走る。
気づいた。
「ようやく終わりだな」
ガイが距離を詰める。
カナメは剣を正面へ構えた。受け止めるつもりに見せる。その実、目へ流した強化でガイの全身を追っていた。
両脚へ力が集まる。
踏み込み。
腰。
だが、次に流れた力は両腕ではない。途中で右肩へ偏り、破城が横へ薙がれた。
読まれた。
カナメは身を沈めたが、避け切れない。ガイは接触の直前に破城をわずかに返し、刃ではなく刀身の腹を向けた。
防具が衝撃を散らしても、巨体と大剣の重さまでは消せない。カナメの身体が半回転し、左肩に鋭い痛みが走った。
左腕が一瞬、言うことを聞かなくなる。握っていた片手剣が床へ当たり、乾いた音を立てた。
ガイは止まらない。横薙ぎの勢いを腰で受け止め、破城を引き戻す。
修正しただけではない。カナメが縦振りを待っていることまで、察し始めていた。
もう同じ誘い方は通じない。
肩が痛む。右肩も鈍く痺れ、左腕は上げるだけで熱を持つ。長引けば、先に動けなくなるのは自分だ。
それでも、見えたものがある。
ガイは攻撃を止めるとき、腕だけで破城を抑えているわけではない。腰と脚へ力を戻し、刀身の重さを身体全体で回収している。だから横薙ぎも斜め斬りも、すぐ次へつながる。
逆に言えば、回収できないほど深く、全力を乗せた一撃だけは別だ。
あの一撃を出させるには、ガイに「止める必要がない」と思わせるしかない。
カナメは剣を右手だけで構え直した。左腕が下がり、呼吸も荒れている。視線を白線へ向け、次に足元の亀裂を見た。
逃げ場を探しているように見えればいい。
ガイが踏み込む。
カナメは遅れて下がった。足がもつれたように見せ、亀裂の縁へ片膝をつく。
観戦していた生徒たちが息を呑んだ。
ガイの目が細くなる。
罠を疑ったのは一瞬だった。
だがカナメの左肩は実際に傷み、右腕も押し込まれている。演技だけでは作れない崩れが、最後の疑いを消した。
「終わりだ!」
ガイが破城を頭上へ振り上げる。
狙いはカナメの身体ではなく、構えた片手剣と、その足元。
剣を弾き、床を崩せば、カナメはもう動けない。あとは胸当てへ一撃入れれば終わる。
ガイの両脚から腰、背中、肩へ心装力が駆け上がった。
破城が落ち始める。
カナメは動かない。
早く避ければ、ガイは軌道を変える。
刀身が片手剣へ迫る。
ガイの重心が前へ移り、破城の重さが落下へ乗った。
もう止められない。
カナメは片手剣を引き、右脚で床を蹴った。
身体が横へ飛ぶ。
しかし、負傷した左肩がわずかに反応を遅らせた。破城の風圧が背中を叩き、切っ先が右脚の防具をかすめる。
着地が崩れた。
右足首に痛みが走る。それでも転ぶ前に力を左脚と腰へ移し、身体を支えた。
直後、破城が床へ激突した。
轟音が訓練場を揺らし、石片が跳ね上がる。刃は砕けた床へ深く食い込み、ガイの上体が前へ流れた。両腕へ集めた力を脚へ戻そうとするが、一瞬だけ間に合わない。踏み直そうとした足の下で、自ら作った段差が崩れた。
見間違いではなかった。
最大出力で床まで振り抜いたときだけ、必ず生まれる。
一歩ぶんの隙。
カナメは痛む右足で石片を踏み、前へ出た。踏み込みは浅い。それでいい。必要なのは破城を越え、ガイの懐へ届く一歩だけだった。
右脚から右腕へ心装力を移す。
大きく振りかぶる時間はない。
カナメは剣先を下げたまま懐へ潜り込み、腰の回転だけで訓練用の木剣を斜めに振り上げた。
木剣がガイの胸当てへ叩き込まれる。
乾いた打撃音が、訓練場に響いた。
ガイの巨体が半歩だけ後ろへ揺れる。
それまで破城が巻き起こしていた轟音に比べれば、小さな一撃だった。
だが、その一撃は確かに届いた。
「そこまで」
城戸先生の声が静寂を断った。
「有効打。勝者、御門」
どよめきが遅れて広がる。
カナメはすぐに距離を取りたかったが、右足首が痛み、半歩下がったところで膝をついた。勝った実感より先に、両肩と脚の痛みが戻ってくる。
ガイは破城を引き抜かず、胸当てについた小さな跡を見ていた。
「気にすんな、獅堂」
「実戦なら、とっくに御門が倒れてただろ」
「一本取られただけだって」
区画の外から声が飛ぶ。
ガイは舌打ちした。
力も速さも、自分が上だった。
正面から斬り合えば負けない。破城の腹を返さず、そのまま打ち抜いていれば、途中で終わっていた。
周りの言うことは間違っていない。
それでも、胸の跡は消えない。
カナメは追い詰められて、あの場所へ下がったのではなかった。
白線と亀裂の間へ自分から入った。片膝をついた姿まで見せ、破城を止める必要がないと思わせた。
最大の一撃を選ばされた。
狙って懐へ入られた。
ガイはもう一度舌打ちし、砕けた床から目をそらした。
運で取られた一本ではない。
それが、何より気に入らなかった。
城戸先生が二人の間へ入る。
「御門。自分で評価しろ」
カナメは痛む足を庇いながら立ち上がった。
「獅堂が全力で振り下ろした後だけ、次の一手のための強化が遅れます。そこへ入れました」
「続けろ」
「一度目の誘導は読まれました。横薙ぎを受けて左肩を痛めています」
左腕を動かすと、鈍い痛みが肩の奥を走った。
「それに、獅堂が接触の直前に破城を返していなければ、あそこで終わっていました。刃ではなく刀身の腹で打たれたから、戦いを続けられたんです」
ガイがわずかに眉を動かす。
「最後の振り下ろしも、避けるのが遅れて右脚をかすめました。同じ条件でもう一度戦って、また勝てる保証はありません」
城戸先生が短く頷いた。
「悪くない」
その一言に、周囲が再びざわつく。
「御門。必要な一歩まで待てたことは評価する。負傷を前提にした誘いは直せ」
城戸先生の視線がガイへ移る。
「獅堂。途中までは修正できていた。最後だけ雑になった」
ガイは自分で砕いた床を見る。
「……次はやらねぇ」
「そうしろ」
城戸先生は補助員を呼び、二人を治療担当へ向かわせた。
区画の外へ出ると、セラが待っていた。カナメの左肩、右足、裂けた防具を順番に見て、何か言おうと口を開く。
だが結局、言葉は出なかった。
代わりにカナメの右腕を自分の肩へ回し、痛む足へ体重をかけなくて済むよう支える。
「歩けるよ」
セラの手に力が入った。
「……はい」
今は逆らわない方がよさそうだった。
◇
少し離れた壁際で、綾部ツムグは一部始終を眺めていた。
獅堂ガイが強いことは、見る前から分かっていた。あれほど大きな心装を扱いながら、身体強化の移動まで速い。同学年で正面から勝てる者は、そう多くないだろう。
一方の御門カナメは弱い。
剣術も強化も未熟で、最後には両肩と足を痛めている。何か一つ判断を誤れば、一本を取る前に終わっていた。
それでも勝った。
たまたま隙を見つけたのではない。3日前の記憶を持ち込み、今日の攻防で確かめ、獅堂が修正していると分かれば別の条件を探した。最後には、自分が追い詰められたように見せて、相手が最も強い一撃を選ぶよう仕向けている。
強い相手へ真正面から挑まず、その強さそのものを罠に変えた。
「……面白いやん」
ツムグは誰にも聞こえない声で呟いた。
視線の先では、七瀬セラがカナメを支え、ガイが砕けた床の前へ残っている。面倒そうな者ばかりだった。
できれば関わりたくない。
そう思ったはずなのに、ツムグは3人から目を離せなかった。




