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フェリチタの朝六時 ─鐘が鳴れば、住人はまた生き返る─  作者: 柊ナツキ


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第2話 善意注意

 

 ──マモルに近づかない。


 一度パン生地に飲まれて戻ってきたくらいで、人はそれなりに学ぶらしい。

 朝食を終える頃には、ルカはその決意を紙に書いて、胸に貼っていた。


 大きすぎるパーカーの胸元に、太い文字で『マモル禁止』。

 背中には『善意注意』。

 ついでに袖口には『大丈夫と言われたら逃げる』と書かれている。


「……それは服なのかい。それとも注意書きなのかい」


 カナタが紅茶のカップを片手に言った。


「命綱」


「ただの紙だろう」


「気持ちの問題なんだよ。お守りみたいなものなんだから」


 彼は昨日の死に方が相当こたえたらしい。

 栗色の跳ねた髪は今日も好き勝手に跳ねているが、目だけは朝六時に戻ってきた直後よりさらに真剣である。


 ちなみに今日は、頭には皿ではなく鍋蓋を乗せている。進歩しているのか、悪化しているのかは判断が難しい。


「昨日の皿よりは頑丈そうだけど、首から下は守れないね」


「そういうこと言うからメルちゃんは信用できないんだよ」


 ルカは鍋蓋を両手で押さえながら私を睨んだ。


 朝食広場は今日も穏やかだった。


 ここは、北にパン屋、東に花屋、西に時計塔への道、南に朝市を抱えた、街の胃袋みたいな場所だ。

 真ん中には掲示板と、私たちの座っている共有テーブルがある。そこから少し西へ寄ると、祭り飾りの旗紐と低い足場があった。


 広場と言っても、大通りのように距離があるわけではない。

 誰かが叫べば全員が振り向くし、木箱が倒れれば、果物が共有テーブルの下まで転がってくるくらいの距離だ。


 大抵の事故は、そのどこか二つ以上を勝手に結びつけて起きる。


 前日の粉も、生地も、倒れた試食台も、今は全てきれいに片づけられている。

 ただし、気分までは片づけてくれない。


 ルカは焼きたてのパンを前にして、しばらく無言だった。

 食べたそうな顔はしている。でも食べたら負けだと思っている顔でもある。


 ナナセが首を傾げた。


「ルカ、食べないの?」


「まぁ、食べるけど。昨日死んだことと、今日お腹が空いてることは別だから」


「この街ではかなり正しい判断だね」


「メルちゃんに正しいって言われると不安になる」


 ルカは結局、パンをかじった。


 そのとき。


「みなさん、おはようございます!」


 広場の向こうから、やけに明るい声が響いた。

 ルカの肩が跳ねる。鍋蓋がかこん、と軽い音を立てた。


「出た」


 声の主は、赤いマントの青年だった。


 額には絆創膏。明るい蜂蜜色の髪。胸には手作りの星マーク。赤いマントは少し大きすぎて、歩くたびに裾が石畳をかすめていた。


 マモルである。


 フェリチタで一番、善意の速度調整が下手な男だ。

 ただ、今日は珍しく走っていなかった。両手に小さな紙袋を抱えて、こちらへまっすぐ歩いてくる。


「マモルが歩いているのね。珍しい……」


「不吉だね」


「歩いているだけで不吉扱いは気の毒だが、分からないでもない」


「分かるんじゃん」


 ルカは鍋蓋を頭に乗せたまま、椅子ごと後ろへ下がった。


 マモルは私たちの前まで来ると、ルカの方を見て、勢いよく頭を下げた。


「昨日は本当にすみませんでした!」


「謝罪にも勢いつけないで。風圧で死にそうだから」


 顔を上げたマモルの目は、今日は少しだけしょんぼりしている。


「ルカさん、本当に申し訳ありません。昨日、怖かったですよね。僕がもっと落ち着いて動いていれば、あんなことにはなりませんでした」


「そうだね」


「子どもは助かりました。ですが、ルカさんを助けられませんでした」


「いい話の温度感にしないで。ウチが副産物みたいじゃん」


「副産物ではありません! ルカさんのことも、とても大切に思っています!」


「重い。善意が重い」


 ルカは胸元の『マモル禁止』を両手で押さえた。


 マモルは気にせず、持ってきた紙袋をルカに差し出す。


「これはお詫びです。パン屋さんで買いました。爆裂しないそうです」


「その保証、昨日も聞いた気がするんだけど」


「今日は大丈夫です!」


「その言葉が禁止って書いてあるの見える?」


 ルカが袖口の文字を、マモルに見せた。

 マモルは真剣な顔で読んでいた。


「『大丈夫と言われたら逃げる』……なるほど。では言い換えます。問題ありません!」


「同じ意味だよ!」


 マモルは本気で困っている顔だった。言葉を選んでも、出てくる中身がだいたい危険なのだ。


 カナタが小さく息を吐く。


「マモル君。昨日の件で、君は何を反省したのかな」


「もっと早く動くべきでした」


「反省の方向が違うだろう」


 カナタの眉間に、かすかに皺が寄った。


「君は助けた相手だけを数える。だが、巻き込んだ相手も同じに帳簿に載せるべきではないかな」


「はい。次は、周りの人も含めて助けます!」


「被害者候補が増えた音がしたね」


 言っていることはまともだった。

 あまりにまともだったので、ルカが逆に警戒した顔をする。


「……ほんとに分かってるの?」


「もちろんです!」


「元気よく返事されると不安になるんだよね」


 ナナセは困ったように笑った。


「マモルの助けたい気持ちは本物なのよね。だから、余計に困るの」


「はい……?」


 マモルは一瞬だけ首を傾げた。


 たぶん、分かっていない。でも、分かろうとはしている。そこが彼の面倒なところで、良いところでもある。


「悪意なら避ければいい」


 私は言った。


「危険物なら触らなければいい。爆裂シナモンロールなら買わなければいい。でも善意は、笑顔で走ってくる。しかも赤いマントを翻しながら」


「メルちゃんやめて。もう見える。嫌な未来が見える」


 ルカが頭の鍋蓋を深く押さえた。


 マモルは自分のマントを見下ろす。


「……マント、短くした方がいいでしょうか」


「まずは歩いた方がいいわね」


「はい!」


 そんな話をしていると、広場の端から子どもの泣き声が聞こえた。


 ルカの顔から血の気が引いた。


「やめて」


 まだ何も始まっていないのに、彼はもう終わった顔をしていた。


 泣いていたのは、小さな女の子だった。手には紐だけが残っていて、見上げると、赤い風船が広場の装飾用の旗紐に絡まっていた。


 旗紐は、時計塔へ続く道の手前に張られている。その下には、飾りを取りつけるための低い足場があった。


 足場のすぐ東寄りには、花屋が広場側へ出している鉢植えの荷車がある。

 南の朝市からは木箱がいくつかはみ出し、北のパン屋の試食台の横には、新作案内の立て看板が置かれていた。


『安全な新作あります』


 試食台ごと広場側に出されている、背の高い木枠の案内板だ。

 文字が強すぎて、逆に不安になる。


「お母さんにもらった風船なの……」


 女の子が泣きながら言った途端、マモルの目が変わった。


「僕が取ります! 泣いている子を見て、何もしないのは無理です」


「なら、まずそのマントを外したまえ」


 カナタが即座に言った。


「君の善意は止められない。なら、せめて布だけでも止める」


「なるほど! でも、これはヒーローの象徴なので外せません」


「もうだめじゃん!」


 ルカが鍋蓋を押さえて叫んだ。

 ナナセは小さく息を吐き、女の子のそばに膝をつく。


「こっちで待ちましょうね。離れていた方が安心だから」


「ナナセちゃん、ウチもそっち行っていい?」


「もちろんよ。でもゆっくり来てね。街を刺激しないように」


「街を刺激するって何?」


 マモルは足場の前まで行き、慎重に手を伸ばした。赤い風船は、旗紐に絡まったままふわふわ揺れている。

 あと一歩のところで届かない。


 ナナセが微笑みながら声をかける。


「無理しないでね」


「はい!」


 マモルは近くにあった木箱を一つ動かして、その上に乗る。


 まだ届かない。


 もう一つ木箱を重ねる。


「やめて。高くしないで。お願いだから建築しないで。そういうの全部よくないから」


「大丈夫です。慎重にやります!」


「だからその言葉!」


 マモルは三つ目の木箱を積んだ。

 木箱は少し揺れたが、まだ倒れない。彼はそこに乗り、片手を伸ばす。

 あと少し。


 女の子が期待に満ちた目で見上げる。

 マモルは笑った。


「もう少しです!」


「いける……? 今日、ウチ、死なない日かも……?」


「希望は明日の六時五分まで保留したまえ」


 そのとき、風が吹いた。


 赤い風船がふわりと揺れ、紐が旗紐から外れかける。マモルがそれを取ろうとして身を乗り出した。


 その拍子に、木箱が傾いた。


「来た」


 ルカが呟いた。


 マモルは落ちかけた。

 だが、驚くほど見事な動きで旗紐を掴み、風船の紐を取った。


 そこだけは、本当に見事だった。


「取れました!」


 女の子の顔がぱっと明るくなった。その顔を見たマモルも、少しだけ救われたように笑った。


 だが次の瞬間、マモルの足元の木箱が崩れた。


 マモルは風船を守ろうとして片手を上げたまま落下する。落ちながら、赤いマントが花屋の荷車の取っ手に引っかかった。


 荷車が引っ張られ、鉢植えが跳ね、花びらが広場に散る。

「鉢植えが!」と花屋が叫んだ。


 荷車は斜めに広場を横切り、そのまま朝市の木箱にぶつかった。

 木箱が倒れ、丸い果物がいくつも石畳に転がっていく。


 一つは花屋の方へ、一つは足場の下へ、そして一つだけが、パン屋の試食台の方へ。


 それを避けようとしたパン屋の店主が、見事に踏んだ。


「おっとっと」


 その手が、『安全な新作あります』の看板を掴んだ。

 看板は朝六時にきちんと元の形へ戻っていた。ただし、元の形が安全だったとは誰も言っていない。


 看板が傾く。


「安全じゃない!」


 倒れる先は、ルカの方だった。


 ルカは慌てて逃げようとしたが、足元にはさっき転がった果物があった。

 見事に踏んだ。


 身体が浮いた拍子に、鍋蓋が頭から外れて空へ飛んだ。ルカの短い悲鳴とほとんど同時に、看板が倒れ込んでくる。


 かん、と間抜けな音がした。落ちてきた鍋蓋が、看板の角に当たっていた。

 一瞬だけ、巨大な看板はルカの頭をわずかに外れ、すぐ横の石畳に叩きつけられる。


「鍋蓋が仕事した!」


 ルカが叫んだ。


 鍋蓋は、頭を守らなかった。けれど、なぜか一度だけ仕事をした。

 だがその直後、斜めに耐えていた看板の支柱が、ぎし、と嫌な音を立てる。


 今度はマモルが声を上げた。


「今なら止められます! 支えを入れれば倒れません!」


「最悪のタイミングで来る一番いらない助けなんだよ! その辺の善意じゃ無理だから!」


 マモルは地面に転がった紙袋を掴み、勢いよく投げた。さっきルカに渡そうとしていた、お詫びのパンである。


 狙いだけはよかった。

 袋は看板の脚元に、ぽすん、と入り込む。


「入りました!」


 マモルはそう言って、反射的に女の子の方へ赤い風船を差し出した。


 だが次の瞬間、紙袋がぐにゃりと潰れる。支えになるはずだったパンは、看板の脚の下で、ただの柔らかい坂になった。

 看板がぬるりと滑る。

 そこで、支柱が完全に折れた。


 安全を宣伝していた看板は、最後にとても安全ではない角度で横倒しになった。

 もちろん、ルカの方へ。


「待って。今の一瞬の希望、必要だった?」


 ルカの声は、木と布と花と、パンの甘い匂いの中で潰れた。


 広場が静まり返る。


 瓦礫の下からくぐもった声がした。


「……メルちゃん」


「まだ生きてる?」


 ルカは少しだけ間を置いた。


「さっきの、助かる流れじゃなかったの……?」


 そこまで言ったところで、瓦礫の中から小さく、かくん、と音がした。


 その後、ルカの声はしなくなった。


 マモルは、風船を女の子へ差し出した姿勢のまま固まっていた。看板が倒れた音を、聞いていなかったわけではないと思う。

 ただ、すぐには振り向かなかった。


「……渡せました」


「渡せたのは、風船だけだよ」


 私が言うと、マモルがようやく瓦礫の方を見た。


「ルカさん……?」


 返事はなかった。


 マモルの顔から、今度こそ血の気が引いていく。


 ナナセが口元に手を当てる。


「ルカ……」


「死んだね」


 カナタが静かに言った。


「死んだね、じゃないです! ルカさん!」


「待ちたまえ」


 マモルが青ざめた顔で駆け寄ろうとすると、カナタがマモルのマントを掴んだ。


「君が今走ると、二次災害が起きる」


 マモルは動きを止めた。

 けれど、視線だけは瓦礫から離れなかった。


「……ルカさん。すみません」


 その声は、いつもの明るさとは違っていた。


 本当に落ち込んでいる。

 本当に申し訳ないと思っている。

 本当に、次こそ誰も巻き込まずに助けようと思っている。


 だからこそ、たぶんまた走る。


 女の子は赤い風船を抱えたまま、どうしたらいいか分からない顔で立っていた。

 そのまま、消え入りそうな声で言う。


「……マモルお兄ちゃん。風船、ありがとう」


 マモルは顔を上げた。彼の目がわずかに揺れる。


「いえ。無事で、よかったです」


 その言葉を、誰もすぐには否定しなかった。


 風船は戻った。

 女の子は泣き止んだ。

 ルカは死んだ。


 全部、本当だった。


 フェリチタでは、こういう本当が同じ広場に並ぶ。


 だから困る。


 ◇◇


 翌朝六時。


 鐘が鳴ると、昨日死んだ人間が全員、生き返った。


 朝食広場は綺麗に戻っていた。倒れた看板も、割れた鉢植えも、潰れた木箱も、ルカが埋もれていた場所も、何ひとつ残っていない。


 ただ、『安全な新作あります』という看板だけは、今日も何食わぬ顔で立っていた。

 安全とは何か、少し考えた方がいい。


 ルカはベンチに座り、死んだ魚みたいな目でパンをかじっていた。

 今日は鍋蓋ではなく、頭に洗面器を乗せている。


「今日は……」


 ルカはそこまで言って、口を閉じた。


「言わないのかい?」


「言ったら余計に死ぬから」


「昨日の経験が、ようやく言語運用に反映されたようだね」


「うるさい。今日は、なるべく死なない」


「命って、だんだん目標が小さくなるのね」


「命は謙虚に扱うものなんだよ」


 ルカの声は小さかった。


 昨日の死に方を思い出しているのだろう。

 看板に潰される瞬間。木の匂い。土の匂い。花の匂い。最後に見えた、赤い風船。


 朝六時は身体を戻す。

 でも死ぬ直前の景色までは消さない。


 ナナセが、広場の掲示板の前で立ち止まった。


「あ……」


 掲示板には、新しい紙が貼られていた。

 子どもの字だった。


『マモルお兄ちゃんへ

 ふうせんをとってくれてありがとう』


 赤い風船の絵が、文字の横に小さく描かれている。

 線は曲がっていて、丸も歪んでいた。

 でも、誰かに向けたものだということだけは、はっきり分かった。


 だから朝六時を越えたのだ。


 ナナセは掲示板の紙を見て、それからルカを見た。

 笑っていいのか、謝ればいいのか、分からない顔だった。


 マモルはその紙の前で立ち尽くしている。


「……ありがとう、って」


 嬉しそうな顔でもあり、泣きそうな顔でもあった。


 その顔を見て、ルカが何か言おうとした。

 たぶん、「ウチは死んだけどね」とでも言いたかったのだろう。

 けれど、言わなかった。言えなかったのかもしれない。


 女の子のありがとうは、本物だった。

 マモルは確かに助けた。

 そしてルカは、確かに死んだ。

 どれか一つだけなら、きっともっと簡単だった。


「ルカさん」


 マモルが振り返る。

 ルカはものすごく嫌そうな顔をした。


「なに」


「昨日は、本当にすみませんでした。でも、僕は……」


 マモルは掲示板の紙に視線を向ける。


「助けられて、よかったとも思っています」


 ルカはしばらく黙っていた。

 その顔は怒っているようにも、諦めているようにも見える。たぶん、どちらでもあるのだろう。


「……分かるよ」


 ルカは小さく言った。


「助かった子がいるのは分かる。ありがとうって言われて嬉しいのも、まあ、分かる。ウチだって、あの子に泣かれたら嫌だし。でもさ」


 ルカは洗面器を頭から外し、掲示板の紙を見上げた。


「ウチが昨日死んだことまで、美談に混ぜないで」


 その場も誰も、すぐには返事をしなかった。


 ナナセは掲示板の紙を見て、それからルカとマモルを見る。


「ありがとうは、ありがとうでいいと思うわ。でも……怖かった方まで片づけちゃうのは違うと思うのよ」


 柔らかい声だが、柔らかく刺す正論だった。


 私は、面白いと思った。悪趣味なのは分かっている。


 人は、正しいことだけでは壊れない。

 間違っていることだけでも壊れない。

 正しいことと間違っていることが、同じ顔で並んだときに、少しずつ困った形になる。


「……分かりました。混ぜません」


 今度のマモルの返事は、元気がなかった。


「……次から、走らない努力はします」


「努力目標じゃなくて、可能性ごと消してって話なんだけど」


「それは状況によります」


「もうだめじゃん!」


 ルカの悲鳴が、朝の広場に響いた。


 ナナセがくすくす笑う。


「じゃあ、走りそうになったら、みんなで名前を呼ぶのはどうかしら。マモルも一瞬は止まると思うの」


「一瞬で何が救えるの!?」


「その一瞬でルカが逃げられるかもしれないわ」


「では、呼ばれる余地を作ります。たとえば、右足を出す前に一度だけ皆さんを見るとか」


「走るフォームの問題じゃないってば」


「左足の前でも構いません」


「左右の問題でもない!」


 カナタは紅茶の湯気越しに、どこか呆れたように目を細めている。


「君の反省は、どうしていつも次回予告の形をしているのかな」


「事故にはしません!」


「その宣言が事故の予約になってんの!」


 マモルは真剣な顔で、どういう走り方なら助けられるか、考え始めていた。

 たぶん無理だ。


 フェリチタでは、避けたいものほど、なぜか礼儀正しくこちらへ来る。

 助けたい人間の前には助けが必要なものが落ちてくるし、死にたくない人間の足元には、だいたい果物が転がっている。


 魔法と呼ぶには雑で、偶然と呼ぶには少しだけ性格が悪い。

 それを、住人たちはだいたい『フェリチタの癖』と呼んでいる。


 ルカが咎めるような目でわたしを見た。


「今絶対ろくでもないこと考えてるでしょ」


「失敬な。昨日よりは平和な朝だなと思っただけだよ」


「昨日死んだのウチなんだけど」


「でも今日も生きてる」


「そういう話じゃないんだよ」


 ルカは洗面器を頭に戻した。

 その姿はかなり間抜けだったが、本人なりに真剣である。


 掲示板には、女の子の「ありがとう」が残っている。

 昨日の花も、潰れた看板も、ルカの最後の声も、全部消えた。

 でも、助けられた子どもの言葉だけは、朝を越えた。


 フェリチタは昨日を片づけるのがうまい。

 ただし、誰かのために書かれた言葉だけは、片づける気がないらしい。


「今日も、平和だな」


 私がそう言うと、ルカが心底嫌そうな顔をした。


「その平和、毎回ウチの犠牲で成り立ってない?」


 否定はできなかった。


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