第1話 今日は絶対死なない
朝六時の鐘が鳴ると、昨日死んだ人間が全員、生き返った。
パン屋の店主は、昨日店ごと爆発したことなどなかったみたいに、焼きたてのクロワッサンを並べていた。
ルカは、昨日炎に巻かれたのに、皿を頭に乗せて「今日は絶対死なない」と言っていた。
カナタは、昨日首を折られた感想を淡々と述べながら紅茶を飲んでいた。
ナナセは、昨日棚に潰されたのに、渡しそびれた絵を抱えてパンを齧っていた。
私も同じだ。
昨日、爆裂シナモンロールの爆裂部分を見極めようとして、肋骨を全部諦めた身体で目を覚ました。
──フェリチタでは、朝はだいたいこんなものだ。
この街では、死んでも朝六時に戻ってくる。
血も、傷も、折れた骨も、壊れた建物も、鐘の音と一緒に片づけられる。
壊れたものには親切な街だ。
ただし、覚えてしまったものにはあまり優しくない。
小柄なルカは、大きすぎるパーカーの袖を揺らしながら、まだ皿を頭に乗せていた。
寝癖なのか仕様なのかわからない栗色の髪が、あちこち好き勝手に跳ねている。
本人いわく、落下物対策らしい。
皿で守れる命は、たぶんそんなに多くない。
そんなルカが、焦げた匂いを嗅いだ瞬間だけ、わずかに顔を強張らせた。
たぶん最後に嗅いだ匂いもそれだったのだろう。
けれど彼はすぐに「焦げパン嫌いなんだけど」と文句を言って、何事もなかった顔でパンをかじった。
フェリチタは死をなかったことにする。
でも、死ぬまでに起きたことまでは、なかったことにしてくれない。
「で、メル君」
カナタが紅茶のカップを置いた。
「昨日の爆発について、君に言うべきことがある」
整えられた銀色の髪に、きちんと留められた襟元。死後の朝だというのに、乱れひとつ許さない顔。
彼はどんな死に方をしても、翌朝には必ず紅茶を飲む。たぶん世界が終わる日にも、湯の温度にこだわっているだろう。
「奇遇だねカナタ。私もあるよ」
「ほう」
「パン屋の新作、味は悪くなかった」
「死因の品評を始めるんじゃない」
カナタは心底呆れた顔をした。
「君の中では、味覚と死因が同じ棚に並んでいるようだ。実に整理整頓が悪い」
「味は味、死因は死因だよ。ちゃんと別皿。ちなみに爆裂部分もかなり良かった」
「別皿にしたところで、同じ食卓に並べている時点で手遅れではないかな」
相変わらず、上品な顔で嫌味を言うのがうまい男である。
ちなみに私、タチバナ・メルは、しがないフェリチタの住人である。
光の当たり方で黒にも紫にも見える髪と、よく笑うわりにあまり信用されない目をしている。ルカいわく、「黙ってると普通なのに、見てる場所がだいたい最悪」らしい。
肩書きらしい肩書きはない。
趣味は散歩、観察、それから人の壊れ方を見ること。
言うとたいてい嫌な顔をされるので、最近は「人間観察」とやや聞こえのいい言葉に包んでいる。
中身はだいたい同じだ。
「昨日は本当にひどかったのよ!」
ナナセが頬を膨らませた。
彼女の膝の上には、淡い色で描かれた花束の絵があった。誰かに渡すつもりだったらしいが、昨日の爆発で渡しそびれたのだろう。
「店主さん、また変なもの入れてたし。メルは爆心地に近づくし。ルカは巻き込まれるし」
薄い桜色の髪がふわりと揺れる。指先には、まだ色鉛筆の粉が残っていた。
「ウチは巻き込まれたんじゃなくて、巻き込まされてんの。主にメルちゃんのせいで」
ルカが即座に言い返した。
皿を頭に乗せたままだと、怒っていてもあまり迫力がない。
「ていうか、何でみんな朝から普通にパン食べられるの? 昨日パン屋で爆散したばっかじゃん」
「爆散したのはワタシたちであって、パンではないからね」
「そういう問題?」
「この街では、そういう問題にしておいた方が生きやすいのだよ。ルカ君も食べたらどうだね。味は悪くないそうだ」
「生きやすいの基準が終わってるでしょ」
ルカは皿を頭に乗せたまま、焼きたてのパンを一口かじった。
文句を言うわりにちゃんと食べる。なんだかんだで食い意地の強いところは嫌いではない。
フェリチタの朝食広場は、今日も穏やかだった。
昨夜、誰かの胴体が転がっていた石畳には、朝日が何食わぬ顔で差し込んでいる。
血は消えた。焦げ跡も消えた。爆発で吹き飛んだはずの看板も、当たり前みたいに元の場所へ戻っている。
ただ、パン屋の店先には新しい貼り紙が残っていた。
『爆裂シナモンロールは予約制にします。ごめんなさい』
貼り紙だけは、朝六時を越えていた。
「こういうのは残るんだよね」
私が言うと、ナナセが貼り紙を見て小さく笑った。
「誰かに向けて書いたものだからよ、きっと」
ナナセは貼り紙を見上げたまま、指先についた色鉛筆の粉をそっとこする。
「自分のためだけに書いたものなら、朝と一緒に消えちゃうのかもしれないわ。でも、誰かに届いてほしかった言葉は、消すには少しだけ重いんじゃないかしら」
「血は消えるのに謝罪文は残るって、やっぱりこの街、性格悪いよね」
「性格が悪いというより、判断基準が独特なのだろう」
カナタが紅茶を飲みながら言う。
「フェリチタは破損を修復する。だが意味までは消さない。手紙、絵、約束、謝罪。そういうものは、壊れたものではなく、出来事として扱われるらしい」
ルカが眉をひそめる。
「つまり?」
「血は消えるが、やらかしは消えない。当然、黒歴史もだ」
「最悪じゃん」
最悪。
たぶん、この街を説明するのに一番手軽な言葉である。
けれど、フェリチタの住人たちはその最悪の中で朝食を食べ、文句を言いながら、だいたい死ぬ。
「とにかく」
ルカは皿を頭から外し、真剣な顔で私たちを見た。
「今日はウチ、絶対死なないから」
「昨日も言っていなかったかな。結果は言うまでもないが」
カナタが優雅に紅茶を飲む。
「昨日のウチは昨日のウチ。今日のウチは反省したウチ」
「その結果が皿なのかい?」
「備えあれば憂いなしって言うでしょ」
「備えにしては食器に寄りすぎではないだろうか」
「うるさいな。何もしないよりマシでしょ」
ルカは胸を張った。だがその顔は必死だった。
「今日は危ない場所には行かない。パン屋、噴水、時計塔、マモルくん、あとメルちゃんにもなるべく近づかない」
「最後、私への評価が不当だね」
「かなり妥当だよ。あと、変な匂いがしたら逃げる。誰かが『大丈夫』って言ったら逃げる。無料配布にも、新作にも、泣いてる子どもにも近づかない」
「最後は、ルカ君にしては少々冷たいのではないかな」
「この街で泣いてる子どもはだいたい事故の中心にいるんだよ。ホント、嫌な経験則!」
ルカの悲鳴は、広場の朝に明るく響いた。
そんな彼を見て、ナナセがくすくす笑う。
「じゃあ今日は、ルカが死なないようにみんなで見守る日にしましょうか」
「やめて。そうやってイベント名つけると死ぬ確率上がるから」
「大丈夫よ」
「その言葉も禁止! 余計にフラグ立つから!」
ルカがすぐさま叫んだ。
禁止事項が多い。生きるというのは面倒なことだ。
私たちは食後、特に目的もなく街を歩くことにした。
正確に言うと、ルカの死亡回避訓練である。
フェリチタの朝は、散歩するにはちょうどいい。
昨日の死因を忘れるには短すぎるが、今日の死因を探すには十分な時間である。
「メルちゃん、その言い方やめて。縁起悪いから」
「まだ何も言ってないのに」
「顔が言ってる」
ルカが警戒心の塊みたいな目で私を見る。
今日は絶対死なない、と朝から四回も言っているあたり、たぶん今日も死ぬだろう。
ひとまず、私たちは朝食広場の端へ移動しようとした。正確には、ルカがパン屋から一刻も早く離れたがっていた。
昨日、爆発した店である。
屋根も壁も窓も、朝には全部戻っていた。焼け焦げた看板が空を舞っていたことなど知らない顔で、店先には香ばしい匂いが漂っている。
「昨日は悪かったねえ」
離れる前に、店主が焼きたてのパンを並べながら声をかけてきた。
丸い顔の、いつも笑っているおじさんだ。昨日は顔の半分が黒焦げになっていたが、今日はつやつやしている。
「新作の爆裂シナモンロール、火力調整を間違えたよ」
「名前からして間違えてるんだけど」
ルカが言い返した。
「火力調整の問題じゃないでしょ。なんでパンに爆裂要素を足すの?」
「若い子は刺激が好きだと聞いたからねぇ」
「刺激で死ぬほうがやだよ」
「でも昨日のはかなり良い爆発だったね。粉の舞い方に祝祭感があった」
「祝祭感で肋骨折らないで」
「折れたのは私の肋骨だよ」
「所有権の話じゃないんだよ!」
ルカが私の肩を叩いた。
皿を持っていない分、今の方が迫力がある。
店主はまったく悪びれず、紙袋に小さなパンを詰めてナナセに渡した。
「これはお詫び。今度は爆裂しないよ」
「ありがとう。でも、その言い方だと少し怖いわね」
ナナセが困ったように笑う。
彼女は優しいので、爆発させられた相手にもちゃんと礼を言う。優しすぎる人間は、この街ではわりと頻繁に死ぬ。
カナタは早速パンを口に運びながら、ルカに目をやる。
「ルカ君も食べるかい? 今回も味はなかなか悪くない」
「食べない。今日はパン屋に近づかないって決めてるから」
「もう近づいているようだが」
「今のは不可抗力。メルちゃんがこっち歩いたから」
「私のせいにするには道が広すぎるよ」
「この街ではメルちゃんのいる方向がだいたい危険なんだよ」
店主はあははと笑い、店先に小さなカードを差し出した。
「そういえば、昨日の爆発の後、これだけ残っていたんだよ」
差し出されたのは、小さなメッセージカードだった。
『明日の朝、これを一緒に食べよう』
宛名も差出人もない。けれど、誰かが誰かに向けた言葉であることだけはわかる。
カードには、昨日の爆発の焦げ跡がついていたはずだ。少なくとも私はその黒を見た覚えがある。
でも今は、紙は綺麗なままだった。
文字だけが残っている。
「……うわ」
ルカが小さく息を漏らした。
「こういうの、やめてほしい。朝からしんどいんだけど。戻ってきたあとに、昨日ちゃんと誰かが明日を待ってたって分かるの、普通にきついじゃん」
「なんで? 美しい仕様だと思うけど」
私が言うと、ルカはますます嫌そうな顔をした。
「あなたの美しい、だいたい信用できない」
「それは偏見だね」
「実績だよ」
店主はそのカードを、レジ横の瓶にそっと差した。
捨てれば済むものを、誰もそうしようとはしなかった。
宛名も差出人もない。それでも、誰かが昨日のうちに、明日を約束していたことだけはわかる。その明日を、相手が迎えたのかどうかはわからない。
誰宛かわからないのに、捨てる気にはならないらしい。こうしてフェリチタには、宛先の曖昧な言葉が少しずつ溜まっていく。
本当に、よくできた地獄である。
「じゃ、帰ろ。もう帰ろ。ウチは今すぐパン屋の半径三メートル以内から出たい」
「すでに内側だよ」
「だから今から出るの!」
ルカが一歩下がった。
その瞬間、店主がぱん、と手を叩いた。
「そうだ。安全な新作も焼けてるよ。よければ味見していってほしいねぇ」
「安全って言った。今、安全って言った。アウト」
「今回は本当に大丈夫。爆発しない。毒もない。噛んでも鳴かない」
「最後なに?」
店主は得意げに、店先の試食台を指さした。
そこには白く丸い生地の塊が、銀色の皿の上で揺れていた。焼く前のパン生地にしてはやたら大きい。しかも、呼吸でもしているみたいに、ゆっくり膨らんだり縮んだりしている。
看板には、太い文字でこう書かれていた。
『爆発しません。よく膨らみます』
爆発しないことと、安全であることは、たぶん別の問題だ。
「マジで帰る。食べる前に分かる危険ってあるんだね」
ルカが顔を引きつらせた、そのときだった。
「──危ない!」
広場の向こうから、聞き覚えのある声がした。
赤いマント。手作りの星マーク。やけに真っ直ぐな善意。
マモルである。
その姿を見た瞬間、ルカの顔から血の気が引いた。
「無理」
ルカはさっき外していた皿を頭に戻した。
皿でどうにかなる相手ではない。
「諦めるのは早いよ、ルカ。まだ何も起きてない」
「起きる人が来た」
マモルの視線の先には、小さな子どもがいた。
転がった丸パンを追いかけて、試食台の下へ潜ろうとしている。
試食台の上には、例の白い生地。
その隣には、パン屋の配達用に積まれた粉袋。
さらにその端には、湯気を立てる焼きたてのクロワッサンが山のように並んでいる。
配置がとてもよくない。
「待ちたまえ」
カナタが珍しく早口で止めた。
ナナセも柔らかく声をかける。
「マモル、走らなくていいのよ。子どもはわたしが──」
「大丈夫です! 僕が助けます!」
「その『大丈夫』が大丈夫だったこと一回もないんだよ!」
ルカの制止も虚しく、マモルは走った。
子どもは助かった。そこだけは、本当に見事だった。マモルは子どもを抱き上げ、試食台の横へ軽やかに転がる。
だがその拍子に、赤いマントが台布を引っかけた。
布が引かれ、皿が滑り、焼きたてのクロワッサンが朝の空へばらばらと舞い上がる。
「パンが!」
店主が慌てて手を伸ばし、その足が粉袋に当たった。
白い粉が舞い、朝の広場を覆う。雪みたいで綺麗だったが、視界は最悪である。
「見えない! 何も見えないんだけど!」
ルカの声がした。
粉の向こうで、店主も叫んだ。
「誰か! 発酵生地を押さえて!」
「発酵生地?」
カナタが眉をひそめる。
「爆発しない新作だよ! その代わり、よく膨らむ!」
「それを安全と呼ぶのは、言葉に対して少々失礼ではないかな」
その瞬間、白い生地の塊が、ぼふん、と音を立てて膨らんだ。
爆発ではなかった。たしかに、爆発ではない。
けれど、試食台からあふれた生地は、柔らかい雪崩みたいに広場へ広がっていった。白くて、丸くて、焼く前のパンみたいに甘い匂いがする。
生地は広場の低い方へ流れていった。
つまり、ルカの方へ。
マモルは子どもを抱えている。ナナセはその子を受け取ろうとしている。カナタはなぜか紅茶を守っている。
私は、見ていた。
まともに逃げようとしていたのはルカだけだった。
そしてフェリチタでは、そういう人間から順番に逃げ道を失う。
「なにこれ! なんなの!?」
「パンだよ!」
店主が叫ぶ。
「パンは追いかけてこないんだよ、普通!」
「まだ焼いてないからね!」
「そういう問題じゃない!」
マモルは、腕の中の子どもを見て、心底ほっとした顔をしていた。
「子どもは無事です!」
「子ども以外も無事にしてよ!」
ルカの叫びが、粉砂糖みたいな白い霞の向こうで響いた。
その足元まで、白い生地が届いていた。
「え、ちょっと待って。待って待って、パン、近い。パンが近い!」
「ルカ君、落ち着きたまえ。まずは皿を使うんだ」
「どう使うの!?」
「ワタシにも分からない」
「じゃあ言わないで!」
ルカが足を抜こうとした拍子に、頭の皿がずれた。
からん、と皿が落ちる。
「あ」
白い波が、ルカの膝を越えた。逃げようとした足が沈み、袖が引かれ、皿を失った頭の上まで、甘い匂いのする白が盛り上がってくる。
「ウチ今日死なないって言ったじゃん!」
次の瞬間、ルカの声は白い生地の中へ吸い込まれた。
最後に見えたのは、外へ伸ばされた片手と、石畳の上で止まった朝食皿だった。
皿で守れる命は、やっぱりそんなに多くなかった。
そして翌朝六時。
鐘が鳴ると、昨日死んだ人間が全員、生き返った。
広場は綺麗に戻っていた。
散った粉も、白い生地も、転がった皿も消えていた。昨日、ルカが最後に叫んだ場所にも、朝日は何食わぬ顔で差している。
ルカはベンチに座り、死んだ魚みたいな目でパンを齧っていた。
けれど、飲み込むまで少し時間がかかった。
「……今日は絶対死なない」
「昨日も聞いたよ。実に継続的な決意だ」
「言わなきゃやってらんないんだよ」
その声が思ったより小さかったので、私たちは誰もすぐには笑わなかった。
ナナセが、パン屋の店先を見て小さく声を上げる。
「あ……」
レジ横の瓶には、昨日も見たカードがまだ差さっていた。
『明日の朝、これを一緒に食べよう』
昨日の騒ぎは、朝の光の中にひとかけらも残っていない。それなのに、レジ横の瓶には、あの短い約束だけがまだ立っていた。
誰が書いたのかも、誰に渡すつもりだったのかも分からない。
それでも、あの日の誰かが明日を待っていたことだけは分かった。
フェリチタは、昨日を片づけるのがうまい。
けれど、誰かに向けた言葉だけは、いつも掃き残す。
「今日も、平和だな」
私がそう言うと、ルカが心底嫌そうな顔をした。
「その平和、絶対定義バグってるよ」




