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フェリチタの朝六時 ─鐘が鳴れば、住人はまた生き返る─  作者: 柊ナツキ


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第3話 届いた花束

 

 朝食広場の掲示板は、昨日より少しだけ重くなっていた。


 掲示板には、朝六時を越えた紙がよく集まる。

 誰かが拾って貼っていることもあるし、最初からそこに戻っていることもある。未配達の言葉や絵は、とりあえずここへ置かれるらしい。


 風船を助けてもらった女の子の紙は、まだそこにある。


『マモルお兄ちゃんへ

 ふうせんをとってくれてありがとう』


 赤い風船の絵も、曲がった字も、そのままだった。

 瓦礫も、折れた支柱も、ルカの最後の声も、朝六時に片づけられたのに、その紙だけは何食わぬ顔で朝を越えている。


 そして、その隣にもう一枚、新たな紙が増えていた。

 淡い色鉛筆で描かれた、小さな花束の絵だった。


 白い花と、黄色い花と、薄紫の小さな花が、青いリボンでゆるく結ばれている。

 派手ではないけれど、見ていると少しだけ呼吸がしやすくなるような絵だった。


「あ……」


 最初に声を漏らしたのはナナセだった。


 彼女は掲示板の前で立ち止まり、目を丸くした。

 薄い桜色の髪が、朝の風にふわりと揺れる。いつもより少しだけ表情が静かだった。


「これ、わたしの絵だわ」


「ナナセの?」


 私が聞くと、ナナセは小さく頷いた。


「昨日、描いたの。花屋さんに渡そうと思っていたんだけど……あのあと、花屋さんも荷車の下敷きになっちゃったでしょう」


 ルカが看板に潰されたあと、広場はしばらく静まり返った。その端で、花屋の荷車も横倒しになっていた。おばあさんも巻き込まれていたらしい。


「死因のついでみたいに言わないでほしいんだけど」


 ルカが横から言った。

 今日は鍋蓋ではなく、頭に洗面器を乗せている。


 鍋蓋は昨日、一度だけ仕事をしたが、最終的にはルカを救わなかった。その結果、ルカの頭部防衛計画は台所から洗面所へ移動したらしい。


 進歩なのか、迷走なのかは、やはり判断が難しい。


「絵まで残るの? やめてよ。朝六時越えアイテム、だいたい重いんだけど」


「誰かに向けたものだからだろう」


 カナタが紅茶のカップを片手に言った。

 相変わらず、朝から姿勢が良い。

 昨日、ルカの死体を前にしても紅茶を飲んでいた男である。たぶんこの街で一番、朝六時に対する信頼が厚い。


「フェリチタは壊れた皿や折れた骨には几帳面だ。だが、未配達のものには手を出さない」


「死体は毎朝雑に片づけるのに?」


「死体は本人に返却されるからね」


「言い方が黒すぎて嫌だ!」


 掲示板を見たまま、ナナセは頬を膨らませた。


「もう、茶化さないの! 昨日は本当に、渡す前にいろいろ飛びすぎたのよ。花も、鉢植えも、ルカも」


 そう言ってから、ナナセは少しだけ黙り、指先を握る。


「鉢植えが飛んだとき、花屋さん、悲しそうな顔してたのよ。朝になれば戻るって分かってたけれど、あのとき悲しそうだった顔までは、戻らないでしょう」


 声は柔らかいけれど、言っていることはあまり柔らかくない。


 ルカが気まずそうに目を逸らした。


「ナナセちゃん、そういうの朝から出してくるのやめて。こっちはまだパンも飲み込めてないんだけど」


「ごめんなさいね。朝ごはんと情緒の相性が良くないみたいね」


「言い方は上品だけど、だいぶ殴ってきてない?」


 カナタが静かに頷いた。


「ナナセ君は柔らかい布で人を叩くのがうまいね。痛みはあるが、音がしない」


「褒めているの?」


「評価している」


 ナナセは困ったように笑って、それから掲示板の絵に手を伸ばした。

 画鋲を外す指先は、いつもより丁寧だった。紙を扱っているというより、誰かの気持ちを扱っているみたいに。


「届けに行くの?」


 私が聞くと、ナナセは頷いた。


「うん。残ったなら、きっと届けた方がいいと思うの」


「ナナセちゃん、やめときなよ。残ったものってだいたい厄介でしょ。手紙、謝罪文、ありがとう、絵。全部、見た瞬間に胃が重くなるやつじゃん」


「それでも、消えない方がいいものもあるわ」


「分かるけどさあ」


 ルカは洗面器を押さえたまま、心底嫌そうな顔をした。


「こういう、いい話っぽい導線が一番怖いんだよ。最後に絶対ウチが死ぬから」


「被害妄想としては理解できるが、統計としても否定しづらいね」


「カナタくん、そこで嫌な誠実さ出さないで!」


 そんなわけで、私たちは広場の東側、朝市へ抜ける角の花屋を訪れることになった。


 正確には、ナナセが絵を届けに行き、私がそれを見たくてついて行き、カナタが理屈を確認しに来て、ルカが「一人で残る方が危険な気がする」という消極的な理由で同行した。


 朝のフェリチタは、昨日の惨状を何ひとつ覚えていない顔をしていた。


 花屋の荷車は元通り。倒れた木箱も元通り。

 果物も、鉢植えも、看板も、朝日を浴びて綺麗に並んでいる。


 その中で、花束を結ぶ青いリボンだけは何となく目に入った。ナナセの絵の中で、花束をゆるく結んでいたものと同じ色である。


「今、リボン見たね。メルちゃんが見たせいで、ただの備品が死因候補に昇格したよ」


「リボンで死ぬのは難しくない?」


「この街に難易度の概念ないから!」


 横でナナセが、青いリボンを見て少しだけ首を傾げた。


「でも、綺麗な色ね」


「綺麗って言った! もう危ない!」


 ルカが警戒している横で、ナナセは絵を胸に抱えて歩いていた。

 その足取りはいつも通りふわふわしているのに、紙だけはしっかり守っている。


 最初に気づいたのは、花ではなく香りだった。


 朝市の人混みの中で、ふと白い花の匂いがした。

 次に、黄色い花の甘い匂い。

 少し遅れて、薄紫の小さな花の、雨上がりみたいな匂い。


 ナナセが足を止める。


「……この匂い、絵に描いた花と同じだわ」


「匂いで道案内するのやめてほしいんだけど。怖さが上品になっただけじゃん」


 広場の端の街灯に、青いリボンが一本、ゆるく結ばれていた。

 風に揺れるたび、リボンは花屋の方を指しているように見える。


「やだ。親切」


「親切が嫌なの?」


「この街の親切は、だいたい最後に請求書が来るんだよ」


 花屋は、広場の東側にある小さな店だった。

 木製の棚に季節の花が並び、店先には青いリボンで結ばれた小さな花束がいくつも吊るされている。


 ナナセの絵に描かれた花束と、よく似ていた。


「いらっしゃい」


 奥から出てきたのは、白髪の混じった小柄なおばあさんだった。

 昨日、荷車を引かれて鉢植えを飛ばした末に、最後にはその荷車に巻き込まれた花屋である。


 朝六時を越えたおかげで鉢植えも棚も戻っている。

 けれど、おばあさんはナナセの顔を見ると、少しだけ目を細めた。


「ああ。昨日の絵の子だね」


 ナナセが小さく息を飲んだ。


「覚えていたのね」


「覚えているよ。棚は戻っても、見てくれた人の顔までは戻らないからね」


 ナナセは胸に抱えていた絵を差し出した。


「あの、これ。昨日、渡そうと思っていて」


 おばあさんは絵を受け取ると、しばらく何も言わなかった。


 紙の中には、枯れない花束がある。本物の花より軽くて、本物の花よりずっと頼りない。

 でも、誰かのために描かれたものだということだけは、見れば分かった。


「きれいだねえ」


 おばあさんは、絵を胸に当てるように持った。


「昨日、店がぐちゃぐちゃになったとき、あんたがこれを描いてくれていたのを見たよ。朝になれば戻ると分かっていても、あのときは少しだけ悲しかったからね」


 ナナセは視線を落とした。


「言葉だと、大げさになりそうだったから」


 それから、少しだけ笑う。


「絵にしたの。言葉は、強すぎるときがあるのよ。だから、遠回りした方が届くこともあるかなって」


 おばあさんは何度も頷いた。


「届いたよ」


 その言葉を聞いたとき、ナナセの表情がほどけた。


 私は、面白いと思った。悪趣味な意味ではなく、たぶん本当に。


 フェリチタは死んだ人間を戻す。

 壊れたものも戻す。

 でも、誰かが誰かを見ていたことまでは消さない。


 それは優しさなのか、嫌がらせなのか、まだ分からない。ただ、その曖昧さが綺麗なのだ。


 ルカが小さく息を吐いた。


「……こういうのは、まあ。残ってもいいかもね」


「ルカ君にしては珍しく素直だね」


「うるさい。今のは聞かなかったことにして」


「残念ながら、聞いた言葉は朝六時を越えるかもしれない」


「そういう脅し方ある?」


 花屋のおばあさんは、店の奥から青いリボンを一本持ってきた。


「せっかくだから、この絵と一緒に飾らせてもらおうかね」


 ナナセの絵の中で、花束を結んでいるリボンとよく似ている。


 おばあさんがリボンを額縁の横に添えようとした、そのとき。


 店先を、強い風が抜けた。


 吊るされていた花束が揺れ、包装紙が鳴る。棚の上にまとめられていた青いリボンが、するりとほどけた。

 ただの飾り紐に見えていたそれは、いくつもの花束をゆるく結んでいたらしい。


 ほどけたリボンが、風に乗ってナナセの方へ流れる。


「あら」


 ナナセが、額縁を守るように一歩前に出た。


 その瞬間、青いリボンが彼女の手首に絡んだ。

 続いて肩から胸元を横切り、腰のあたりでふわりと輪を作る。


 けれど次の瞬間、棚から花束がいくつか落ちた。

 白い花。黄色い花。薄紫の花。

 それぞれを結んでいたリボンの端が、重みに引かれる。


 きゅ、と音がした気がした。

 リボンが締まる。


 青いリボンは手首から肩へ、肩から胸元へ流れ、最後に首元をかすめるように絡んでいた。

 包装紙がナナセの身体を包み、花が髪に散る。薄紫の小花が口元近くに舞い、息を吸おうとしたナナセの肩が、少しだけ止まった。


 ほんの数秒で、ナナセは絵の中の花束みたいになっていた。


「ナナセちゃん!?」


 ルカが叫ぶ。


 ナナセは自分に絡まったリボンを見下ろし、驚いた顔をした。


「え!? わたし、花束みたいになってない?」


「冷静に自己分析してる場合じゃない! それ拘束だからね!?」


 青いリボンは、思ったより強く締まっていた。

 ナナセの指先がこわばる。笑おうとして、顔が引きつっていた。


「……っ。これ、ちょっと苦しいわね……」


 それでも彼女は、乱暴に引きちぎろうとはしなかった。

 苦しそうな人間も、花で包まれると飾りみたいに見えてしまう。


「……でも、綺麗に見えることと、大事にされていることは、同じじゃないわ」


 柔らかい声だった。

 けれど、その場にある花瓶より、ずっとまっすぐだった。


「飾るなら、苦しくない場所がいいの」


 その一言で、花屋のおばあさんがはっとした顔になる。


「すまないね。絵が嬉しくて、つい飾ることばかり考えてしまったよ」


 ナナセは首を振った。


「いいのよ。でも、届いたものをすぐ綺麗に飾らなくてもいいと思うの。受け取った人が、ちゃんと持っていてくれたら、それで十分なときもあるから」


 ルカは洗面器を押さえたまま、恐る恐るリボンへ近づいた。


「ちょっと待ってて。今ほどくから」


「ルカ、大丈夫?」


「大丈夫って言うなって書いてあるけど、今はウチが言う側だからセーフ!」


 ルカは絡まったリボンに手を伸ばした。

 その瞬間、足元の花瓶からこぼれた水を踏んだ。


「ほら来た!」


 つる、と足が滑り、身体が前のめりになる。

 頭の洗面器が、きゅぽん、とずれた。


「洗面器が!」


 ルカは倒れながらも、なぜかナナセの手首のリボンだけは掴んでいた。


 ばさ、と包装紙がほどけて花が落ちる。

 青いリボンがゆるみ、ナナセの手首が自由になった。


 同時に、ルカは花屋の木箱に頭から突っ込んだ。


 ごん、と鈍い音がした。


 花屋の前が静まり返る。


「ルカ?」


 ナナセが呼ぶ。


 木箱の中から、くぐもった声がした。


「……生きてる」


 ルカはゆっくり顔を上げた。

 洗面器はへこんでいた。打った額も少し赤くなっている。

 でも、死んでいない。


「……生きてるよ。今日ウチ、生きてる!」


 ナナセが、ほどけたリボンを握ったまま目を丸くした。


「よかった……! ルカ、咲かなかったのね」


「ウチは花じゃないんだよ!」


「ルカ君、今日は死亡欄が空白で実にめでたい」


「言い方!」


 ルカはへこんだ洗面器を両手で押さえた。


「花屋で転んで、木箱に頭から突っ込んで、それでも死んでない。これはもう勝ちでしょ」


 ナナセはほどけた青いリボンを手に取り、ルカを見た。


「ありがとう、ルカ。助けてくれて嬉しかったわ」


「そういうこと言われると、ウチも悪い気しないじゃん」


「照れてるの?」


「メルちゃんは今すぐ黙って」


 花屋のおばあさんは、額縁を高い壁ではなく、低い棚の上に置いた。

 そこなら落ちても、誰かの頭には当たらない。


「ここなら、飾るというより、置いておけるね」


「その基準で場所決めるの、この街らしすぎて嫌」


 ルカが言った。


 それでも、額縁の中の絵は、ちゃんとそこに収まった。

 高い場所ではない。目立つ場所でもない。

 けれど、花屋に来た人が少し目を落とせば見える位置だった。


 ナナセはそれを見て、ようやく息を吐いた。


「届いたなら、よかったわ」


 柔らかい声だった。


 けれど、その一言だけで、朝六時を越えた理由としては十分な気がした。


 ◇◇


 翌朝、六時の鐘が鳴った。


 いつもの朝食会場に集まっていると、そこへ少し遅れてルカがやってきた。

 死んでいたらもっと遅れて死人みたいな顔で来るはずだったが、今日はそれなりに顔色が良い。


 頭には、昨日へこんだはずの洗面器を乗せていた。朝六時で形は元に戻っていたが、本人いわく、縁起物に昇格したらしい。


「おはよう」


 私が言うと、ルカは少しだけ得意げに胸を張った。


「昨日、ウチ死んでない」


「おめでとう。会話の出だしとしてはだいぶ切実だね」


 ナナセがくすくす笑う。


「よかったわね、花屋さんの商品にならずに済んで」


「ウチ、売り物になりかけてたの!?」


「リボンもついていたし、少しだけね」


「少しもついててほしくない!」


 ルカはそう言ってから、少し照れたように目を逸らした。


 朝食広場の掲示板には、女の子の「ありがとう」がまだ残っていた。

 ただ、ナナセの絵はもう掲示板にはなかった。


 花屋の低い棚に、ちゃんと置かれているらしい。


「届いたから、掲示板からは消えたのかな」


 私が言うと、カナタが紅茶の湯気越しに目を細めた。


「フェリチタは、未練の置き場所には律儀らしい。壊れたものは戻す。渡せなかったものは残す。渡ったものは、相手次第だ」


「街のくせに、人間関係だけは繊細なんだね」


「物理法則より、感情の扱いの方が丁寧だ」


 昨日、街に漂っていた花の匂いは消えた。

 青いリボンの導線も、もうどこにもない。


 けれど、ナナセの絵は残った。

 届けられて、受け取られたからだ。


 フェリチタは、壊れたものを朝へ戻す。

 けれど、誰かに渡ったものだけは、昨日の側に残しておくらしい。


「ナナセさん」


 そこへ、明るい橙色の髪を揺らしながらマモルがやってきた。

 今日は走っていない。歩いている。


 それだけで、ルカは洗面器を深くかぶった。


「昨日の絵、とても素敵でした。僕も誰かを元気づける絵を描いてみようと思います!」


 ルカの顔から血の気が引いた。


「やめて。マモルくんの絵、絶対走り出すから」


「絵は走りませんよ」


「普通の街ならね!」


 私はナナセを見て、微笑んで言った。


「今日は、ちゃんと届いた日になったね」


 するとナナセは、花のように柔らかく笑った。


「そうね。絵は花屋さんに届いたし、リボンはほどけたし、ルカにも値札が付かなかったもの」


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― 新着の感想 ―
生と死が激しくズレた街で送る、平和でおかしい作品でした 個人的に、この街だけがおかしいのか今後気になるところです 続きが楽しみです
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