97. アルヴィンの大勝負
宿の重い扉を蹴破らんばかりの勢いで開け、俺は一歩踏み込むと同時に喉の奥から全ての怒りを吐き出した。
「 あの野郎、絶対に許さねぇ……ッ!!」
食堂に響き渡る俺の絶叫に、隅っこでしょんぼりしていたメイガンたちが飛び上がった。
死んだように眠っていたはずのマンダルも、何事かと椅子から転げ落ちるようにして駆け寄ってくる。
「お、おいボス! どうしたんだ、そんなに震えて……。金でも落としたか?」
マンダルが心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は返事をする代わりに、荒い呼吸を整えながら脇に抱えていた包みをテーブルに叩きつけた。
「……マンダル、これを受け取れ。お前にだ」
包みの中から現れたのは、あの酒屋で店主が「これも悪くない」と勧めてくれた年代物の赤ワインだ。
「え、これ……酒か? 俺にか?」
「ああ。馬車作りで無理をさせた礼だ。……一番高い『テムパルの雫』は、ハインツ商会のゴミに目の前で横取りされたがな」
俺の言葉に、マンダルが目を見開いた。
「ハインツ商会……? あのレーマネでも指折りの大商会か。……そりゃあ相手が悪かったな。逆らって勝てる相手じゃねぇ」
マンダルは俺をなだめるように肩を叩いたが、その気遣いが今の俺には余計に熱を帯びさせる。
金の問題じゃない。
俺の尊厳を踏みにじり、かつての誇り高い商人の名を泥で汚したことが許せないのだ。
「マンダル、その酒を飲んで寝てろ。……俺は決めたぞ」
俺は煮えくり返るはらわたを抱えたまま、自室へと戻り、ベッドに倒れ込んだ。
だが、眠れるわけがない。
翌朝になっても、怒りは収まるどころか、冷たく鋭利な殺意へと変貌していた。
「なにかないか……なにか……」
俺は部屋の隅に置いてある、スピディに運ばせていた木箱――『アーノルボックス』を開けた。
前世の俺が残した、商売道具や思い出の品が詰まった箱だ。
ガサゴソと中身を漁る。
古い手紙、設計図、わけのわからないガラクタ……。
その時、一巻きの羊皮紙が指に触れた。
古ぼけて変色しているが、保存状態は悪くない。
「……あ」
俺はそれを開き、内容を確認して、口元を三日月型に歪めた。
「……これがあったか」
最強の武器を見つけた。
俺は箱を閉じ、背後に控える影と巨人に声をかけた。
「行くぞ、スピディ、ポムキン。……狩りの時間だ」
◇
ハインツ商会。
その巨大な正門の前で、俺は足を止めた。
門番たちが「また子供が来たか」と追い払おうとするより早く、俺は彼らを睨みつけた。
「イヤネスは、いるか」
子供の声ではない。
数多の商談をまとめ上げ、時には国すら打倒した「アーノル」としての覇気を全開にして放った言葉だ。
門番たちが、わずかに止まる。
さらに背後には、見上げるような巨体のポムキンが無言の圧力を放っている。
「し、しばしお待ちを……」
門番が慌てて中に走り、やがて燕尾服を着た支配人らしき男が現れた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか。会長への面会のお約束はおありですか?」
「いや、無い」
「では……」
お引き取りを、と言おうとした支配人の言葉を、俺は冷たく遮った。
「アケニース伯爵家三男、アルヴィンだ。約束がないなら帰れと言うなら、このまま『レーマネ商事仲裁所』に向かうことになるが、それでいいんだな?」
仲裁所。
商会間のトラブルや契約不履行を公的に裁く、この街の番人のような機関だ。
支配人の顔色がさっと変わった。
子供の戯言として追い返すには、俺の態度はあまりに堂々としすぎていた。
もし本当に貴族の、それも仲裁所案件になるような不手際があれば、彼の首が飛ぶ。
「……少々お待ちください」
数分後。
俺たちは、商館の応接室に通されていた。
バンッ! と扉が荒々しく開かれる。
入ってきたのは、あからさまに不機嫌な顔をしたイヤネスだった。
「なんだ、またお前か!」
イヤネスは支配人を怒鳴りつけた。
「貴様、私の時間をなんだと思っている! 酒屋での腹いせにきたガキの相手など、つまみ出せばいいだろう!」
「い、いえ、しかし仲裁所の名前を出されまして……」
「仲裁所だと? ハッ、笑わせる!」
イヤネスが俺を睨みつける。
「おいガキ。何の用だ。忙しい私を呼び出したんだ、くだらない用件ならただでは済まさんぞ」
「契約の不履行について、説明をしていただきに来ました」
俺は冷静に言い放ち、懐から取り出した羊皮紙――証文をテーブルに叩きつけた。
バンッ!
乾いた音が響く。
イヤネスが一瞬、虚をつかれたように動きを止めた。
「……契約だと? 見せろ」
彼は忌々しげに証文を手に取り、中身を確認し始めた。
最初は馬鹿にしたような顔だったが、読み進めるにつれて眉間の皺が深くなっていく。
彼は支配人に目配せをした。
支配人が慌てて奥の資料室へ走り、数分後に戻ってきて耳打ちをする。
「……控えは、確かにございました」
その言葉を聞いて、イヤネスは鼻を鳴らして証文を放り出した。
「随分と古いものだな。……これを作成したのは四十年くらい前か」
「古ければ、契約が無効になるとでも?」
「そんなことは言っていない。サインは確かに初代ハインツのものだ。……で、何が要求だ?」
イヤネスは椅子に深々と座り直し、足を組んだ。
「この契約は十年の期限付きで、『防錆加工技術』の使用権を独占的に認めるものです。しかし、十年が経過した後も更新の手続きはなされていない。違いますか?」
「……まあ、待て」
イヤネスは支配人に確認させた。
「その後の更新記録は?」
「……ございません」
「なるほど。契約更新はなされていない、か。それで、何が望みだ? 更新料でもせびりに来たのか?」
「謝罪を」
「は?」
イヤネスは呆れたように笑った。
「なに、このガキが……この国頭の一角である私に頭を下げろだと?」
彼は懐から白金貨を一枚取り出し、テーブルに放り投げた。
チャリンと回る硬貨。
「金が欲しいんだろう? ほら、白金貨一枚だ。これだけあればしばらく遊んで暮らせるぞ。これで文句はあるまい」
白金貨一枚。
金貨百枚に相当する大金だ。
だが、俺はそれを鼻で笑った。
「くくっ……。桁が……足りませんよ」
「……なんだと?」
「この契約は元々、私の曾祖父アーノルが、当時ハインツ商会にいた友人――『ケイル』の顔を立てて、格安で提供したものです。その技術を使って、あなた方はこの四十年でいくら稼ぎましたか? 白金貨千枚? いや、もっとでしょう」
「……見てきたように言うのだな」
(俺がしたことだしな)
内心で毒づく。
「なるほど、計算はできるようだ。だが、大きな利益が出たのは確かだが、それは我が商会の才覚があってこそだ」
「払わないということか」
「そうではない」
イヤネスは口の端を歪め、ニヤリと笑った。
「お前たちは請求しなかった。請求しに来ないから、我々は相手がどこにいるのかわからなかった……そう言いたいのだ。商売人ならわかるだろう?」
「請求しなければ払わなくてよいとでも?」
「そんなことは言っていない。だが、連絡がつかない相手に金は払えん。それだけだ」
あくまでシラを切るつもりか。
こいつは気づいている。
契約書の署名が「アーノル」であることを。
そして俺がその子孫であることを。
だが、あえて「英雄アーノル」とは結び付けず、「ただの同名の田舎貴族」という体で処理しようとしている。
その方が、支払う額を安く叩けるという計算だ。
「アケニース王国建国の英雄、アーノルをご存じないと?」
俺が言うと、イヤネスは大げさに驚いたふりをした。
「ほう? そのアーノルだったのか。まさかそうだとは知らなかったぞ」
とぼけやがって。
「まあいい、知らなかったものは仕方がない。ということで、未払い分は三十年分だな」
彼は支配人に顎でしゃくった。
「おい、白金貨三十枚を用意しろ」
「は、はい!」
イヤネスはニヤリと笑い、俺を見下ろした。
「なかなか良い商談だったぞ、坊主。幼い割によくやった。未払い分をきっちり回収できたんだ、英雄の曾祖父も喜ぶだろう」
彼はこれで話を終わらせようとした。
白金貨三十枚。
確かに大金だ。
契約上の「基本料金」だけを見れば、それで精算できる。
だが。
俺は席を立たなかった。
「いや、イヤネス……まだだ」
「あ?」
イヤネスのこめかみに青筋が浮かんだ。
「貴様、立場をわきまえろ。伯爵家の三男ごときが、この私と対等だと思うなよ」




