96. 狂人の跡継ぎ論と、泥に落ちた銀貨
宿に戻ると、そこにはお通夜のような空気が漂っていた。
メイガン、ダガン、ジョバーブンの三人が、食堂の隅でどんよりと肩を落としているのだ。
どうやら昨日の勝利で浮ついていた鼻っ柱を、得体の知れない化け物に完膚なきまでに叩き折られたらしい。
ダガンに至っては、ジョッキを見つめたまま、微動だにしない。
「……まあ、放置でいいか」
男が自分の未熟さを知るいい機会だ。
俺が慰めたところでどうなるものでもない。
それより、俺にはやるべきことがある。
情報収集だ。
特に、きな臭い「戦争」の気配がないかどうか。
この街は大陸の流通の要だ。
もしどこかの国が動くなら、必ず物資の流れに変化が出る。
影から戻ってきたスピディに目配せをするが、彼は小さく首を横に振った。
まだ、めぼしい情報はなしか。
さすがに広いこの街で、核心に迫る情報を短時間で掴むのは難しいようだ。
やはり、スピディの網が広がるのを待つのが正解か。
(あいつを使い倒せば、そのうち何とかなるだろ)
俺は内心で、そんなブラックな決意を固めた。
ふと、優雅にティータイムを楽しんでいるポショルが目に入った。
こいつも「国衆」の一人だ。
横のつながりで何か知っているかもしれない。
「ポショルさん、少し聞きたいんですが。最近、大量の武器の売買とか、戦争の気配を感じるような話は入ってませんか?」
俺が尋ねると、ポショルはカップを置いてきょとんとした顔をした。
「戦争? さあ、知りませんねぇ。私は商売や政治には全く興味がないので」
「……あんた、商会の会長ですよね?」
「ええ。ですが、実務はそれが得意な部下たちに丸投げしています。私は研究ができればそれでいいのです。それに、もうすぐ私は会長ではなくなりますしね」
「へえ、引退ですか?」
「いいえ、先日、親族会議で『跡継ぎを製作する気はない』と宣言しましてね」
「……製作とか言うな。子供を作る、と言え」
「似たようなものでしょう? ですが、あいにく私の性癖は、美しく鍛え上げられた殿方にしか向かないのです。女性には全く興味が湧かない。なので生物学的に後継者を作るのは不可能だと伝えたのですよ」
ポショルは、まるで今日の天気を語るようにサラリと言ってのけた。
「なので、次の会長は弟か妹、あるいはその子供たちで勝手に決めろと丸投げしたんです。おかげで今、実家では血で血を洗う骨肉の争いが真っ最中ですよ。誰が会長の椅子に座るか、毒を盛ったり足を引っ張り合ったり……ふふ、人間の醜い欲望の観察記録としては、なかなか興味深いデータが取れています。大笑いですな!」
「……お前、やっぱりヤバい奴だな」
自分の家の崩壊を実験データのように語るこの男に、まともな情報を期待した俺が馬鹿だった。
仕方ない、足で稼ぐか。
俺は宿を出て、街を歩くことにした。
とはいえ、あてもなくふらふら歩いたところで、効率は最悪だ。
そう思って宿へ引き返そうとした時、一軒の高級そうな酒屋が目に入った。
俺はふと、宿で死んだように眠っていたマンダルのことを思い出した。
馬車製作で無理をさせすぎたのか、今の彼は食って、酒飲んで、寝るだけの生き物になっている。
(……労いも必要か。あいつには世話になってるしな)
俺は店に入った。
棚には高価な酒がずらりと並んでいる。
「いらっしゃい。……おや、お使いかい、坊ちゃん?」
「いや、贈り物だ。この店で一番高い酒をくれ」
「金貨2枚だ。『テムパルの雫』と言ってね、貴族も愛飲する希少品さ。今は在庫がその一本しかない」
店主がカウンターの奥にある、青いガラス瓶を指差した。
金貨2枚。
マンダルの仕事ぶりを考えれば安いものだ。
俺が懐から金貨を取り出すと、店主は丁寧に瓶を梱包し始めた。
商談成立。
俺が瓶を受け取ろうとした、その時だ。
「おい店主! 『テムパルの雫』はあるか!」
入り口から、傲慢な声が響き渡った。
振り返ると、そこにいたのは見覚えのある細身の男――ハインツ商会の会長、イヤネスだった。
後ろには屈強な護衛を連れている。
「あ、これはイヤネス様……。申し訳ございません、あいにく今、最後の一本が売れてしまいまして……」
イヤネスの視線が俺に向く。
「なんだ、またお前か。……ふん、子供がそんな高級酒を持ってどうする。味もわからんガキには果実水で十分だ」
イヤネスは顎で護衛に指示した。
護衛の大男が、有無を言わせぬ圧力で俺の手から酒瓶をひったくった。
「こいつは味の分かる人間のものだ。代金はいつものようにツケておけ」
イヤネスは当然のようにそう言い放つと、店主に向かって手を振った。
イヤネスは満足げに店を出ようとし、ふと思い出したように足を止めた。
そして懐から銀貨を一枚取り出すと、それを俺の手ではなく――足元の泥だらけの地面に放り投げた。
チャリン、と乾いた音が石畳に響く。
「ほれ、それで果実水でも買って帰れ」
彼はニタリと笑った。
「施しをするというのは、実に気分がいいものだ。ハハハ!」
高笑いを残し、イヤネスたちは去っていった。
俺は、足元を見下ろした。
泥水に半ば沈んだ、たった一枚の銀貨。
「……」
俺の体温が、急速に下がっていくのを感じた。
酒を奪われたことじゃない。
あの、人を人とも思わない腐りきった態度。
かつての豪商ハインツの名を語りながら、その誇りを泥で塗り固めるような所業。
そして、その背後に見え隠れする「非合法な奴隷」の影。
プチリ、と。
俺の中で何かが切れる音がした。
「……気分がいい、だと?」
俺は銀貨を拾わなかった。
代わりに、泥にまみれたその銀貨を、靴底で強く、強く踏みつけた。
ガリッ、と石畳と擦れる不快な音が響く。
ムカつく、というレベルは超えた。
あいつらは、明確に俺の敵だ。
この街を出る前に、必ず精算させてやる。
俺は煮えたぎる殺意を氷の表情の下に隠し、無言のまま店を出た。




