95. トルガの壁(メイガンサイド)
翌朝。
宿のベッドで目覚めた俺は、手のひらに残る昨日の感触を確かめた。
路地裏の道場での死闘。
あのヒリつくような感覚が、まだ血管の中で燻っている。
「……悪くない目覚めだ」
隣のベッドでは、ダガンが既に起きて筋肉の張りを確かめていた。
ジョバーブンは窓際で煙草をふかしている。
全員、顔には昨日の傷が残っているが、目つきは鋭い。
「さて、最後の『一件』に行くか」
「ああ。昨日のような骨のある奴がいるといいがな」
俺たちは簡単な朝食を済ませると、ジョバーブンのリストにある最後の道場へと足を向けた。
昨日の「実戦道場」を超える獲物がいるかもしれない。
そんな期待に胸を躍らせていた。
目的の道場は、街外れの倉庫街にあった。
だが、近づくにつれて異様な気配を感じた。
稽古の掛け声ではない。
悲鳴と、何かが砕ける音。
そして、野次馬たちのざわめき。
「……なんだ? 祭りか?」
「いや、違うな。血の匂いだ」
ジョバーブンが眉をひそめて足を速める。
道場の入り口は開け放たれていた。
中を覗き込んだ俺たちは、息を呑んだ。
床には、屈強な門下生たちが十数人、ボロ雑巾のように転がっている。
そして道場の中央。
一人の男が立っていた。
粗末な衣服を纏い、背中には巨大な布包みを背負っている。
武器は持っていない。
ただ、素手で立っているだけだ。
その男を、武器を持った三人の男が囲んでいる。
師範代クラスだろう。
そして、その後ろには、豪奢な服を着た初老の男――この道場の主とおぼしき男が、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
「ええい、何をしている! そいつは道場破りだ! 礼儀も知らぬ無礼な田舎者め! 叩きのめせ! 腕の一本もへし折ってやれ!」
喚き散らす道場主。
囲まれた男は、表情一つ変えず、ただ静かに佇んでいる。
「……おい、多勢に無勢だぞ。助太刀するか?」
ダガンが一歩踏み出そうとした。
正義感が強いこいつは、こういう卑怯な真似が嫌いだ。
だが、ジョバーブンが素早くその腕を掴んで止めた。
「よせ、ダガン」
「あ? なんでだよ。あいつ、丸腰だぞ」
「違う。……よく見ろ。助けが必要なのは、囲んでいる三人の方だ」
ジョバーブンの声は、今まで聞いたことがないほど低く、震えていた。
勝負は、瞬きする間に終わった。
三人が同時に襲いかかった。
剣、槍、斧。
死角のない連携攻撃。
だが、男は動いたようにすら見えなかった。
ドンッ、という重い音が一つ。
次の瞬間、三人の体は弾かれたように吹き飛び、壁に激突して動かなくなった。
誰も、何が起きたのか理解できなかった。
ただ、男の拳が、蹴りが、あまりにも速く貫いた結果だけがそこにあった。
静寂。
男は拳についた埃を払うと、ゆっくりと道場主の方を向いた。
「……これで終わりか? それとも、お前か?」
低く、重い声。
道場主は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、腰を抜かして後ずさった。
傲慢さは消え失せ、あるのは純粋な恐怖だけだ。
戦う意思など微塵もない。
その光景を見た俺の中で、何かが弾けた。
恐怖? いや、違う。
昨日の勝利で満たされたと思っていた渇きが、猛烈な勢いでぶり返したのだ。
あいつは「本物」だ。
今まで会った誰よりも。
「……おい、アンタ」
俺は一歩、前に出ていた。
ジョバーブンが「バカ、やめろ!」と叫ぶのが聞こえたが、足は止まらなかった。
男がゆっくりと振り返る。
その瞳は、深海のように静かで、底が見えなかった。
「まだ疲れてないなら……俺と遊んでくれよ」
俺は剣を抜いた。
昨日研ぎ澄ませた、俺の全てをぶつける。
男は少しだけ眉を動かし、小さく頷いた。
「女?まあ、いいだろう」
俺は斬りかかった。
最高のタイミング、最高の角度、最高の速度で。
だが、剣は空を切り、次の瞬間には天井が見えていた。
受け流されたのか、カウンターをもらったのかさえ分からない。
ただ、肺の中の空気が全て強制排出され、地面に叩きつけられていた。
「グッ……!」
意識が飛びかける中、横でダガンが咆哮を上げて突っ込むのが見えた。
「オラァァァッ!!」
岩をも砕く剛剣。
だが、男はそれを片手で――そう、素手の「手の甲」で弾いた。
ダガンの剣が半円を描いて曲がる。
がら空きになったダガンの腹に、男の膝がめり込んだ。
あの巨体が、くの字に折れて沈む。
最後にジョバーブン。
彼は正面から行かず、死角から短剣を投擲し、同時に背後へ回った。
老獪な奇襲。
だが、男は背中にも目があるかのように、振り返りもせずに裏拳を放った。
正確に、ジョバーブンの顎を捉える一撃。
ベテランの傭兵が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
……完敗だ。
技も、力も、速さも。
何一つとして通用しなかった。
昨日、俺たちが積み上げた自信が、薄っぺらいガラス細工のように粉々に砕け散った。
俺たちは、這いつくばったまま、男を見上げた。
殺される。
そう思った。
だが、男は追撃を加えようとはしなかった。
ただ、少しだけ興味深そうな目で俺たちを見下ろした。
「……俺は『トルガ』の男だからな」
トルガ? 聞いたことがない。
ジョバーブンの顔を見たが、彼も痛みに顔を歪めながら首を横に振っている。
裏社会に詳しい彼ですら知らない場所。
大陸のどこかに、こんな怪物を生み出す秘境があるというのか。
男は淡々と言葉を継いだ。
「強くて当然だ。……だが、お前たちも、そこに転がっている連中よりはそこそこマシだったぞ」
慰めですらなかった。
象が蟻を踏まずに跨いで通るような、絶対強者の慈悲。
男は背負い袋を担ぎ直すと、道場主には目もくれず、風のように去っていった。
残されたのは、圧倒的な静寂と、敗北者たちだけ。
「……ははっ」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
悔しいとさえ思えなかった。
あまりにも、あまりにも遠すぎる。
「……立てるか、二人とも」
「……ああ。なんとかな」
「……クソッ、あばらが何本かいったかもしれねぇ」
俺たちは互いに支え合いながら、よろよろと立ち上がった。
昨日の勝利の高揚感は、もうどこにもない。
あるのは、自分たちの小ささを知った痛みと、世界にはまだまだ未知の強者がいるという事実。
(上には上がいる。……果てしなくな)
俺たちは無言のまま、男が消えた方角を見送った。
アルヴィンが待つ宿へ戻る足取りは、昨日よりもずっと重く、しかし、ずっと地に足がついたものになっていた。




