90. 農民伯爵と、見えざる病魔
コース料理の最後、濃厚なエスプレッソを飲み干すと、窓際の特等席に座っていたワラングが優雅にナプキンを置いた。
その動作一つで、周囲の空気がピリリと張り詰める。
彼は従者に目配せをして会計を済ませると、出口へと向かった。
だが、その足は俺たちのテーブルの横でピタリと止まった。
「……おい」
頭上から降ってくる冷ややかな声。
俺が顔を上げると、ワラングは氷のような瞳で俺を見下ろしていた。
「なかなか生意気な子供だ。俺が誰か知っているのか?」
威圧感。
ただそこに立っているだけで、周囲の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
これが若くして国頭の筆頭を譲り受けた「商王」の覇気か。
だが、俺は動じずに椅子から降りて一礼した。
「ええ、存じております。この国で一番偉くて、お金持ちの方でしょう?」
「……フン」
ワラングは鼻を鳴らした。
子供の世辞など響かないと言わんばかりだ。
「口の減らないガキだ。どこの家の者だ? 商人の倅か?」
「いいえ。私はアケニース伯爵家三男、アルヴィンと申します」
俺が名乗った瞬間、ワラングの眉がわずかに動いた。
彼は記憶の引き出しを一瞬で検索し、すぐに侮蔑の色を浮かべた。
「アケニース……? ああ、あの歴史の浅い『農民伯爵』か」
ワラングは冷笑した。
「聞いたことがあるぞ。農民が王族を倒して建国したとかいう、野蛮な国の貴族だろう。血統書のない雑種が、よくもまあこの場に来れたものだ。ここは商人の戦場だ。泥臭い農民貴族が出しゃばるなよ。……身の程を知れ」
彼は俺の襟を汚いものでも触るように指先で弾き、去っていった。
その背中には絶対的な自信が張り付いていた。
「……ケッ。嫌な野郎だ」
スピディが小声で悪態をつく。
だが、その空気を今度は酒臭い吐息がぶち壊した。
「おいおいおい! 待ちなぁ!」
ドスン! と俺の肩に重い手が置かれた。
泥酔したボランクだ。
「今、アケニースって言ったかぁ? だったらお前、知ってるか? 最近、お前んとこの領地から流れ込んでくる『透明な酒』だよ! あれはいいぞぉ。まだ荒削りだが、熟成させれば化ける!」
ボランクはご機嫌で俺の背中を叩く。
パールやクサレッタも、遠巻きに興味深そうにこちらを見ている。
その時だった。
ガタンッ!!
離れた席で、恰幅の良い商人が椅子から崩れ落ち、喉を掻きむしりながら床でもがいていた。
「お、おい! どうした!?」
「呼吸停止。脈拍微弱……。脳卒中か? 心臓か?」
ポショルが素早く駆け寄り脈を取るが、原因を特定できずに眉をひそめた。
男の顔色はどんどん紫色に変わっていく。
俺は席を立ち、男を凝視した。
【見る力】、発動。
【名前:ガストン】
【状態:重度のアレルギー反応(甲殻類)】
【詳細:気道粘膜の急激な浮腫による窒息】
(アナフィラキシーショックだ!)
迷っている時間はない。
俺は子供の高い声を響かせた。
「気道が腫れ上がってる!」
「え?」
ポショルが振り返る。
「喉の奥が腫れて空気が通ってないんだ! 早く腫れを引かせる薬を! 早くしないと死んじゃうよ!」
俺の具体的な指摘に、ポショルの目が鋭く光った。
彼は一瞬で判断し、懐から小瓶を取り出すと男の口に流し込んだ。
「……なるほど、粘膜の浮腫か。ならばこれで収縮させる!」
ポショルが胸部を圧迫し、強制的に呼吸を促す。
数秒後、「ゴホッ! ガハッ……!」と男が大きく息を吸い込んだ。
「た、助かった……」
周囲から安堵の声が漏れる。
ポショルは男の安定を確認してから立ち上がり、ゆっくりと俺の方へ歩いてきた。
その目は、先ほどよりも遥かに鋭い光を宿していた。
「……アルヴィン君。君には『見えた』のかい? 外からは見えないはずの、喉の奥の腫れが」
「……なんとなく、苦しそうだったから」
俺は子供らしく誤魔化した。
だが、ポショルは口角を吊り上げて笑った。
「ふふ。ダガン君の筋肉も魅力的ですが……君のその『目』。俄然、興味が湧いてきましたよ」
ポショルは名刺を俺のポケットにねじ込むと、優雅に去っていった。
ワラングの敵意、ボランクの絡み、クサレッタの不気味な視線、そしてポショルの執着。
レーマネの夜は、とんでもないお土産を俺たちに残してくれた。




