89. 黄金の怪物たちと、呪われた文字
早朝の赤土を切り裂き、新型馬車『リライア』は疾走した。
独立懸架サスペンションが荒野の凹凸を完璧にいなし、マンダルが魂を削って叩き出した真球ベアリングが、車輪を無音で回転させる。
時速40キロを超える狂気の領域に達しても、車内のテーブルに置いたワイングラスの表面には、さざ波ひとつ立たなかった。
「……信じられん。これはもう馬車ではない、動く宮殿じゃ」
マンダルが、煤だらけの手で震えるようにグラスを掲げた。
御者台から戻ってきたスピディも、興奮で顔を真っ赤にしている。
「ボス! こいつはヤバすぎっす! ケツが一度も浮かなかったっすよ!」
試運転は、単なる成功という言葉を通り越し、馬車の歴史を塗り替える「革命」だった。
朝日を浴びて威風堂々と佇む黒い機体。
それを見つめるカイルたち親子三代は、互いの肩を抱き合い、ただただ男泣きに暮れていた。
「よし! 性能は完璧に証明された!」
俺は馬車の屋根にひょいと飛び乗り、高らかに宣言した。
「これより完成祝いを行う! 場所はこの街で一番高い店、 スピディ、今すぐ走ってどっか予約してこい。金に糸目はつけなくていい。……そして全員、風呂に入って一番いい服を用意しろ。泥臭い格好で門前払いされたら、リライアの品格に関わるからな!」
「へいッ! マッハで予約押さえてきやす!」
スピディが風のように消えていく。
残された面々は、大慌てで「正装」の準備へと散っていった。
◇
そして夜。
レーマネの頂点、超高級ホテルの最上階。
エレベーターの扉が開いた瞬間、俺たちは別世界に放り出された。
大理石の床、巨大なクリスタルのシャンデリア。
給仕たちは全員燕尾服を纏い、ハープの音色が下界の喧騒を完全に遮断していた。
「……おいスピディ。俺の靴、泥ついてねぇか?」
「大丈夫っすよボス。さっき俺が自分の顔が映るまで磨き倒しましたから!」
案内された円卓に座ったものの、マンダルたちは借りてきた猫のように肩をすぼめている。
だが、居心地の悪さは単なる高級感のせいではなかった。
「……おいおい、今日は厄日か?」
ジョバーブンがメニューで顔を隠しながら、引きつった声で囁いた。
「周りを見てみろよ。あっちの席も、こっちの席も……この国を牛耳る『国頭』と『国衆』がズラズラいやがる」
俺はグラスの水を飲むふりをして、そっと【見る力】を発動した。
窓際の特等席には、鋭い目つきの美青年が座っている。
【名前:ワラング(21歳)】
【能力:商王】
「あいつが『ワルドン商会』の会長、ワラングだ。先代の父親はまだピンピンしてるんだが、『こいつの才覚には勝てん』とさっさと跡を譲ったほどの怪物だ。国頭の筆頭、この街の王様だな」
ジョバーブンが解説する。
その隣には金貸しのムリヤム。
さらに奥には宝石商のパールが座っている。
だが、パールの向かいに座る女性を見た瞬間、俺の視界にある『文字』が警告を発した。
黒いドレスに不気味な薄ら笑いを浮かべる女性。
【名前:クサレッタ(35歳)】
【能力:呪法】
(……呪法?)
魔法という概念が希薄なこの世界で、これほどまでに異質な単語。
さらに、彼女の背後に控える従者の男に目を向けると、心臓が冷たくなった。
【名前:ティーガ】
【状態:呪縛】
(『呪縛』……。なんだ、この不吉な文字は)
従者の男には生気がない。
俺は本能的に察した。
このクサレッタという女の周りにある『文字』には、触れてはならない危険が潜んでいる。
そんな緊迫した空気を、豪快な笑い声が土足で踏みにじった。
「ガハハ! 酒だ酒! この店で一番高いのを全部持ってこい!」
中央の席で騒いでいるのは、国衆の一人、運だけで生きるバカ息子のボランクだ。
彼はふらつく足取りで俺たちのテーブルに近づいてきた。
「おう! そこのむさ苦しい爺さん! なかなかいい飲みっぷりじゃねぇか! 俺の奢りだ、こっちに来て一杯どうだ?」
「……フン。若造の酒など、水っぽくて飲めん。失せろ」
マンダルが手を払い除けると、ボランクは「あぁ!?」と顔を真っ赤にした。
そこへ、別の方向から紳士的な声がかかった。
「失礼。少々よろしいかな?」
現れたのは長身の紳士、ポショルだ。
態度は丁寧だが、その目は粘着質な熱を帯び、ダガンの筋肉を観察している。
【名前:ポショル(38歳)】
【能力:薬学】
「君のその上腕三頭筋、素晴らしい。実に美しい。私はポショル、薬学を専門とする者です。後で私の研究室に来てくれないか。君の肉体をさらに高みへと導く特別なプロテインがあるんだが」
「は? ……いや、結構だ。俺は肉しか信じてねぇ」
ダガンが身を引くが、ポショルは「ふふ、ストイックですね」と眼鏡を押し上げた。
カオスだ。
大陸経済のトップたちが、同じ空間で欲望を垂れ流している。
窓際のワラングが不快そうにカトラリーを置いた。
「おい、ボーイ。この店はどういう基準で客を入れているんだ? 格式が下がる。子供が来るような店じゃないはずだぞ。ミルクなら下のカフェで飲んできたらどうだ?」
完全に「異物」扱いだ。
スピディがムッとするのを制し、俺は最高の笑顔を作った。
「ご心配なく。俺たちは『成功』を味わいに来たんでね。味付けは濃い方が好みなんですよ。……あなた達みたいにね」
俺は運ばれてきた「熟成牛のロッシーニ風」を口に運んだ。
……美味い。
フォアグラの脂と肉の旨味が溶け合い、トリュフの香りが鼻を抜ける。
これが頂点の味か。
俺はこの「黄金の怪物たち」を見回しながら、グラスを傾けた。
今はまだ、俺たちはただの「小うるさい客」に過ぎない。
だが、いずれこいつらとも商売で渡り合う日が来るかもしれない。
その時、俺は届くのだろうか。
それとも、あの不気味な『呪縛』のように飲み込まれるのか。
「……楽しみだな」
俺はニヤリと笑い、最後の肉を口に放り込んだ。
レーマネの夜は、脂と金と、危険な予感の味がした。




