73. 枯れた巨匠と、優雅な誘拐
コンゴウたちの詰め所を後にし、俺はコジインの敷地内にある工房へと向かった。
いつもなら、カンカンという小気味よい金属音と、マンダルの怒声が響いているはずの場所だ。
だが、今日は不気味なほど静まり返っていた。
中を覗く。
火の落ちた炉。冷えた金床。そこに、あの偏屈爺さんの姿はない。
「……いない?」
俺が首をかしげていると、後ろから声をかけられた。
「アルヴィン様、マンダルさんをお探しですか?」
几帳面な教師、クロブだ。彼は手に帳簿を持っている。
「ああ。仕事中毒のあの人が工房にいないなんて、雪でも降るんじゃないか?」
「マンダルさんなら、西側の客室にいらっしゃいますよ」
「客室?」
「ええ」
クロブが頷く。
「コジインの改装時に用意した、職員用の個室です。さすがに御高齢ですし、工房の床で寝かせるわけにはいきませんから」
クロブが呆れたように言った。俺はハッとした。
「……そうか。人間だから寝床がいるのか」
「当たり前です。火の精霊か何かだと思っていたんですか?」
「いや、てっきり炉の余熱で暖を取りながら、鉄屑を布団にして寝ているものだと……」
「虐待ですよ、それは」
少し反省した。
前世の彼は仕事場に住み着く妖怪みたいな生活をしていたが、今の彼は六十二歳だ。労わらなければならない。
俺はクロブに礼を言い、客室棟へと向かった。
教えられた部屋の前。俺はノックをした。
「マンダルさん、いる?」
反応がない。留守か? と思った矢先、扉の向こうから地獄の底から響くような呻き声が聞こえた。
「……ぅぅ……誰じゃ……」
「アルヴィンだ。入るぞ」
返事を待たずにドアを開ける。
部屋の中は薄暗かった。
カーテンが締め切られ、淀んだ空気が漂っている。
そして、部屋の隅にあるベッドには、布団を頭から被った何かが丸まっていた。
「……何してんの」
「……放っておいてくれ……」
布団の塊がモゾモゾと動く。
そこからやせ細った手だけがニューッと伸びて、サイドテーブルの水差しを探り、空振ってまた布団に戻った。
完全に終わっている。
「体調でも悪いのか? 医者を呼ぶか?」
俺がベッドの端に腰掛けると、マンダルが顔だけ出した。
無精髭が伸び放題で、目は死んだ魚のように濁っている。あの覇気のある職人の面影はどこにもない。
「……体じゃない。心が死んだんじゃ」
「心?」
「わしはもう、よい年だ……」
マンダルは深くため息をついた。
「死ぬまで現役の鍛冶師だと思っていたが、最近、手の動きが悪い」
自分の手のひらを、恨めしそうに見つめる。
「脳裏に描いた通りのラインが打てん」
力なく手を下ろす。
「石鹸の金型の時もそうじゃった。わしの理想とする曲線が出せず、何度もやり直した……。こんなことは昔ならありえんかった」
「いや、あれ十分完璧だったけど」
「わしの中ではゴミじゃ!!」
突然、マンダルが叫んで咳き込んだ。面倒くさい。
職人のプライドが暴走して、自己嫌悪の沼にハマっている。
「もう潮時じゃ」
マンダルは肩を落とした。
「……これ以上、老醜を晒したくない。わしは引退する」
「引退?」
「うむ……」
弱々しく頷く。
「故郷のクルム村に帰って、畑でも耕しながら余生を過ごすよ。……北東の空が恋しいわい」
マンダルが遠い目をし始めた。
完全に枯れた老人モードに入っている。普通の子供ならそんなこと言わないで!と励ますところだろう。
だが、俺はアルヴィンだ。
「……そっか。分かった」
俺はあっさりと頷いた。
「えっ」
マンダルが拍子抜けした顔で俺を見た。引き止められると思っていたのだろう。
「限界なら仕方ないよ。無理させて悪かったね」
俺は立ち上がる。
「……じゃあ、村まで送っていくよ」
「お、おう……」
マンダルがたじろぐ。
「そうか、お前は意外と冷たい……いや、物分かりがいいのう」
「善は急げだ。すぐ出発しよう。荷物は?」
「これだけじゃ」
マンダルが指差したのは、風呂敷包み一つ。
金槌もやっとこも入っていない。本気で引退する気らしい。
俺はその風呂敷をひったくった。
「よし、行こう。馬車を用意してある」
「ま、待て。そんなに急がなくても……」
慌てて布団から出る。
「心の準備とか、別れの挨拶とか……」
「いいから! 老後のスローライフが待ってるぞ!」
俺はマンダルの手を引き、部屋から引きずり出した。
抵抗する気力もないのか、彼はズルズルと引きずられていく。
コジインの正門前には、すでに旅仕様の馬車が待機していた。
御者台には満面の笑みのスピディ。
そして馬車の横には、巨大な鉄塊を背負った岩のような男、ポムキンが直立している。
「お、おいアルヴィン」
マンダルが不審そうに眉をひそめた。
「……なんか、村に帰るにしては装備が重々しくないか?」
荷台に積まれた大量の野営道具や食料を見て、さらにポムキンの威圧感にビビって後ずさる。
「あれは? あの殺し屋みたいなのは何じゃ?」
「護衛だよ。最近、山賊が出るらしいからね」
「山賊……? クルム村までの街道に?」
「出る出る。めちゃくちゃ出る。熊に乗った山賊とか出る」
俺は適当な嘘をつきながら、マンダルの背中を押して馬車に押し込んだ。
「さあ乗った乗った! 特等席だぞ!」
「ちょ、わしは腰が……痛いんじゃが……」
「クッションも完備だ!」
俺も乗り込み、ドアをバタンと閉める。
スピディが小窓から顔を覗かせた。
「ボス! 準備万端でさぁ! いつでも出せますぜ!」
「あの箱も載せたか?」
「へいっ、あの重い箱ならポムキンが」
「よし、出せ!」
鞭の音が響き、馬車が動き出した。
ガタゴトと揺れる車内で、マンダルがようやく落ち着いた様子で溜息をつく。
「……ふぅ」
彼は車窓から流れる景色を眺める。
「まあ、よい。これでわしの職人人生も終わりかと思うと、少し寂しいが……」
感傷に浸り始めた彼だったが、すぐに眉をひそめる。
「……おい、アルヴィン。なんか方向が違わんか?」
「そう?」
「村は北東じゃぞ。これ、完全に真北に向かっておらんか?」
さすが元一流職人。方向感覚は鋭い。
俺はニヤリと笑い、脚を組んだ。
「大丈夫だよ、マンダル。まずは北の街道に出てから、ぐるっと回るんだよ」
「そんな遠回りする道あったか……?」
不審そうに首をひねる。
「おかしい、わしの記憶では……」
「道は変わるもんだよ。人生と一緒さ」
「誤魔化すな!」
ついに怒鳴り声を上げる。
「おい、止まれ! 降ろせ!」
マンダルが叫ぼうとした瞬間、馬車はさらにスピードを上げ、北への街道を爆走し始めた。
枯れた巨匠の引退撤回ツアーの始まりである。




