70. 沈黙する脅威と、旅立ちの地図
季節は巡り、刺すような夏の日差しが肌を焼く季節が近づいていた。
石鹸とウイスキーの事業は、もはや俺の手を離れて自走し始めている。
石鹸工房では、ランダルが撹拌の自動化や温度管理の簡略化とブツブツ言いながら試作を繰り返していた。
まだ実用化には至っていないが、人海戦術による生産ラインは安定している。
甘い香りを放つ石鹸は、順調に王都へ出荷されていた。
父マーランとリリがうまく流通をコントロールしてくれているおかげで、金は勝手に懐へ転がり込んでくる。
俺の日課であるトレーニングも順調だ。
六歳の体は成長期に入り、私兵団との基礎訓練の汗も心地よく感じるようになってきた。
俯瞰視の制御も完璧だ。
だが、懸念事項がないわけではない。
「……はぁ」
熱気の消えた鍛冶場の隅で、マンダルが深いため息をついている。
かつての覇気がない。
石鹸の金型作りや、ウイスキーの熟成装置という無理難題をクリアしてしまったせいで、完全に燃え尽きているのだ。
あの爺さんは、常に新しい刺激がないと死んでしまう回遊魚のような職人だ。
何か新しいおもちゃを与えないと、このまま老け込んでしまうかもしれない。
そして、もう一つ。
俺は屋敷の暗がりへ、情報収集役のナビルを呼び出した。
「どうだ、ナビル」
闇に向かって声を落とす。
「周辺諸国や王都で、きな臭い動きは?」
「……いえ、特にこれといった情報は」
ナビルは困惑気味に首を横に振った。
「王都はアケニース家の復活劇で持ちきりですし、北の国境付近も静かなものです」
彼は淡々と報告を続ける。
「ナバラ帝国も、その他の諸国も、目立った軍事行動は起こしていません」
「そうか……」
情報がない。
それが逆に、背筋を這い上がるような不気味さを感じさせた。
見る者が告げた、他国の支配という警告。
神の視点での危機は、明日起きるかもしれないし、三十年後に起きるかもしれないのだ。
何もしなければ、前世のように気づいた時には手遅れで、血の臭いが立ち込める戦場に駆り出されて死ぬ未来が待っている。
俺が望むのは平穏な隠居だ。
そのために必要なのは、金と、武力と、そして情報だった。
「……動くか」
俺は執務室の机に広げた古い大陸地図を睨みつけた。
羊皮紙の乾いた匂いが鼻を突く。
待っていても情報が来ないなら、自らの足で取りに行くしかない。
俺の頭の中にあるアーノルの記憶、かつて世界を放浪した知識を総動員し、必要なピースを集める旅だ。
俺は羽ペンを取り、インクの滴るペン先を地図上の四箇所に突き立てた。
一つ目は、北の大国であるナバラ帝国。
ここにはチャランポがいるはずだ。
前世で会った時はふざけた名前の皇太子だったが、あれから数十年が経っている。
順当に代替わりして皇帝になっているか、相当な権力者になっているはずだ。
彼とのコネクションが復活できれば、北の脅威に対する強固な抑止力になる。
二つ目は、鍛冶師の町アインクラ。
サマラ王国の北側、ナバラ帝国との国境近くにある武器と防具の聖地だ。
アケニース領を守るための最新鋭の装備を調達するには、ここしかない。
ついでにマンダルも連れて行けば、新しい鉄の匂いに刺激されて元気になるかもしれない。
三つ目は、商業都市国家レーマネ。
大陸の経済の中心地だ。
金の集まる場所には、必ず生臭い情報も集まる。
大陸全土の金の流れを掴めば、どこの国が戦争準備の鉄を打っているかが見えてくるはずだ。
そして、最後の一つ。
俺は地図の端、危険地帯とされる禁域の森の北側に視線を落とした。
ここにゼダンがいるはずだ。
前世の時代に、俺が気まぐれで養子にした息子。
賢神という、世界の理を解き明かす知恵に特化したとんでもない天才だ。
極度の人間嫌いで、森の奥深くで一人引きこもって研究に没頭しているはずである。
アケニース家がサマラ王国に併合された際、一度だけ爺様の元を訪ねてきたという記録がある。
まだ生きているのは間違いない。
彼を味方に引き入れれば、この上ない最強の頭脳が手に入る。
「……長旅になりそうだな」
これらを回るとなれば、数ヶ月から年単位の時間を馬車の上で過ごすことになる。
だが、今の俺には莫大な金がある。
身を守る強靭な私兵もいる。
動くなら、しがらみの少ない今しかない。
「よし」
俺は決断し、地図を丸めた。
だが、出発する前にやっておくべきことがある。
俺が不在の間、コジインの運営に支障が出ないよう、体制の最終確認をしておくことだ。
俺は椅子から立ち上がり、部屋を出た。
旅の準備は、まず足元の地固めからだ。




