69. 虚空からの着信と、憂鬱な中間管理職
父マーランが帰還した春。
書斎の向かいに座る父の顔から、以前のような悲壮感は消えていた。
心地よい疲労感と、当主としての確かな自信が漲っている。
「……凄まじかったぞ、アルヴィン」
父は温かい茶をすすり、王都での狂騒を語り始めた。
「あの日、陛下がアケニースの酒は太陽の味がすると公言されてからというものだ」
父は少し遠い目をする。
「私の元には連日連夜、貴族たちからの招待状と注文書が山のように届いた」
「でしょうね。で、どう捌いたんです?」
「お前の筋書き通りだ」
父は口角を上げ、ニヤリと笑った。
「この酒は特殊な製法ゆえ、年に数樽しか作れない希少品である、とな」
満足げに頷く。
「販売はすべてアーモン商会に委託してあるので、そちらを通してくれと伝えたよ」
父は苦笑を漏らした。
「リリ殿からは悲鳴に近い手紙が届いたがね」
肩をすくめる。
「問い合わせが殺到して店がパンクしそうだ、もっとよこせ、とな」
「あはは、リリさんなら上手く価格を釣り上げてくれますよ」
希少価値を高める戦略は成功だ。
ただ、と父は眉を下げる。
「すまん。どうしても断りきれないものもあってな」
「王家と、シュテゲン公爵あたりですか?」
「ああ。陛下への献上品は義務だし、シュテゲン公爵には今回の冤罪事件で借りがある」
父は申し訳なさそうに視線を落とす。
「それに、財務大臣や他の公爵、伯爵からも強く頼まれてな……」
「想定内ですよ。その程度なら問題ありません」
俺は軽く手を振った。
「むしろ、権力者に握らせておくことで、アケニース家の防壁になってもらえばいい」
父は長く安堵の息を吐いた。
その背中は、かつての頼りない借金貴族のそれではない。
領地を背負う、経営者の大きさになっていた。
一方、コジインの方も活気づいていた。
子供たちが石鹸の加工を手伝っている。
孤児院の維持費の足しにすると同時に、子供たちの小遣い稼ぎでもある。
「もっと丁寧に!」
コバンの鋭い声が響く。
「でも手早く! 時間は金だよ!」
【商業】の能力を持つ彼は、金になると分かった途端、目の色を変えて作業を指揮している。
彼の周りだけ異常に効率が良い。
平和な風景だ。
そんなある日の午後。
屋敷の庭の柔らかな芝生の上で、一人瞑想をしていた時のことだった。
『……おい』
唐突に。
何の前触れもなく、脳のど真ん中に、あの抑揚のない男の声が響いた。
『聞こえるか?』
ノイズのように声が脳内を揺らす。
『おい、聞こえているか?』
俺は目を開け、深い溜息をついた。
この不躾で、事務的で、どこか偉そうな声。
(……聞こえてるよ)
俺は念話で返した。
(随分と久しぶりだな、【見る者】)
『うむ。感度は良好のようだな』
この世界を観測する管理者は、悪びれる様子もなく淡々と答えた。
(感度も何も、お前が一方的に割り込んでるだけだろ)
俺は少し嫌味を込める。
(一年ぶりか? 去年の五歳の時以来、音沙汰なしだったな)
こいつはお前を観測対象にすると言い残して消えたのだ。
(どこに行ってたんだよ。俺が王都で大変な時も、お前は助けてくれなかったしな)
『神からの使命だ』
見る者は、俺の嫌味を完全に無視して答えた。
『アーノルを、惑星の公転周期で一周分、ただ観察せよ』
感情のない声が続く。
『それが神より与えられた使命だった。ゆえに私は見ていた。それだけだ』
(……なるほどね。相変わらず融通が利かないな)
俺はこめかみを押さえた。
見ろと言われたら見る事しかしない。
(……で? 一年の観察期間が終わって、今日は何の用だ?)
『用件は一つだ。神より新たな使命が下った』
見る者の声が、少しだけ改まったトーンになった。
『心して聞け』
脳内の空気が張り詰める。
『【汝の住まう領域が、他国の支配下に落ちぬようにせよ】』
(……は?)
俺は思考を停止した。
他国の支配下に落ちぬように?
(ちょっと待て。どういうことだ?)
俺は慌てて問い返す。
(アケニース領が侵略されるってことか?)
『知らん』
(……はい?)
『神の言葉はそれだけだ。解釈はお前に任せる』
伝家の宝刀、知らん。
俺はイラつきを抑えながら食い下がった。
(無責任なこと言うなよ! 他国ってどこだよ?)
地図を思い浮かべる。
(東の軍事国家ガンガラか? それとも西のモグロン王国か? 具体的な脅威が迫ってるのか?)
『知らんと言っているだろう』
見る者は淡々と答えた。
『私はアケニース領を見ろと言われただけだ。東に何があるかなど見ていない』
声に揺らぎはない。
『私は神ではない。ただの観測者だ。指示されていない場所を見ることはない』
(使えねぇ……!!)
俺は心の中で毒づいた。
見てないから知らない、は職務怠慢だろ。
(……分かったよ。やればいいんだろ、やれば)
俺は吐き捨てるように言った。
(領地を守ればいいんだな。……それに対する報酬は?)
『ない』
(……チッ、ケチくさい神様だな)
『では、伝えたぞ』
通信が切れそうになる。
(おい待て! 他に情報は?)
『ない』
プツン。
気配が消えた。
脳内のノイズが消え、庭の鳥のさえずりが戻ってくる。
「……あの野郎、本当に言いたいことだけ言って切りやがった」
俺は芝生の上に大の字に寝転がった。
空は青く、雲は白い。
だが、その平穏な空の向こうから、何かが迫ってきているらしい。
「他国の支配、か……」
アケニース領は細長く位置する。
東には軍事国家ガンガラがあり、西にはモグロン王国。
領地を奪われたりすれば、俺の望む平穏な隠居生活は消滅する。
アケニースの富を吸い上げて楽をするという計画も、財布ごと奪われては元も子もない。
(……やるしかないか)
金稼ぎの次は、軍備増強か。
石鹸とウイスキーの金を使って、領地を要塞化しなければならない。
俺は起き上がり、拳を握った。
俺の安眠を妨げる奴は、神だろうが他国だろうが、徹底的に排除してやる。
「まずは……情報収集か」




