68. 帰還した父と、黄金のテーブル
雪解けのぬかるみが、馬車の車輪に重い泥音を立てさせている。
アケニース屋敷の正門をくぐり、数台の馬車が中庭に停まった。
先頭の馬車から降りてきた男の顔には、濃い疲労の影が落ちている。
だが、その瞳には以前にはなかった強い光が宿っていた。
父、マーラン・アケニースの帰還だ。
「あなた! お帰りなさい!」
母ディーファが駆け寄り、豪快に父の首に抱きついた。
ミシッ、と父の背骨が軋む鈍い音が響く。
父は痛みに顔をしかめつつも、嬉しそうに苦笑いを浮かべた。
続いて、祖父ダイファーが重い足取りで歩み寄る。
「よく戻ったな、マーラン。無実の証明、見事であったぞ」
「義父上……。ありがとうございます」
父は深々と頭を下げ、その肩を微かに震わせた。
「お二人が王都まで来てくださらなければ、どうなっていたことか」
王都での死闘を思い返しているのか、父の表情には言葉にできない感謝が滲んでいた。
俺もその輪に加わり、笑顔を作る。
「お父様、お帰りなさい!」
「……アルヴィン」
父の大きく温かい手が、俺の頭を優しく撫でた。
かつての小心者だった面影は薄れ、修羅場を乗り越えた当主としての力強さが備わっている。
その夜。
久しぶりに家族全員が揃った晩餐会が開かれた。
食卓には、孤児院の料理番サハジが腕を振るった豪華な料理が並んでいる。
肉の焼ける香ばしい匂いと、ワインの芳醇な香りが部屋を満たしていた。
「……冤罪の証明は、お前たちが作ってくれた証拠のおかげで決定的なものとなった」
父はワイングラスを傾けながら、王都での成果を語り始める。
「ウイブ家は取り潰され、名誉は完全に回復されたよ」
そこまで言って、父は深く重いため息をついた。
「だが……名誉は戻ったが、金庫は空っぽだ」
グラスをテーブルに置く鈍い音が響く。
「社交費と活動費で蓄えは底をつき、領地の借金も重くのしかかっている」
父の言葉に、賑やかだった食卓の空気が一気に重く沈んだ。
父がチラリと俺を見る。
「アルヴィン」
「お前が提案してくれたウイスキー事業……あれを本格化させなければならない」
父は焦りを含んだ目で、手元の空のグラスを見つめた。
「だが、熟成には時間が……」
「お父様」
俺は居住まいを正し、父の言葉を遮った。
ここからが本番だ。
「スピディ、あれを持ってきて」
控えていたスピディが、恭しく銀の盆を運んできた。
そこに乗っているのは、美しい小箱と一本のボトルだ。
俺はまず、小箱の蓋を開けた。
途端に、ラベンダーと柑橘の華やかで甘い香りが食卓に広がる。
琥珀色に透き通り、ドライフラワーが封じ込められた宝石のような固形物。
「石鹸だよ、母様」
俺は小箱を母の方へ押しやった。
「最高級の美容石鹸ジュエル・ソープだ」
「まあ、なんて綺麗な!」
母の瞳が乙女のように輝いた。
「そんなに良いものなら、私が一番に試してみるわね!」
歓喜する母を横目に、俺は父へと向き直る。
「レシピは完成し、領都の職人を引き抜いてコジインに工房を作りました」
俺は父の目を真っ直ぐに見据える。
「今は試作を終え、これから量産体制に入るところです」
「この事業は、僕が立ち上げたアルヴィン商会で扱います」
「アルヴィン商会……?」
突然飛び出した名前に、父が瞬きをする。
「はい」
俺は自信たっぷりに頷いた。
「ですが、量産流通をアケニース家で賄ってくれるなら、卸値の二割をマージンとして商会にくれればいいですよ」
「残りの利益はすべてアケニース家のものです」
父の視線が空を泳ぎ、高速で動き始めた。
この石鹸の圧倒的なブランド力と利益率を、瞬時に脳内ではじき出しているのだろう。
さらに俺は、もう一つの柱を提示した。
「そしてこちら」
銀の盆からボトルを手に取る。
「以前見せた振動石による、熟成実験の成果です」
俺はボトルの栓を抜き、濃厚な香りを放つ琥珀色の液体を父のグラスに注いだ。
トクトクと、重みのある音が鳴る。
父は震える手でグラスを手に取り、一口含んだ。
「……美味い!」
父がカッと目を見開く。
「王都で陛下に献上したものよりも数段上だ!」
「この熟成技術を使えば、数年かかる熟成が数ヶ月で終わります」
俺はグラスを見つめる父に畳み掛ける。
「熟成することで増える売り上げは、二割以上あるでしょう」
「ですから、装置の使用料として売値の一割をください」
俺はゆっくりと口角を上げた。
「これくらいあれば家も潤い、孤児院の経営も手出しがなくなるはずです」
父は絶句した。
再びサッと指先を動かして暗算を終えると、深い吐息を漏らす。
「……見事だ」
父の顔に、晴れやかな笑みが広がった。
「これなら確かに、莫大な利益が出る」
「共存共栄の関係ですよ、お父様」
「ガハハハ!」
黙って聞いていたダイファーが、突然腹を抱えて大笑いした。
「見ろマーラン、こいつは俺に似て豪快な商売をするぞ!」
祖父は愉快そうに、自分のグラスに注がれたウイスキーを一気に呷る。
ダイファーに商売など出来るわけがないと家族みんなが思っていたが、そんな無粋な言葉はこの場に必要ない。
絶望に沈みかけていたアケニース家の食卓は、希望に満ちた黄金のテーブルへと変わった。
冬の間に水面下で積み重ねてきた準備が、ついに大きなうねりとなって動き出したのだ。




