64. 紫の石と、琥珀色の奇跡
大聖堂での用事を終え、重い扉の向こうへ足を踏み出した。
途端に、刺すような冷たい風が頬を叩く。
空を見上げると鉛色の雲が低く垂れ込め、ちらほらと白いものが舞い始めていた。
冬だ。
本格的な雪に降られれば、街道が閉ざされてしまう。
「……長居は無用だな」
俺は吐く息の白さに顔をしかめ、待機していた馬車に飛び乗った。
「雪に閉じ込められたら、石鹸どころじゃない」
御者台のスピディも、車内のポムキンも、寒さに身を縮こまらせている。
「出すぞ、スピディ」
俺は窓から顔を出し、凍える御者に声をかけた。
「全速力で帰る。雪に追いつかれる前にだ」
「へいへい!」
スピディが手綱を握り直す。
「凍える前に温かい暖炉の前に戻りましょうや!」
車輪が凍てついた石畳を軋ませ、馬車は聖都を後にした。
揺れる車内で、あの騒がしいシステムの声がリフレインする。
ポルムの直系で、魔力の極端に低い者。
そんな都合のいい相手が簡単に見つかるはずもない。
どうやら来年もまた、俺がこの底冷えする北の地へ足を運ぶ運命は変わらないらしい。
数日後。
強行軍の末、雪に完全に捕まる直前で俺たちは領都の屋敷へと滑り込んだ。
庭木にはうっすらと霜が降り、冷たく澄んだ冬の匂いが立ち込めている。
自室に戻った俺は、冷えた体を温める間もなく羽ペンを握った。
脳内の引き出しから、システムが弾き出した完璧なレシピを羊皮紙に書き出していく。
油脂の選定、高純度のアルカリ剤、香りを閉じ込める精油。
だが、この製法は温度管理や攪拌のタイミングがシビアすぎる。
適当な使用人に任せれば、劇薬を生み出して火傷騒ぎになるのが関の山だ。
かといって、俺がつきっきりで鍋をかき混ぜるわけにもいかない。
脳裏に、あの偏屈な鍛冶師の顔が浮かんだ。
マンダルだ。
彼は金属加工のプロだが、素材を見極め正確に処理することにかけては超一流だ。
石鹸の型枠を作るのにも丁度いい。
新しい錬金術の実験だとでも煽れば、あの男なら喜んで徹夜で鍋をかき混ぜるだろう。
石鹸はマンダルに丸投げするとして、次はもう一つの金脈だ。
俺は立ち上がり、屋敷の地下にある貯蔵庫へと向かった。
重い木扉を押し開ける。
ひんやりとした冷気と共に、濃厚で甘い芳香が鼻孔を真っ直ぐに突き抜けた。
そこには、以前仕込んだウイスキーの樽が静かに眠っている。
中には、俺とマンダルしか知らない紫の鉱石……振動石が沈められている。
まだ熟成期間は短いはずなのに、何十年も寝かせたような深く複雑な香りが漂っていた。
「……やはり、いけるな」
樽の前に立ち、俺は確信の笑みを浮かべた。
あの紫の石が生み出す微細な振動が、液体を分子レベルで急速に磨き上げているのだ。
ウイスキー事業の権利そのものは、すでに父マーランに譲渡してある。
だが、この超音波熟成装置である振動石そのものは、紛れもなく俺の私物だ。
(交渉だな)
父上はこの技術の凄まじさを既に知っている。
極上の酒が短期間で大量生産できるとなれば、経営者としての彼が飛びつかないはずがない。
ならば、その装置の使用料として、売上の一部を俺個人の口座に入れさせるのは正当な対価だ。
極上の石鹸と、奇跡のウイスキー。
この二つの武器があれば、俺の財布は潤い、やりたい放題できる自由が手に入る。
父マーランは今頃、無実が証明されて王都の社交界でちやほやされている頃だろう。
帰ってきたら、最高の美酒と極上の石鹸、そして少しばかりの請求書で出迎えてやろう。
俺は地下室の甘い闇の中で、静かに笑みを深めた。




