33. 始まりの場所と、三人の過去
父マーランとの「悪魔の取引」から一夜明けた。
俺は晴れやかな気分で目覚めた。
手に入れたのは、アケニース家という後ろ盾と、俺個人の行動に対する「完全な自由」。
もう、誰に遠慮することもない。
「スピディ、馬車を出して。迎えに行くよ」
「へいへい。あの方々の引き取りですね」
俺たちは再び『銀の翼亭』へと向かい、元気になった三人――クロブ、マルディ、アイーシャを連れ帰った。
◇
到着したのは、アケニース家の屋敷の東棟。
かつて使用人たちが住んでいたが、今は使われていない区画だ。
母上には事前に話してあるし、父上の全権委任もある。ここを好きに使って文句を言われる筋合いはない。
「こ、ここは……領主様の屋敷ではありませんか?」
馬車を降りたクロブが、恐縮して足を止め、呆然と石造りの巨大な建物を仰ぎ見た。
マルディとアイーシャに至っては、馬車のステップから降りようとすらしない。新調した服が汚れるのを恐れるように、互いに身を寄せ合ってブルブルと震えている。
「そうだよ。今日からここが君たちの家だ」
「は……? い、家……?」
クロブは目を白黒させ、周囲の美しい庭園と自分たちを交互に指差した。
「正確には、仮の拠点だけどね。いずれ外にちゃんとした建物を建てるつもりだけど、それまではここを使っていい」
俺は鍵を開け、少し埃っぽい広間へと彼らを招き入れた。
家具は布がかけられたままだが、掃除すれば十分住める。部屋数も多いし、中庭にも直結している。
俺がさっさと奥へ進むと、三人は玄関の入り口で、靴を脱ぐべきかそのまま上がるべきか分からず、オロオロと足踏みをしていた。
「そのまま入ってきていいよ。さて、今後の生活について説明する」
俺はリビングの豪奢な椅子に座り、三人に視線を向けた。彼らは椅子を勧められても、部屋の端っこに固まって立ったままだ。アイーシャは不安そうにクロブの服の裾をぎゅっと握りしめている。
ただ飯を食わせるわけじゃない。
「まず、マルディとアイーシャ。君たち二人は、僕と一緒に勉強と運動をしてもらう」
「べんきょう……?」
「そう。僕にはロリーナという歳が近い子がいてね。彼女は将来、僕の従者になる予定なんだ。毎日僕と厳しい訓練をしている。君たちも同じメニューをこなしてもらう」
二人の子供たちは顔を見合わせた。マルディがアイーシャを少しだけ自分の背中に隠すように半歩前に出る。
「お、俺たちが、領主様の息子さんと……それに、従者になるようなすごい方とですか……?」
マルディの声は上ずっていた。貧民街で泥をすすっていた自分たちが、いきなり貴族の教育に混ざるなど、想像もしていなかったのだろう。
「ただし、ロリーナは実家があるから帰るけど、君たちはここが家だ。3日に1日は休みにする。その日は好きに遊んでいいよ」
「あ、遊ぶ……? お休み……?」
労働と飢えしか知らなかったマルディは、意味がわからないというように目を瞬かせた。だが、俺が頷くと、彼は恐る恐る、しかし力強く返事をした。
「は、はい! がんばります!」
妹の命を救われた恩義がある彼らは、どんな過酷な労働も覚悟していただろうに、提示されたのは「教育」と「休日」だ。やる気にならないはずがない。
「そしてクロブ。君の仕事だが……」
俺はクロブを見た。
俺の目には、彼の【教師】という能力が見えている。だが、本人は気づいていないだろうし、いきなり言っても混乱するだけだ。
「君には、子供たちの『先生』になってもらう予定だ」
「先生……ですか? 俺が?」
クロブは思わず自分の胸を指差した。
「俺は、商会を潰して借金まみれになった負け犬ですよ? そんな人間に、子供たちに教えられることなんて……」
「ああ。これから孤児院を作って子供を増やす。その時、勉強や生活の規律を教える人間が必要だ」
俺は指を立てた。
「とはいえ、いきなり教えろとは言わない。まずは君も、僕たちが受ける家庭教師の授業に参加してくれ」
「えっ、俺も学ぶんですか?」
「『教え方』を学ぶんだよ。ガイズ先生の教え方は上手いからね。それを横で見て盗んでほしい。その後、別枠で君だけの個人授業も設ける。君自身の知識もさらに『高めて』もらう必要があるからな」
「……なるほど。教育係としての教育、ですか」
クロブは顎に手を当て、納得したように頷いた。
元々賢い男だ。こちらの意図をすぐに理解してくれる。
「それ以外の時間は自由だ。本を読むもよし、街へ出るもよし。……どうかな?」
「……過分な待遇です。命を拾ってもらった上に、そこまでして頂けるとは」
クロブは深く頭を下げる。だが、その肩はまだ緊張で強張っていた。
◇
一通りの説明を終え、スピディに掃除用具の手配を頼んだあと、俺は改めて三人の素性を聞いた。
これから長い付き合いになる。知っておく必要がある。
「そういえば、君たちはどうしてあんな場所にいたの? クロブ、君はただの浮浪者には見えなかったけど」
俺の問いに、クロブは苦笑いをして、遠い目をした。
「……お察しの通りです。俺は元々、小さな商会で働いていた商人でした」
「商人か。なるほどね」
あの独特の歩き方、そして数字への理解力。納得だ。
「ですが、人を信じすぎました。いや……自分が一番賢いと思い上がっていたんです。数字ばかりを見て、腹の底にある悪意を見抜けなかった。あいつの怪しい動きにも、気づくチャンスはいくらでもあったのに、自分の才覚を過信して無視したんです」
クロブは自嘲するように、自らの膝の上で拳を固く握りしめた。
「結果、全ての財産と信用を奪われました。……借金を背負わされ、自分がどれほど未熟で愚かだったかを思い知らされながら、気がつけばあのスラムに流れ着いていました」
「……災難だったね」
「いえ、自分の甘さです。慢心の代償ですよ。生きる気力もなくして、ただ死を待つだけの日々でした」
クロブはそこで言葉を切り、隣にいる子供たちの頭を撫でた。
「そんな時、この子たちに出会ったんです」
マルディが俯きながら、ぽつりと語り始めた。
「……父ちゃんと母ちゃんが死んで、家賃が払えなくなって……大家さんに追い出されたんだ。行くところもなくて、妹がお腹すかせて泣いてて……」
「誰も助けてくれませんでした。……クロブさん以外は」
クロブが優しく微笑んだ。
「俺も自分の食い扶持すら怪しい身でしたが、目の前で震えている子供を見捨てて死ぬほど落ちぶれてはいなかったようです。……まあ、結局三人揃って野垂れ死ぬ寸前でしたが」
なるほど。
騙されて全てを失った自分への悔恨を抱える元商人と、親を亡くして路頭に迷った兄妹。
傷を舐め合うような関係だったかもしれないが、そこには確かな「絆」があったわけだ。
(……良い拾い物をしたな)
商人の知識と教養があり、かつ一度地獄を見て、そこから「人を守る」という選択をした男。
そして、その恩義を誰よりも深く刻み込んでいる子供たち。
信用できる人材だ。
「話してくれてありがとう」
俺は椅子から立ち上がり、彼らに向かってニッと笑った。
「過去がどうあれ、今は僕の部下だ。騙した奴や、追い出した奴らが後悔するくらい、立派になってやろうじゃないか」
三人の目に、強い光が宿る。
こうして、アケニース家の東棟にて、俺の「組織」の核となるメンバーの生活が始まった。
ただ――屋敷の使用人たちの視線が、妙に冷たかった。




