204. 英雄の系譜と、野戦食堂の休息
北門の修理作業は、順調に進んでいた。
元工房の老人が指示を出し、元大工と鍛冶師の兵士たちが手を動かす。俺は全体の進捗を確認しながら、必要な資材の差配に回っていた。
チェルピンが残していった二人の護衛のうち、ベオルブの姿はやはりここにはない。
どこにいるのかと尋ねると、シグルはけだるそうに欠伸をしながら「馬のとこッスよ」と笑った。
「あいつ、いっつも馬に話しかけてるんス。人間相手よりずっと饒舌にね」
それを聞いて、俺は不思議とベオルブに親近感を抱いた。前世の記憶――言葉が通じているかは分からなかったが、俺もよく馬たちに語りかけていた時期があったからだ。
一方、今俺の横で壁に寄りかかっているこのシグルという男。
彼はずっと俺の傍を離れないが、いまだに底が知れない。
「シグル、あそこの足場に滑車を運んでやってくれ」と指示を出せば、「ええー、俺が? 重いんで嫌ですよ」と平然と断り、本当に何もしない。
だが、俺が頼んでもいないのに、いつの間にか職人が欲しがっていた釘の箱が、彼らの手の届く絶妙な位置に置かれていたりするのだ。
指示には従わず嫌がるくせに、必要な時に、必要なことがすでに終わっている。有能と無能が極端な形で同居している、ひどく奇妙な男だった。
門の目処がついた昼下がり。
俺は、ここ数日ずっと顔を合わせていなかったロリーナとムルミの様子を見るため、アケニース軍の駐屯区画へと足を向けた。
瓦礫が片付けられた広場の一角で、空気を裂く鋭い風切り音が響いている。
ロリーナだった。
彼女は門の修理を手伝うでもなく、一人黙々と、ただひたすらに槍の素振りを繰り返していた。その迷いのない軌道と、周囲の空気を一切遮断したような集中力は、かつてのロバーソンを彷彿とさせた。
俺の足音に気づくと、ロリーナはピタリと動きを止め、こちらを振り返った。
そして、トコトコと歩み寄ってくると、ジッと俺の目を見つめて言った。
「アル様。……肉が、足りない」
ひどく不満げな声だった。相変わらずというか、本当にブレない奴だ。
「わかった、後で何とかしよう」
俺が苦笑して頭を撫でてやると、彼女の隣で、同じように木剣を振っている男の姿が目に入った。
サナーンだ。
だが、その剣筋はお世辞にも鋭いとは言えない。踏み込みは甘く、太刀筋もブレている。懸命さは伝わってくるが、生来の武の才がないのは明白だった。
ふと気まぐれに『見る力』を彼へ向けてみる。
頭上に浮かび上がった文字は――【農業】。
「……っ、ふふ」
あまりの場違いな才能に、俺は思わず吹き出してしまった。
それに気づいたサナーンが、ピタリと動きを止めて顔を赤くする。
「ア、アルヴィン様……! 確かに私は剣の才能に恵まれておりませんが、面と向かって笑うのはいささか酷では……」
「すまない、お前を笑ったんじゃないんだ」
俺は慌てて謝り、咳払いを一つして彼に向き直った。
「サナーン。お前、『不動剣』という流派を知っているか?」
「え?」
急な問いに目を丸くしたサナーンだが、すぐにその瞳に少年のような輝きが宿った。
「もちろんです! 始原流、ガンテツ流、不動剣、ランガ騎士流……! 私はそういう剣豪たちの噂や武勇伝を聞くのが好きで、軍に入ったのも、半分はその憧れからでした。……まあ、私自身の腕は、到底その足元にも及びませんが」
自嘲気味に笑うサナーンに、俺は静かに首を振った。
「その不動剣の創始者が、剣の扱いもろくに知らない農家の息子だったということは、知っているか?」
「え……?」
「クルム村という辺境の自警団にいた男だ。剣よりも、クワの扱いばかりが上手かったらしい」
サナーンが、息を呑んだ。
「ま、まさか。不動剣のグレンが、農夫……!?」
「詳しいな。そのグレンだ」
俺は、前世からの記憶……というより、今世の「祖父」から聞かされた建前として言葉を紡ぐ。
「俺の曽祖父の盟友でな。爺様から、昔その話を聞いたことがあるんだ。お前の剣を見ていたら、クワを振るう若き日のグレンも、きっとあんなふうに不器用だったのだろうと思ってな」
サナーンは木剣を握りしめ、雷に打たれたような顔でその事実を噛み締めていた。
彼の中で、手の届かない雲の上の伝説が、途端に血の通った人間の物語へと変わったのだろう。
「だが、サナーン」
俺は彼の肩を軽く叩いた。
「お前は剣の腕こそ平凡だが、今は部隊を率い、兵をまとめ上げている。それは個人の武勇よりもずっと得難く、素晴らしい能力だ。……誇りに思っていい」
サナーンの目が少しだけ潤み、彼は力強く、満面の笑みで頷いた。
「がぶっ」
「痛っ!?」
不意に、俺の右手に鈍い痛みが走った。
見れば、ロリーナが俺の手の甲に軽く噛み付いている。
「……にく」
「わかった! わかったから噛むな!」
仕方なく、俺はロリーナを連れて野戦食堂の天幕へと向かった。
だが、当然ながらこんな戦地で、しかも王都が焦土と化した直後に「新鮮な分厚い肉」などあるはずもない。
配給係から手渡されたのは、やはりカチカチの干し肉だった。
ロリーナはそれを見るなり、露骨に唇を尖らせてそっぽを向いた。これではお気に召さないらしい。
俺は調理場にいた兵士に頼み込んだ。
「すまない、この干し肉をいくつか束ねて、石で叩いて柔らかくしてくれないか。それを重ねて、分厚い塊肉みたいに炙ってほしいんだ」
兵士は苦笑しながらも了承してくれた。ロリーナは、火にかけられたその「擬似・塊肉」の網の前に陣取り、微動だにせず見つめ始めた。
その背中を見届け、俺は食堂の隅へ視線を向けた。
長机の端で、背中を丸めて硬いパンを小動物のように齧っている小さな影があった。
ムルミだ。
俺は、配給のスープを受け取ると、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「あ……アルヴィン様」
顔を上げたムルミを見て、俺は思わず眉をひそめた。
目の下には濃い隈が落ち、エプロンには洗いきれなかった血の染みが無数にこびりついている。肉体的にも精神的にも、明らかに限界を超えて憔悴しきっていた。
「大丈夫か?」
「はい……大丈夫、です……」
その声には、紙切れほどの力もなかった。
「今日はもう休め」
俺が静かに命じると、ムルミは力なく首を振った。
「でも、まだ……テントには、診なきゃいけない患者さんが……」
「他にも応急処置ができる者はいる。お前が倒れたら誰が彼らを救うんだ。今は休め」
「でも……」
普段は怯えてばかりのくせに、こういう時の彼女は意外なほど頑固だった。
俺は小さく息を吐き、少しだけ意地悪な質問を投げてみた。
「ムルミ。もし、今俺が座っているこの席に、ポショルが座っていたとする」
「え……」
「あの男なら、今の状況で何と言うと思う? 想像してみろ」
ムルミの目が、少しだけ泳いだ。
あの患者思いで、医療研究に関しては狂気じみていて、そして弟子にはどこまでもスパルタな師匠。
ムルミの頭の中に、ポショルの呆れたような声が再生されたのだろう。
彼女の唇が、微かに動いた。
『これ以上は私の思考効率が落ちますので、寝ます。緊急時以外、決して私を起こさぬように。もしつまらない用事で起こせば……後悔しますよ』
ポショルなら、間違いなくそう言って、さっさとベッドに潜り込むはずだ。
その光景がよほどリアルだったのか、張り詰めていたムルミの表情からフッと力が抜け、彼女は小さく笑い声をこぼした。
「……少しだけ、休みます」
「ああ。そうしろ」
ようやくパンを飲み込み、立ち上がろうとしたムルミの横で、「アル様、焼けた!」とロリーナが分厚く叩き直された干し肉を串に刺して戻ってきた。
嬉しそうに肉にかぶりつくロリーナと、少しだけ足取りが軽くなったムルミ。
その光景に、俺は温かいスープを胃に流し込みながら、ふっと息をついた。
だが、その穏やかな時間は、一人の男の足音によって唐突に引き裂かれた。
「アルヴィン様……ッ!!」
食堂の入り口に、息を切らし、顔を土気色にさせたスピディが立っていた。
アケニース軍が誇る、最速の斥候。
その血走った目を見た瞬間、胃に落ちたはずのスープの熱が急速に冷え、代わりに強烈な悪寒が背筋を駆け上がった。
嫌な予感しか、しなかった。




