205. 動く黄金の天秤と戦鬼たち
モグロン王国の王都。
豪奢な執務室に、血縁である側近の震える声が響いた。
「――サマラの王都が、ナバラ帝国によって陥落しました」
大陸の均衡が崩れ去る、歴史的な凶報。
だが、巨大なマホガニーの机に腰を沈めるモグロン国王、ハナゲルスの顔には、驚愕も焦燥も一切浮かばなかった。
彼の瞳の奥で、【秤】が、音もなく作動していた。
あらゆる事象を損得の数字に変換し、冷徹に計量する。
彼は手元の純金製の文鎮を指で弾き、無機質な声で言い放った。
「……軍の準備をしろ。一週間で整えろ」
側近が血の気を引かせる。
「い、一週間、ですか……。それならば、掻き集めても何とか一万ほどなら」
「王都の守りは五百も残せば十分だ。他はすべて回せ。二万、動かせ」
常軌を逸した命令に、側近は床に額を擦りつけながら悲鳴のような声を上げた。
「なっ……! 王都をほぼ空にするなど、もし他国に攻め込まれれば――」
「確率と採算の話をしろ」
ハナゲルスの底冷えする双眸が、側近を射抜く。
「この状況で、誰が来る。サマラは内臓を食い破られ、ナバラはその肉を貪るのに夢中だ。西のレーマネの商人どもが、一銭の得にもならないこの王都に兵を動かす確率が何割ある? 南のテンスの農夫たちが、クワを捨てて国境を越えると思うのか?」
「…………っ」
「ゼロだ。起こり得ない事態への防衛に兵を遊ばせておく無駄なものはない。全軍をもって、東へ向かえ」
ハナゲルスは机の上の広大な地図を引き寄せ、羽ペンの先で、ある二つの箇所を、トン、トン、と叩いた。
「狙いは、こことここだ。いいな」
他国の血で濡れた玉座になど興味はない。国家の危機に乗じて、最も投資効果の高い果実だけを刈り取る。それが、この国の絶対的な判断基準だった。
「……分かりました。すぐに」
側近が逃げるように退室していく。
再び静寂が戻った部屋で、ハナゲルスは一人、純金の文鎮を指先で弄んだ。
チィン、と。
冷たく、重い黄金の音が響く。
「……市場が開くぞ」
王は、感情の一切抜け落ちた顔で、誰にともなく呟いた。
血と悲鳴が飛び交う戦場は、彼にとってただの巨大な競売場に過ぎないのだった。
数日後、アケニース領西端の砦。
サマラ王国が炎に包まれたという報せは、冬の冷たい西風に乗ってこの辺境にも届いていた。
モグロン王国との国境を塞ぐようにそびえ立つ堅牢な砦の司令室に、けたたましい足音が響き渡った。
「――申し上げます!」
転がり込んできた斥候は、冬だというのに全身から滝のような汗を流し、血走った目で叫んだ。
「西より、モグロン王国軍の進軍を確認! 騎馬、歩兵、さらには攻城兵器を多数確認……その数、およそ一万以上! 早ければ、二日後の昼にはこの砦に到達します!」
報告が落ちた瞬間、司令室に詰めていた一般の幕僚たちは一様に息を呑み、顔を青ざめさせた。
一万。それはこの砦を飲み込むには十分すぎる、圧倒的な暴力の数字だ。
だが。
部屋の最奥、巨大な獣の毛皮が掛けられた椅子に深く腰を沈めていた男だけは、違った。
「……ほう」
ダイファー・アケニース。
かつてヨンドカ王国を蹂躙した『英雄』アーノルの血を引き、自らも国を治めた元国王。齢四十七を数える彼の巨躯から放たれるのは、老いではなく、熟成された強烈な覇気だった。
「クッ……カハハハッ」
ダイファーの喉の奥から、地響きのような低い笑い声が漏れた。
それは狂乱して喚き散らすような安い笑いではない。歴戦の王だけが持つ、極上の獲物を前にした獰猛な歓喜の音色だった。
「王都が落ちた途端か。よっぽど美味い肉の匂いを嗅ぎつけたようだな」
ダイファーはゆっくりと立ち上がり、太い首の骨をバキリと鳴らした。
その双眸に宿る圧倒的な闘気に、報告を上げた斥候が思わず一歩後ずさる。
「本物の『戦』ってやつを教えてやろう」
その言葉に悲壮感は一切ない。
ダイファーの獰猛な笑みを受け、彼の傍らに岩のように直立していた男――私兵団隊長のコンゴウが、感情の読めない太い声で応じた。
「常駐している守備隊が千。我々が引き連れてきた本隊が三千。合わせて四千といったところか。……対する敵は一万越え」
コンゴウは卓上に広げられた防衛図に目を落とし、己の顎を撫でた。
絶望的な戦力差。しかし、防衛の要である彼にとって、それは恐怖する事象ではなく、ただ処理すべき『任務』に過ぎない。
「敵に攻城兵器があるなら、城門への物理的負荷は想定の倍を見積もる必要があるな。各部隊の配置を再調整し、陣形を維持しろ」
コンゴウは淡々と指示を組み立てながら、ふと、わずかに口元を緩めた。
「……骨の折れる防衛になりそうだな」
その顔は、困難な仕事を与えられた頑固な職人のようだった。
名目上の総司令官であるダイファーが全体の士気と『矛』を担い、コンゴウが実質的な軍の運用と『盾』を担う。この二人が揃っている限り、アケニースの軍は決して崩れない。
「おい、ステファ」
ダイファーが、部屋の隅に向かって低い声で呼びかけた。
そこには、筋骨隆々の兵士たちがひしめく中で、引き締まった長身の男が立っていた。
ステファは、指揮官の言葉など耳に入っていない様子で、窓枠の木目を指でスーッとなぞり、その指先をジッと見つめている。
「……聞いてるか?」
「あら」
ステファはふんわりと、優雅な所作で振り返った。
「この砦、ひどく埃っぽいですわね。これではわたくしの槍の穂先まで汚れてしまいますわ。後で隅々まで磨いておきませんと」
迫り来る一万の敵兵よりも、窓枠の埃の方が彼にとっては重大な問題らしい。
全く噛み合わない返答だったが、ダイファーはそれ以上咎めることもなく、ただ鼻を鳴らして豪快に笑った。
紫一点の異端児。だが、その実力が本物であることを、ここにいる誰もが知っているからだ。
司令室の重い空気から離れた、砦の分厚い外壁の上。
吹き付ける冬の冷風に身を晒しながら、ザックは一人、西の地平線を見つめていた。
まだ十七歳の兵士見習い。コジインの孤児院から這い上がり、血を吐くような訓練に耐えてきたが、一万の軍勢が押し寄せるという「本物の戦争」の重圧は、彼の肩にずしりとのしかかっていた。
「……くくっ」
ザックは、手すりの冷たい石を強く叩いた。
腰の剣の柄を握る手のひらには、じっとりと冷や汗が滲んでいる。
「震えているのか、見習い」
不意に、背後から足音もなく声がかけられた。
振り返ると、特殊作戦を担当する小隊長のショイチョが立っていた。ザックの泥臭い根性を見込み、自分の部隊に勧誘した男だ。
「……ビビってねえよ! ただ、頭ん中がいまいち追いつかねえだけだ。四千対一万って、どう計算してもすり潰されるだろ」
ザックが荒っぽく言い返すと、ショイチョは薄く笑い、その肩をポンと叩いた。
「まともに真正面からぶつかれば、な」
「あ?」
「我々百人の小隊の仕事を教えてやろう。敵が城門に取り付く前に、森に潜み、補給線を断ち、罠で削る。一万の兵が綺麗に並んで歩いてこられると思うなよ」
ショイチョの冷徹な目を見て、ザックはゴクリと喉を鳴らした。
司令室の化物たちも、目の前の冷たい隊長も、誰も負けることなど微塵も考えていない。
相手は、莫大な利益を求めて国を食い破ろうとする冷徹なモグロン軍。
それを迎え撃つのは、この辺境で牙を研ぎ澄ませてきた、狂気に等しいほどの戦意を持つアケニースの戦鬼たち。
敵の到達まで、あと二日。
ザックは小さく息を吐き出し、再び西の空を鋭く睨み据えた。




