203. 黄金の天秤と、毒蜘蛛の密書
(王都陥落などまだ誰も知らぬ頃)
サマラ王国西端、トリエンテ伯爵領。
豪奢を極めた執務室の窓からは、活気に満ちた巨大な商業都市の街並みが見下ろせる。
大陸最大の商業都市国家レーマネ。
その莫大な富が流れ込む入り口は、隣国モグロン王国と、このトリエンテ領で二分されている。
しかし、武力衝突や強硬な関税で商人の足を遠ざけがちなモグロン王国とは違い、トリエンテ・ゼーゲイバ伯爵は違った。
彼は、商売を円滑に回すための努力と投資を一切惜しまなかったのだ。
結果として、金は黙っていてもこの領地に流れ込んでくる。
トリエンテ領はサマラ王国で最も裕福な土地となり、ゼーゲイバ自身も王国一の資産家として絶大な権力を手中に収めていた。
ただ。
莫大な金は、人を満たさない。
欲が、次の欲を生む。
(……なぜ、王国を最も繁栄させている私が『伯爵』なのだ)
最高級のシルクの上着を羽織ったゼーゲイバは、香草の煙を吐き出しながら、机の上の勢力図を睨みつけた。
このサマラ王国で唯一の『公爵』。
それは、汗にまみれて剣を振り回すしか能のない、あの野卑なシュテゲンなどではなく。
黄金で国を潤す、この私であるべきではないのか。
満たされれば満たされるほどに膨れ上がる、たった一つの「格」への飢え。
それが、ゼーゲイバの野心を黒く歪ませていた。
そんな時だった。
トントン、と。
控えめなノックの音と共に、初老の執事が青ざめた顔で入室してきた。
「……なんだと?」
執事の耳打ちを聞き、ゼーゲイバは持っていた羽ペンを危うく落としそうになった。
面会を求めてきた相手の名。
それは、北のナバラ帝国における諜報総監、セリオス本人だった。
かなりのやり手だという噂は聞いている。
だが、国内の統制や粛清を司る管轄のはず。なぜ、他国のいち伯爵領に自ら足を運ぶのか。
しかし、外交的な格としては同格だ。
無碍に追い返せば、北の巨大な軍事国家を不要に刺激することになる。
「……通せ」
ゼーゲイバは居住まいを正し、護衛の騎士二人を自らの背後に立たせた。
執務室に現れたその男は、拍子抜けするほど特徴のない風貌をしていた。
地味な衣服、温和そうな顔立ち。すれ違っても記憶に残らないような、凡庸な男。
だが、ゼーゲイバの鋭い商人の嗅覚は、この男が纏う「匂いのなさ」に強烈な底知れなさを感じ取っていた。
「突然の訪問、お許しいただきたい、ゼーゲイバ伯爵閣下」
セリオスは、完璧な礼を尽くして一礼した。
声にも抑揚がない。感情の波が一切読み取れない。
「ナバラの総監殿が、わざわざ我が領地へいかなるご用件かな」
「ええ。……本日は少々、極めて『内密』にしていただきたい件がありまして」
セリオスの視線が、ゼーゲイバの背後に立つ護衛たちへスッと向けられる。
「二人きりで、お話し願えませんか」
ゼーゲイバの背筋に、冷たいものが走った。
この得体の知れない男と二人きりになるのは、致命的な身の危険を伴うのではないか。
断りの言葉を口にしかけた、その時だった。
セリオスが懐から、一通の書簡を取り出した。
飾り気のない、重厚な羊皮紙。
その封を閉じている赤黒い蝋に押された紋章を見た瞬間、ゼーゲイバは息を呑んだ。
ナバラ帝国皇帝の、公式な押印。
ゼーゲイバは目を細め、その封蝋に偽造の痕跡や、一度剥がされたような傷がないか、数秒の間にじっくりと観察した。
……本物だ。傷一つない。
視線を上げ、セリオスの目を見る。
セリオスは、何も語らずにただ静かに一度だけ頷いた。
「……下がれ」
ゼーゲイバは、乾いた声で護衛たちに命じた。
護衛が渋々退室し、重い扉が閉まる。広大な執務室に、二人きりの静寂が落ちた。
セリオスが、滑るような足取りで机に近づき、その書簡をゼーゲイバの目の前に差し出す。
ゆっくりと、ペーパーナイフで封を切る。
羊皮紙を開き。
そこに記された短い文章に目を通した瞬間。
「――――ッ」
ゼーゲイバの指が、微かに、だがはっきりと震えた。
血の気が引き、次に、爆発的な熱が顔を一気に駆け上がる。
信じられない。
いや、信じたくないが、この印が本物である以上、これは絶対の「事実」であり、あまりにも強烈な「毒」だ。
「こ、これは……どういう、ことだ……」
ゼーゲイバの口からこぼれた声は、自分でも驚くほど震え、上ずっていた。
あまりに巨大な暴力の気配と、それ以上に甘すぎる誘惑。
だが、セリオスは何も答えなかった。
ただ、薄い唇の両端をわずかに吊り上げ、完璧に計算された、氷のように冷たい微笑を浮かべただけだ。
「……お返事は、後日また伺いに参ります」
それだけを言い残し。
セリオスは静かに踵を返し、足音一つ立てずに執務室から消え去った。
残されたゼーゲイバは、一人、深い椅子に崩れ落ちるように背中を預けた。
手の中には、皇帝の印が押された恐ろしい密書。
少しでも選択を誤れば、この豊かな領地ごと、一族郎党が灰にされる。
だが、もし。
この書簡の示す通りに動けば、あるいは「動かずに」いれば。
「……」
ゼーゲイバは、震える手で自らの口元を覆った。
窓の外から聞こえる喧騒も、金貨の触れ合う音も、今の彼には何も聞こえなかった。
ただ、脳内にある巨大な黄金の天秤。
そこに、自らの命と、書簡に記された「約束された未来」を乗せ。
どちらに傾くかを、血走った目で狂ったように計算し続けていた。




