202. 動き出す歯車と震える手
北門の修理は、拍子抜けするほど順調に進み始めていた。
理由は単純だ。チェルピンが、避難民の移送を始める直前のわずかな時間で、見事な「置き土産」を残していってくれたからだ。
彼が瓦礫の広場から探し出してきたのは、かつて王都の城門を管理する工房で長年勤め上げていたという、一人の白髪の老人だった。
「この滑車は無事じゃが、噛み合わせの爪が意図的に叩き割られとる。新しい鉄の爪を打てば、鎖はまた巻けるようになるはずじゃ」
老人の皺だらけの指が、複雑な機構の急所を的確に指し示す。
すると、シグルが呼んできた元鍛冶師の兵士が「合点承知」と頷き、元大工の兵士が即座に足場を組み始める。
昨日までただの巨大な鉄屑のパズルにしか見えなかったものが、専門知識と技術が合わさることで、明確な『作業工程』へと形を変えていた。
「北門の目処が立ちそうなら、東、西、南の残り三つの門もすべて同じように確認と修理を進めろ」
それが、本陣のシュテゲン公爵から下された追加の指示だった。
俺が門にかかりきりになっている間、公爵自身もまた、ただ本陣でふんぞり返っているわけではなかった。
破壊された王都を一つの巨大な『要塞』として作り変えるため、兵を総動員して瓦礫を積み上げ、バリケードを築き、各所に矢倉となる防衛陣地を猛烈な勢いで構築し始めている。
カン、カン、と鉄を打つ音が響く。
遠くからは、巨石や木材を運ぶ兵士たちの怒号が聞こえてくる。
俺は、少し離れた場所からその光景を見渡していた。
指示を出さなくても、誰もが自分の役割を理解し、次の行動へ移っている。
絶望で完全に停止していた巨大な歯車が、今はもう、俺が無理に押し回さなくても自立して回転を始めていた。
そしてこの王都では、門だけではない。
人の心もまた、修理されようとしていた。
(ムルミサイド)
同じ頃。
王城前の広場の一角に設けられた医療テントの中は、むせ返るような血と汗、そしてひどく冷たい死の気配で満ちていた。
「次! 布と、熱湯を急いで!」
ムルミは、血まみれになった自分の両手を拭う暇もなく、かすれた声で叫んだ。
目の前の簡易ベッドには、崩れた建物の下敷きになり、足を深く裂かれた男が運び込まれてきたばかりだ。
次から次へと運ばれてくる怪我人。
この異常な寒さで急激に弱っていく老人たち。
十分な栄養も取れず、高い熱を出してうなされる子供。
圧倒的な物資不足と、人手不足。
この地獄のような空間に、頼れるポショル先生の姿はない。長らくアケニースに留まっていた彼も、「さすがに一度顔を出さねばならん」と、西のレーマネ領へと一時帰還してしまっている。
だから、ここでは私がやらなければならない。アケニース軍の中で、今最も医療の知識と経験を持つのは自分なのだから。
(急がないと……!)
男の足から溢れる血を見て、ムルミの心臓が早鐘のように打つ。
恐ろしい。こんな光景、本当は一秒でも早く目を逸らして逃げ出したい。
(いや、違う。焦っちゃだめだ)
小さく首を振り、ポショルから何度も叩き込まれた手順を頭の中で反芻する。
急ぐのではない。まず、慎重に、だ。
傷口の汚れを完全に落とさなければ、後で必ず腐り落ちる。
「大丈夫です、今、洗いますからね。少し痛みますよ」
震えそうになる声を必死に押し殺し、ムルミは患者に優しく声をかけながら、煮沸した湯と清潔な布で傷口を洗い始めた。
男が痛みに呻き声を上げる。
その生々しい命の感触に、ムルミの指先がわずかに強張った。
――ガシャァァァンッ!!
不意に。
テントのすぐ外で、瓦礫の山が崩れ落ちるような、鼓膜を劈く爆音が響いた。
「ヒッ……!?」
ムルミの細い肩が大きく跳ね上がり、両手がピタリと止まった。
息が詰まる。
頭の奥で、かつて自分が味わった、全身が引き裂かれるような『壮絶な痛み』の記憶がフラッシュバックする。
目の前が真っ白になり、呼吸すらできなくなるほどの、あの絶対的な激痛。大きな音が鳴るたびに、またあの痛みが自分の体を貫くのではないかという錯覚が、脳を麻痺させる。
足がすくみ、体が硬直して動かない。
手の中の縫合用の針が、カタカタと震えていた。
(だめだ。動け。今、この手を止めちゃだめだ……!)
目の前の患者の血が、シーツに赤い染みを広げていく。
恐怖で凍りつきそうになる意識の底で、いつかの、ポショル先生の静かで優しい声が蘇った。
――『ムルミ。君は想像を絶する痛みを知りながら、今こうして生きて、ここに立っている』
薬草の匂いのする医務室。
不器用な自分に、根気よく包帯の巻き方を教えてくれた時のことだ。
――『命を失いかねないほどの痛みの底を、君はすでに越えたんです。だから本当は、君にはもう、これ以上怖いものなんて何もないはずなんですよ』
――『まあ、こんなことは本当は言うべきではないのですが。君が医師として生きるのならば、言っておきたかった。……それに君は、いずれ私を超えるのでしょう?』
それは、医師としては少し不適切で、不器用な励ましだったのかもしれない。
だが、その言葉はムルミの心の一番柔らかい場所を、確かに救い上げてくれていた。
(……先生)
そうだ。私は、あの痛みの底から生きて帰ってきたんだ。
ムルミは、血に染まった自分の手をギュッと強く握りしめた。
怖くないなんて、言えない。
本当は今だって、大きな音がするだけで泣き出してしまいたいほど怖い。
でも、だからこそ痛いほど分かるのだ。
今、目の前で命を散らそうとしているこの人が、どれほどの苦痛と恐怖の中にいるのかが。
(救う。絶対に)
そのために、私は血の滲むような努力をして学んできた。ただ怯えて泣くしかなかった、あの日の無力な自分を殺すために。
ムルミは深く、長く、肺の底に溜まった恐怖をすべて外へ押し出すように息を吐き出した。
顔を上げた時、手の中の針はもう、微塵も震えていなかった。
「……もう大丈夫ですよ。これから、傷口を縫い合わせます」
その声には、先程までの怯えはない。
ただ、目の前の命を強引にでも現世に繋ぎ止めるという、医師としての揺るぎない鋼の意志だけが灯っていた。
悲鳴と呻き声が響く医療テントの中で。
臆病な少女の手は、誰よりも正確に、そして力強く、命を縫い合わせていった。




