201. 浮雲の男と、繋がりはじめる歯車
重苦しい軍議を終え、シュテゲン公爵の天幕を出ると、冬の鋭い風が火照った頬を撫でた。
王都の北門。
完全に破壊されたわけではなく、開閉のための内部機構が意図的に叩き潰されたあの門。公爵から下された俺の任務は、あの門の「修理」と防衛線の再構築だった。
天幕の外では、冷気の中で先に出たチェルピンが待っていた。
そしてその後ろには、見慣れない二人の兵士が影のように控えている。
「アルヴィン様」
チェルピンが静かに一礼し、背後の二人を促した。
「私が離れる間、貴方の側へ置く二人です。……ベオルブ。そして、シグル」
まず前に出たのは、浅黒い肌をした、無精髭の男だった。
目は半ば伏せられ、どこか遠くを見ているような虚ろさがあるが、その腕や肩の筋肉は鋼のようだった。
牧場で会った男だ。
「……ベオルブだ」
かすれた声で、本当にただそれだけを言い、男は口を閉ざした。
「ダイファー様の私兵の一人です」
チェルピンが、淡々と補足する。
「戦場では、必ず彼を近くに置いてください。馬の機動力と弓の腕にかけては、天才的です。……愛想はありませんが」
俺が頷くのを見るや否や、ベオルブは一言の断りもなく、無言のまま踵を返し、陣の奥へと歩き去ってしまった。
あまりの自由さに俺が目を瞬かせていると、もう一人の男が、ひらひらと片手を振って前に出た。
「アルヴィン様? よろしく〜」
シグルと呼ばれたその男は、軍人というよりは裏路地の遊び人のような、ひどくけだるそうな笑みを浮かべていた。
立ち姿にも芯がなく、まるで風に揺れる柳のようだ。
「ふざけた男ですが、腕は確かです。シグルを護衛に」
チェルピンの冷たい視線を受けても、シグルは「怖い怖い」と肩をすくめるだけで、全く悪びれる様子がない。
実直なマルディやセインとは、完全に毛色の違うタイプだ。
「では、私はこれより避難民の移送と、補給拠点の差配に向かいます。……どうか、お気をつけて」
チェルピンは軍人らしく、踵を鳴らして完璧な敬礼を見せた。
振り返ることなく、スタスタと瓦礫の街を歩き去っていくその背中。俺の右腕が、戦場から切り離されていく。
途端に、冷たい風が急に強くなったような、心細い不安が胸を掠めた。
「あのう、ほっておいて大丈夫ですよ」
不意に、シグルの間延びした声が横から降ってきた。
彼が指差しているのは、チェルピンの背中ではなく、先程勝手に歩き去ったベオルブの方角だ。
「どうせ、馬のとこに行っただけですから。あいつ、人間より馬の方が好きなんスよ。……とりあえず、飯でも食いましょうよ。腹が減っちゃ、修理も何もできないでしょう?」
シグルの飄々としたペースに、俺は毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
確かに、空腹だった。軍議の前は灰の街を見て食欲など完全に消え失せていたが、酒を飲まされ、次の一手を命じられた今、胃袋が強烈に熱を求めていた。
「……そうだな。よし、飯にするぞ」
俺たちは、アケニース軍の駐屯地へと足を向けた。
焼け焦げた匂いが充満する王都の中で、自陣に近づくにつれて、微かに懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
大した食材があるわけではない。
配給されるのは、石のように死ぬほど硬いパン。
だが、アケニース軍の陣地には、乾燥させた肉や野菜を煮込み、領地で完成までこぎつけた『味噌』を溶いた熱い汁があった。
大鍋から立ち昇る湯気と、故郷の匂い。
食事を作る兵士たちの輪の中に、ひときわ大きな背中と、小さな影があった。
マルディと、アイーシャだ。
俺の姿に気づくと、二人は手にしていたお玉や器を放り出し、弾かれたようにこちらへ走ってきた。
「アルヴィン様……!」
マルディの腹の底から響くような声は、ひどく震えていた。
まるで、迷子になった我が子を見つけた親のような、安堵と痛みが入り混じった顔。
そして、アイーシャは。
俺の足元に滑り込むように近づくと、俺のマント越しに、その細い両腕で肩口へしがみつくように掴まった。
普段の彼女なら、絶対にしないような無作法な接触。
だが、布越しに伝わってくる彼女の指先は、氷のように冷たく、そして小刻みに震えていた。
「……ああ。大丈夫だ」
俺は、しがみつくアイーシャの背中を、不器用な手つきでぽんぽんと叩いた。
「二人とも、怪我はないか。無事だったか」
マルディが、目元を赤くしながら無言で深く、何度も頷く。
俺の肩に顔を埋めたままのアイーシャも、小さく首を縦に振った。
「……大丈夫、です。アルヴィン様が、ご無事なら」
絞り出すような、消え入るような声だった。
それきり、三人の中に言葉は落ちなかった。
ただ、湯気の立つ鍋の音と、冬の風の音だけが流れる。
俺は、肩に伝わる彼女の震えと、目の前で目を赤くするマルディの姿に、先ほど公爵に言われた言葉を思い出していた。
――『共に泣き、支え合うのだ。そうでなければ、正気で歩けるか』。
俺は孤独じゃなかった。
この温もりがある限り、まだ立ち上がれる。
しばらくして、震えの治まったアイーシャがそっと身を離し、マルディと共に「お食事の支度を」と、慌てたように鍋の方へ戻っていった。
「モテますねぇ」
背後から、シグルのからかうような声がした。
俺はそれを完全に無視し、配給の列に並んで熱い汁と硬いパンを受け取った。
瓦礫に腰を下ろし、汁でパンをふやかして胃に流し込む。
美味い。冷え切った内臓の隅々まで、熱と塩分が行き渡るのがわかった。
だが、一息つくと、自然と重いため息が口をついて出た。
「北門の修理……か」
門を構成する滑車や歯車といった機構など、俺の知識にはない。
完全に専門外だ。どうやってあの巨大な鉄の塊を再び動かせというのか。
「お困りごとですか? それとも、飯が不味い?」
隣で同じようにパンを齧っていたシグルが、けだるそうに首を傾げた。
「俺は、この汁、結構好きですよ。……で、何がそんなに重いんスか」
なんとも掴みどころのない、不思議な男だ。
チェルピンが「腕は確か」と太鼓判を押す彼の実力とは、いかほどのものか。
俺は、視線を彼に向け、密かに『見る力』を発動した。
シグルの頭上に、淡い文字が浮かび上がる。
そこに記されていた彼の持つ能力は――『浮雲』。
(……なんだ、その能力は)
剣術でも、弓術でもない。全く意味が分からない。
だが、今は彼の能力の謎解きをしている場合ではない。
「……これから、俺は北門の修理に向かわなければならない。だが、門の機構なんて俺にはさっぱりだ。どうしたものかとな。まあ、一度現場を見るしかないが」
俺がぼやくと、シグルは目を丸くして、からからと笑った。
「なんだ、そんなことですか」
「そんなこと?」
「ええ。アルヴィン様が一人で悩むことじゃないですよ。こんだけ人が集まってりゃ、誰か知ってますって」
言うが早いか、シグルは立ち上がり、食事をしている兵士たちに向かって大声で叫んだ。
「おーい! 誰か、城門の修理のやり方、分かりそうな奴はいねえかー!!」
あまりに直接的で、無遠慮な呼びかけ。
だが、その声を聞いて、ぞろぞろと二人の兵士がこちらへ歩み寄ってきた。
「あー、門そのものの仕組みは分からねえよ、ですけど」
もじゃもじゃの髭を生やした大柄な兵士が、頭をかきながら口を開いた。
「俺、元鍛冶師ですんで。歯車や滑車がぶっ壊れてるなら、鉄を叩いて代用品を作ることくらいなら、できるぜ、です」
「無理に敬語を使わなくていい」
俺が苦笑して言うと、髭の男はホッとしたように「そりゃ助かる」と笑った。
もう一人の、細身で日に焼けた兵士も続く。
「俺は元大工なんで、足場を組んだり、滑車の木枠を直すくらいなら助けになると思います」
鍛冶師と、大工。
なるほど、彼らの知識と技術があれば、少なくともあの門の「何がどう壊れているか」を把握することはできる。
俺は、髭の男と大工の男の顔を交互に見つめた。
一人で抱え込む必要などない。自分に足りないものは、他者の手を借りればいい。
シュテゲン公爵にも、酒の席でそんなことを教えられたばかりだった。
「ああ。助かる、頼む」
俺は、彼らに向かって真っ直ぐに頷いた。
「飯を食い終わったら、俺と一緒に北門までついてきてくれ」
シグルが「ほらね」とでも言いたげに、飄々と笑って汁をすする。
壊された防衛線。失われた街。
だが、バラバラになった歯車が、互いに噛み合い、再び回り始めようとする確かな手応えが、そこにはあった。




