200. 灰の上の軍議と、離れる影
空になったグラスを卓に置く音が、天幕の空気を一変させた。
先程までの、琥珀色に染まった粗野で人間臭い熱気は霧散し、血と鉄の匂いが漂う冷徹な軍議の場へと空気が張り詰める。
シュテゲン公爵は顎をしゃくり、背後に立つ二人の男を示した。
「わしの両腕だ」
まず前に出たのは、背は高くないが、横幅が異常に分厚い男だった。
岩を削り出したかのような骨格。その大きな双眸が、俺を値踏みするようにジロリと睨みつける。
「……ズンバルクだ」
低く唸るような、最低限の自己紹介。それ以上は一言も発する気がないらしい。武力で語るタイプの典型だ。
続いて、もう一人の男が一歩進み出た。
こちらはズンバルクとは対照的に、長身で痩躯。軍服を隙なく着こなし、その目は凍りついた湖面のように冷徹だった。
「参謀を務めております、キミッチと申します。若きアケニースの将に拝謁でき、光栄に存じます」
声のトーンはどこまでも丁寧だが、そこに温度は一切ない。
横に立つチェルピンと、どこか似た気配を感じる男だった。
俺とチェルピンも短く名乗りを返し、互いの認識を済ませる。
「さて、本題だ」
公爵が太い指で地図の王都周辺を叩いた。
俺は姿勢を正し、先陣を切って問いを投げた。
「敵の本隊は北へ退きました。アインクラ要塞へ向けての追撃、あるいは要塞の奪還はどう動かしますか。我々も――」
「今は動けん」
俺の言葉を遮り、公爵は重く首を振った。
「なぜですか。敵が要塞に入り切る前であれば、背後を叩けるはずです」
「理由は三つある」
公爵の代わりに、冷徹な参謀キミッチが淡々と口を開いた。
「一つ。残された民です。あの重傷者や孤児たちを放置して軍を北へ進めれば、二日と持たずに彼らは飢えと寒さで全滅します。我々は王国の正規軍。護るべき民を背に捨てて進む大義はありません」
反論の余地のない正論だ。
「二つ。西のトリエンテ、東のゴロチャーテ両伯爵の動向が完全に不明であること。我々が一万八千の全軍を北へ向けた隙に、彼らが王都に入り、我々を『賊』として背後から討つ可能性すら否定できません」
「まさか。国難の時に……」
俺が眉をひそめると、公爵が鼻を鳴らした。
「あいつらは商人であり、外交の狐だ。勝つ方に乗る。今、ナバラと我々がぶつかれば、無傷の奴らがこの国の覇権を握ることになる。背中を見せるわけにはいかんのだ」
「……そして三つ目」
ズンバルクが、低い声でポツリとこぼした。
「アインクラの壁だ」
公爵が重々しく頷く。
「あの要塞の防御機能が生きている限り、この一万八千の兵では絶対に落とせん。奴らが王都をあっさり捨てたのは、あの絶対防衛線に籠もりさえすれば、いつでもこの国を蹂躙できるという確信があるからだ」
動けない。
敵の尻尾が見えているのに、足に重い鎖を巻かれている状態だ。
「兵站はどうなっていますか」
チェルピンが、眼鏡を押し上げながら静かに問うた。
「我が公爵領からは、すでに食料と物資の輸送隊を出立させている。だが、着くのは早くて三日後だ」
公爵の答えに、チェルピンはわずかに頷き、俺を見た。
「アケニースからも物資を出しましょう。幸い、対モグロン王国用に構築していた補給拠点が機能しています。家畜や乾燥食料の備蓄は十分にありますが……」
チェルピンは地図の東側に視線を落とした。
「あちらの戦線のため、半分は残す必要があります。それでも、当座を凌ぐには十分な量が確保できます」
「助かる。辺境の小僧にしては、随分と周到な準備をしているものだ」
公爵が感心したように唸るが、問題はそれだけではなかった。
「王都に残された民ですが……このままここに置いておくのは危険すぎます」
俺が切り出すと、キミッチも同意するように頷いた。
「左様ですな。ここはすでに都ではなく、ただの前線基地。非戦闘員は足手まといにしかなりません。公爵領で一時保護が妥当でしょう」
「アケニースでも受け入れますよ」
王都の復興はしないと決まったのだ。彼らを安全な場所へ逃がし、完全にここを戦場として作り変えなければならない。
「問題は、誰がその引率と、物資輸送の指揮を執るかだが……」
公爵の視線が、卓を囲む面々を巡る。
数千の避難民の移動。厳冬の行軍。並の部隊長では、途中で凍死者や暴動が続出するだろう。それに加え、補給拠点の差配も同時に行える人間。
「……私が行きましょう」
静寂の中、チェルピンが一歩前に出た。
俺は弾かれたように彼を振り返った。
「チェルピン、お前が?」
「はい。アケニースの補給拠点を動かすには、私が直接指揮を執るのが最も確実で早いです。避難民の移送と並行して手配を済ませ、必ず戻ります」
彼の目は、全く揺らいでいなかった。
俺にとって、チェルピンはただの副官ではない。この狂った盤面を読み解き、俺の背骨を支えてくれる最大の右腕だ。彼がここを離れることの不安は、想像以上に大きかった。
だが。
ここで彼を引き留めるのは、ただの子供の我儘だ。
俺は、卓の下で一度だけ拳を強く握り、すぐに緩めた。
「……分かった。任せる」
「はっ」
チェルピンは深く一礼した。
公爵が、ニヤリと笑って俺を見た。
「右腕をもがれて不安か、小僧」
「まさか。戻るまでに、この灰の街をまともな『要塞』に作り変えておかなければと、計算しているところですよ」
強がりに聞こえただろうか。
だが、公爵は嬉しそうに喉を鳴らした。
「結構。では、瓦礫の掃除から始めるとしよう」
軍議が終わり、天幕を出るチェルピンの後ろ姿を見送る。
焦げた風が、彼のマントを静かに揺らしていた。
俺は一人、開け放たれたままの北の門を睨み据えた。
今はまだ、耐える時だ。




