199. 琥珀色の哲学
天幕の布をくぐると、そこには外の冷気とは異なる、重く澱んだ熱気が満ちていた。
中央の巨大な卓の奥。
シュテゲン公爵が、岩山のような巨体を椅子に預けていた。
その両脇には、彫像のように微動だにしない二人の副官。彼らの視線が、入室した俺とチェルピンを無遠慮に射抜く。
「遅いぞ、小僧」
公爵の低い声が、天幕の空気をビリビリと震わせた。
俺は無言で会釈し、勧められた椅子へと腰を下ろした。チェルピンはいつものように、俺の斜め後ろ、影のような位置に音もなく立った。
卓の上には、広げられた地図。
そして、場違いなほど無骨な、茶色の硝子瓶が一本。
公爵は太い腕を伸ばし、その瓶を掴むと、ドンッ! と乱暴に卓の中央に叩き置いた。
「……公爵、これは」
「見ればわかるだろう。気付け薬だ」
公爵は獰猛に笑うと、手元のグラスになみなみとその液体を注ぎ、一息に喉の奥へと流し込んだ。
ぷはぁ、と吐き出された息から、酒精の匂いが漂う。
そして、空になったグラスを、俺の目の前へと滑らせてきた。
トクトクトク、と琥珀色の液体が注がれる。
「飲め」
短く、絶対的な命令だった。
俺は眉をひそめた。この体はまだ十二歳だ。戦場とはいえ、流石にそれは――。
断ろうと口を開きかけた、その時だった。
ぽん、と。
右肩に、温かい重みが乗った。
振り返ると、チェルピンが表情一つ変えずに俺を見下ろしている。
その目は、何も語ってはいなかった。
だが、俺には分かった。
――これは、儀式なのだと。
「……」
俺は小さく息を吐き、目の前のグラスを手に取った。
ずしりと重い。
意を決して、琥珀色の液面を一気に煽る。
ん、と喉が鳴った。
喉が焼けるほど強くはない。水で薄めたような安酒特有の酸味と、舌に残る雑味。
俺の幼い舌は美味いとは感じなかったが、胃の腑に落ちたわずかな熱だけが、冷え切っていた体の芯を乱暴に叩き起こした。
「……ふっ」
顔をしかめる俺を見て、シュテゲン公爵が鼻を鳴らして笑った。
「戦場に酒はつきものだ。飲めない指揮官なぞ、兵が信用せん」
「……美味くはないですね」
「当たり前だ。美味い酒など、平和な時に豚のように肥え太った貴族が飲めばいい」
公爵は再び自分のグラスに手酌で注ぎながら、ギロリと俺を見た。
「なぜ、戦場にこれが必要か分かるか?」
俺は、口の中に残る嫌な苦味を感じながら、少し考えた。
目の前に広がる灰色の街。死体。絶望。
「……忘れるため、ですか」
恐怖を。悲劇を。
正気を保つために、一時的に思考を麻痺させるため。
そう答えると、公爵は一瞬の沈黙の後、腹の底から轟くような大笑いをした。
「あっはっは! 馬鹿を言うな! 酒ごときで忘れられるなら、わしは今頃、樽の中で溺れ死んでおるわ!」
公爵の笑い声が止む。
そのあとに残ったのは、猛禽のような、鋭く、それでいてどこか悲哀を帯びた古強者の目だった。
「忘れるためではない。……繋ぎ止めるためだ」
公爵が、グラスを揺らす。
「小僧。お前、戦場では感情を殺すのが正しいと思っているな?」
図星だった。
冷徹に。機械のように。それが将の務めだと。
「半分は正解だ。判断に感情はいらん。……だがな、戦場そのものは感情の塊だ。怒り、悲しみ、後悔、殺意。それらを薪にして燃やし続けねば、人は人を殺せんし、己も立っていられん」
公爵はグイッと酒をあおり、乱暴に口元を拭った。
「時に、戦場は人の心ごと破壊する。あまりに巨大な暴力の前では、個人の感情など硝子細工のように砕け散る。だから、酒で繋ぐのだ」
ドン、とグラスが置かれる。
「共に飲み、共に笑い、共に泣く。そのくだらない行為で、砕けそうな心を無理やり繋ぎ合わせ、隣の男と支え合う。……そうでなければ、あんな灰の街を正気で歩けるか」
公爵の言葉は、重かった。
先ほど、瓦礫の街で見た光景が脳裏をよぎる。
絶望の中でも、瓦礫を退け、互いに声をかけ合いながら風除けを作っていた兵士たちの姿。
彼らは、何もない虚無の中でも「繋がり」だけは失っていなかった。
孤独に耐え、一人で歩こうとしていたのは、俺だけだったのか。
公爵は、再び俺のグラスに酒を注ごうと瓶を持ち上げた。
「さあ、もう一杯いけ。今日は長くなるぞ」
注がれる液体。
俺は、なみなみと満たされたそのグラスを持ち上げ――。
スッ、と。
自分の口元ではなく、横に立つチェルピンへと差し出した。
「……?」
怪訝な顔をする公爵の前で、チェルピンは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに口元を微かに緩めた。
そして、恭しくそのグラスを受け取る。
俺は、ニヤリと公爵へ笑い返してやった。
「俺はまだ子供なのでね。……『支え』が必要なんですよ」
一瞬の呆気にとられた顔。
やがて、公爵の顔がくしゃりと歪み、愉快でたまらないといった様子で膝を叩いた。
「くくっ……ははは! 生意気な奴め!」
公爵は鷹揚に後ろの副官たちへ目配せをした。
すぐに、副官たちが懐から自分のグラスを取り出し、卓の上に進み出る。
卓上に、五つのグラスが並んだ。
琥珀色の液体が、天幕の隙間から差し込むわずかな光を受けて輝く。
「サマラに」
短い言葉と共に、グラスがぶつかり合う音が、乾いた音色を奏でた。
俺たちは、不味くて苦いその液体を、今度は一滴も残さずに飲み干した。




