139. 止まった時間の中で
チェレステの夜。
街道から外れたこの小さな宿場町は、日が落ちると一気に音を失う。
一階の酒場であれほど響いていた男たちの怒号や笑い声も、深夜には嘘のように静まり返り、残るのは軋む建物の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけだった。
二階の一室。
簡素な木のベッドが並べられ、その上に子供たちが横たわっている。
誰も、動かない。
ヘモンの熱は、あの特製薬のおかげで峠を越えた。呼吸は落ち着き、額の熱も下がっている。
だが、それだけだ。
水を口元に運べば、反射的に飲み込む。体を拭けば、されるがまま。寝返りすら、自分からはうたない。
生きている。だが、「生活」はしていない。
(……急ぎすぎるな)
俺は椅子に腰掛け、三人を順に見た。
クサレッタの元から救い出した子供たち。
解呪は終わった。紫の鉱石と溶液によって、彼らを縛っていた「呪縛」の状態は消えた。
だが、彼らの中で「選ぶ」という回路は、まだ完全に凍りついたままだ。
前にも見た。コジインに連れ帰った、あの子供たちもそうだった。
1年。
普通の生活に戻れるまで1年かかった。
それでもまだ大きな音や争いには、恐怖を示す。
「……大丈夫だ」
誰に向けたわけでもない呟きが、部屋に落ちた。
ポムキンは壁際に立ち、黙って見張りを続けている。
スピディは床に座り込み、背中を壁に預けて短剣の手入れをしていた。
「ボス」
しばらくして、スピディが小さく声を出す。
「ヘモン……目、覚ましませんね」
「ああ」
「……動かない」
「分かってる」
スピディはそれ以上、何も言わなかった。彼なりに理解しているのだろう。
これは病気の問題じゃない。心の問題だ。
翌朝。
ヘモンは目を開けた。
だが、誰とも視線を合わせない。天井を見つめたまま、ただ呼吸を続けている。
「水だ、持って飲め」
俺が声をかけ、コップを持たせる。
ヘモンの指は、自分の意思で動いたわけではない。「持たされた」から、持っているだけだ。
コップが傾く。水が口に流れ込む。飲む。
――ただそれだけ。
「……よし」
褒める言葉は、まだ使わない。今は、刺激が多すぎる。
ポショルが、そんな事を言っていた気がする。
「スピディ」
「はい」
「今日は俺がここを見る。お前は街で仕事を探せ」
「了解です」
スピディは軽く頷いた。冗談も言わない。今の空気を、ちゃんと読んでいる。
「ポムキン」
「……」
「力仕事があれば引き受けろ。金になるなら、何でもいい」
ポムキンは頷くと、部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋には俺と子供たちだけが残った。
その日、俺は何もしなかった。
正確には、「させなかった」。
子供たちを起こし、食事を口に運ばせ、薬を飲ませ、また寝かせる。それだけだ。
話しかけない。問いかけない。選ばせない。
ただ、生きるために必要なことだけを、淡々と繰り返す。
昼過ぎ、スピディが戻ってきた。
「ボス、港で荷運びと、酒場の皿洗い掛け持ちです。今日は銀貨2枚」
「十分だ」
夕方には、ポムキンも戻る。
「いくら稼いだ」
「3枚」
合わせて銀貨5枚。
宿代と食糧を差し引いても、わずかに残る。
だが、俺の顔は晴れなかった。
(……減ってない。増えてもいない)
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
三日目。
ヘモンの熱は完全に下がった。
だが、状態は変わらない。
座らせれば座る。歩かせれば歩く。だが、止めれば、その場に立ち尽くす。
「……ボス」
スピディが小さく言った。
「いつまで、ここに?」
「……回復するまでだ」
「歩けるようにはなってます」
「歩くのと、旅ができるのは別だ」
スピディは黙った。反論はない。
彼も、分かっている。この子供たちを、もう「駒」にはしない。
五日目の朝。
宿代を支払うために、革袋を開いた。
中身は、軽い。
(……あと二日分)
無理をすれば帰れる。野営を混ぜれば、可能だ。
だが、それは「俺たち」基準だ。子供たちには、無理だ。
その時。
ヘモンが、わずかに首を動かした。
視線が、俺の方へ――ではない。
窓の方へ。
差し込む朝の光に、反応した。
それだけだ。言葉もない。感情も読み取れない。
だが。
(……生きようとはしている)
俺は、革袋を閉じた。
「……決めた」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「あと三日、ここにいる」
「ボス?」
「金は作る。時間も作る」
俺は立ち上がり、部屋を見回した。
何もない宿。何も起きない町。何も変わらない子供たち。
だが――。
「……嵐の前は、こんなもんだ」
戦争の前触れも。陰謀の兆しも。神の声もない。
ただ、呼吸と、金勘定と、待つ時間。
それでいい。今は、それでいい。
階下の酒場から聞こえた「ゼーノル」という奇妙な名の主や、将棋盤の謎。
それらが気にならないと言えば嘘になるが、今は目の前の小さな命の灯火を守ることだけが、俺の戦いだった。
俺は椅子に腰を下ろし、再び子供たちを見守った。
この静かな停滞こそがあるべき平穏なのかもしれない。




