140. 盤上の幻影、指揮官の倒れる日
チェレステの朝霧が晴れる頃、俺たちは宿を発った。
ヘモンの顔色は、良くなっている。残り二人の子供たちも、人形のように静かだが、自力で馬車に乗り込む。
宿代の残りと、スピディとポムキンが稼いだ日銭で、なんとか帰路の資金も目処がついた。
俺は出発の際、ずっと気になっていたことを宿の主人に聞いてみた。
あの一階の奥で騒いでいた連中は何者だったのか。
「ああ、あの連中ですか。たまに来ては、ああやって賭け事をしてるんですよ」
主人はグラスを拭きながら、特に興味もなさそうに答えた。
彼にとっては、よく酒を飲み、金を落としてくれるありがたい客というだけの認識らしい。
どんなゲームをしていたのか、何者なのか、深く詮索するつもりもないようだった。
「ただ、あの日からぱったり見てませんねえ。またそのうち来るでしょうが」
主人の言葉はそれだけだった。
将棋盤に見えたあの影は、俺の願望が見せた幻だったのか。それとも、似て非なる異世界の遊戯なのか。
「ゼーノル」という聞き慣れない、だが妙に引っかかる名と共に、その謎は霧の向こうへ消えた。
確かめる術はない。今は、後ろ髪を引かれている場合ではない。
その後は順調だった。
サマラ王国の街道を抜け、懐かしいアケニースの領地に入った頃には、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩んだ。
石畳の軍道。整備された倉庫群。俺たちが泥にまみれて作り上げた景色。
「着きましたぜ、ボス! 久々の我が家だ!」
スピディの明るい声が響く。屋敷の門が見えてくる。
俺は荷台から降りようと、意識的に背筋を伸ばした。
その瞬間だった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ?」
地面が斜めに見える。足に力が入らない。視界の端が急速に黒く塗りつぶされていく。
内臓が裏返るような吐き気と、頭を殴られたような熱気。
ああ、そうか。
潜伏期間を経て、ついに俺にも回ってきたのだ。
狭い馬車の中で、そして宿で高熱の患者と数日間密閉状態で過ごしたのだ。いくら前世の知識があろうと、今の俺はひ弱な8歳の子供。感染しないわけがなかった。
「ボス!?」
駆け寄るスピディの腕を、俺は死に物狂いで掴んだ。
「……騒ぐな……。あの、薬だ……。作り方は、お前が見ていただろう……」
「ボス、でも!」
「レシピは……広めたくない……。お前が作れ……頼んだぞ……」
そこから先の記憶はない。
次に目を覚ました時、俺は自室のベッドの上にいた。
全身が鉛のように重いが、あの焼けるような不快な熱は引いている。
「……気がつきましたか。飯、奢ってもらいますからね」
枕元には、酷く疲れた顔のスピディが座っていた。
こいつは本当に役に立つ。医者も呼ばず、俺の指示通りに秘匿された薬を調合し、看病し続けたのだ。今度、最高級の店に連れて行ってやろう。
天井を見上げながら、俺は己の不甲斐なさを噛み締めた。
子供の体で、無理をしすぎた。
前世のアーノル時代は、毎日泥にまみれて農作業をし、街道を歩き、鍛錬を欠かさなかった。今の俺はどうだ?
移動は馬車、仕事は机の上での指揮と指示。肉体の鍛錬が疎かになっていたツケが、この最悪のタイミングで回ってきたのだ。
体力がなければ、知略も志も、ただの絵空事で終わる。
母上が涙ながらに心配する中、俺は数日かけてじっくりと休養を取った。
そして動けるようになると同時、ふらつく足でコジインへ向かった。
コジインの門をくぐると、真っ先にロリーナが駆け寄ってきた。
「アル様! 死にかけって聞いたけど、生きてるね!」
「……死にかけとは失礼だな。見ての通りだ」
「えー、まだ顔色悪いよ。今日は槍の稽古はやめといたほうがいいね」
ロリーナの無邪気な気遣いに苦笑しつつ、俺は奥の棟へ向かった。
そこではアニタが、新しく連れ帰った子供たちの世話をしていた。
「アルヴィン様。ヘモン君たちは、少しずつですが『ここ』に慣れ始めています」
アニタが静かに報告する。
商才を持つヘモンと、他の二人の子供たち。彼らはまだ、自分から言葉を発することはない。だが、アニタが用意した食事を口にし、ポショルの診察を受け、日向でじっとしている。
「……それでいい。無理はさせるな」
今は、彼らの中に失われた「自分」という種が再び芽吹くのを待つ時だ。
クロブが教育の準備を整え、サハジが滋養のある飯を作り、ポショルが健康を管理する。
俺が倒れても、俺が迷っても、このコジインという共同体は自律して回り始めている。
ロリーナの明るさが、アイーシャの献身が凍りついた子供たちの心を少しずつ溶かし、コバンが裏で算盤を弾いて屋台骨を支える。
俺はコジインの窓から、夕日に染まるアケニースの空を見上げた。
旅の資金は底を突き、自分も病に伏せた。完敗と言ってもいい。
だが、ここには確かに新しい命が根付いている。
(……次は負けんぞ、クサレッタ)
俺は心の中で毒づき、己の細い腕を強く握りしめた。
まずは、この体を鍛え直すところからだ。




