137. 沈黙する神の庭、最後の謁見
アインクラを出た馬車は、順調に進んだ。
国境が近づくにつれ、車窓の風景は色彩を失っていく。
荒涼とした大地は、手入れされた――されすぎた――無機質な緑へと変わり、街道は塵ひとつない白石の舗装路となる。
ポルム教国。
何度来てもこの国はいつ来ても変わらない。
時が止まったような、美しくも冷たい箱庭だ。
「……ボス、検問ですぜ。なんか静かすぎて不気味ですね」
御者台のスピディが声を潜める。
国境の巨大なアーチの下、数名の衛兵が立っていた。
以前なら多少行列ができていた場所だが、今は閑散としている。
「止まりなさい。……何の用ですか?」
近づいてきた衛兵に、俺は懐から一枚の金属板を取り出して見せた。
『聖銀の証』だ。
「……っ! 失礼いたしました!」
衛兵は直立不動で敬礼し、即座にゲートを開けさせた。
余計な尋問も、荷改めもない。
俺たちはそのままするりと、聖域の奥深くへと馬車を滑り込ませた。
教国の中心部にある大聖堂までは、あっという間だった。
道行く人はまばらで、すれ違う聖職者たちもどこか不安げに俯いている。
かつて世界中の王族が頭を下げに来た権威の象徴も、今はただの巨大な石造りの迷路だ。
「ようこそお越しくださいました、アルヴィン様」
大聖堂の控えの間で待っていたのは、枢機卿モルドだった。
以前会った時よりも、幾分か老け込んだように見える。
「積もる話もありますが……教皇聖下が、貴方様をお待ちです」
「教皇が? 」
「ええ。貴方様が到着されたと伝えると……」
モルドは言葉を濁し、重厚な扉へと案内した。
長い廊下を渡り、最奥にある教皇の私室へ。
消毒液と香の匂いが混じった、独特の空気が漂っている。
部屋に入ると、天蓋付きの大きなベッドが目に入った。
「……よくぞ、参られた」
ベッドの上に、老人が座っていた。
ポルム教国教皇、ベネディクト5世。
衰弱しきった細い腕で、彼は自力で上体を起こしていたのだ。
慌てて駆け寄ろうとするモルドを手で制し、教皇はその深く窪んだ瞳で、子供の姿をした俺を真っ直ぐに見据えた。
「お初にお目にかかります、教皇聖下」
「いえ……こちらこそお会い出来て光栄です」
教皇は、枯れ木のような手をゆっくりと動かし、胸の前で印を結んだ。
それは祝福ではなく、対等な、あるいは目上の者に対する敬意の礼だった。
「……『神』の扉を閉じた者よ」
「……恨みますか?」
「まさか。……神は沈黙された。それは、我ら人が独り立ちをする時が来たというだけのことです」
老人の声は掠れていたが、そこには確かな知性と覚悟があった。
彼は知っているのだ。
この国の繁栄が、システムの余剰エネルギーという「おこぼれ」に過ぎなかったことを。
「アルヴィン殿。……単刀直入に伺いたい。我らは、これからどう生きるべきか」
教皇の問いは切実だった。
神の加護を失った教国は、ただの資源の乏しい小国だ。
これまで「王権の守護者」として各国から徴収していた莫大な寄付金も、権威の失墜と共に途絶えるだろう。
「……金は、唸るほどあるはずだ。長年かけて溜め込んだ、使い切れないほどの資産が」
俺は近くの椅子に腰掛け、淡々と答えた。
「それを切り崩して食いつなぐ? いや、それじゃあ座して死を待つだけだ」
「左様。……我らには、生産する術がないのです」
「なら、作ればいい。産業を」
俺は懐から、数枚の羊皮紙を取り出した。
ナバラ帝国にいた頃、寒冷地での活動用に考案した設計図だ。
「ここは寒い。システムによる空調が止まれば、冬は極寒になるだろう」
「……耳が痛い話ですな」
「だから、これをやる」
俺が広げたのは、『練炭』の製造法と、それを効率よく燃やす『ダルマストーブ』の図面だった。
「練炭? ……これは、泥と石炭を混ぜたものですか?」
覗き込んだモルドが、怪訝な顔をする。
神聖な教国で、泥を捏ねろと言うのか、という顔だ。
「ただの石炭より長く燃える。そしてこのストーブは、少ない燃料で部屋全体を暖める。……見た目は無骨だが、凍え死ぬよりはマシだろ?」
俺はさらに続けた。
「ナバラと同じで、このあたりの山には石炭層があるはずだ。今までは見向きもされなかっただろうが、これなら使える。……民に仕事を与えろ。祈る時間があるなら、手を動かして炭を作らせるんだ」
教皇は図面をじっと見つめ、やがて小さく笑った。
「……泥と、煤か。……よい。実に、人間らしい」
「資金はあるんだ。他国から食料を買い付け、その間にこの練炭とストーブを量産する。近隣の寒冷地へ輸出すれば、それなりの産業になる」
教皇は深く頷いた。
「感謝する。……我らは、この地を閉ざすつもりだ」
「鎖国か」
「うむ。もはや、世界の調停者などという大層な看板は下ろす。……これからは、ただこの極寒の地で、民が凍えぬよう、慎ましく生きていく」
それは、実質的な敗北宣言であり、世界情勢からの撤退だった。
だが、それが正解だ。
力なき正義は無力。今の教国が口を出しても、火に油を注ぐだけだ。
「……賢明な判断だ。聖盾がいるんだ。防壁を固めれば、数十年は持つだろう」
俺は席を立った。
用は済んだ。これ以上、長居する理由はない。
「アルヴィン殿」
去り際、教皇が呼び止めた。
「世界は……荒れますかな」
「ああ。箍が外れたんだ。これまではあんたたちが睨みを利かせていたから止まっていた戦争が、一気に噴き出す」
「……止められぬか」
「俺は神様じゃない。……自分の領地を守るだけで精一杯だ」
教皇は寂しげに、しかしどこか晴れやかに微笑んだ。
「貴公の行く末に、人の世の幸あらんことを」
大聖堂を出ると、外の空気は相変わらず冷たかった。
だが、来る時よりは幾分かマシに感じた。
少なくとも、中にいた老人たちは、死ぬまで足掻くことを選んだからだ。
「早かったですね、ボス。もういいんですかい?」
馬車に戻ると、スピディが驚いた顔をした。
「ああ。用件は済んだ。ゼダンのところに寄ってから帰るぞ、アケニースへ」
俺は御者台に飛び乗った。
ポルム教国は、世界の表舞台から消える。
それは、巨大な重石が取れたことを意味する。
ナバラ帝国、サマラ王国、そして周辺諸国。
抑え込まれていた野心と欲望が、これから雪崩のように溢れ出すだろう。
「……時間は、あまりないかもしれないな」
俺の呟きは、冷たい風にさらわれて消えた。
馬車は南へ。
来るべき嵐の前の、最後の静寂の中を駆け抜けていった。




