135. 緩む国境、消えた親子の行方
レーマネを出て数日、俺たちはサマラ王国へと続く国境の関所に差し掛かっていた。
夕暮れ時で、街道には商人の馬車や旅人の列が長く伸びている。
この数だと通過には数時間かかるか、あるいは今日の通過は諦めて野営か。そう覚悟を決めて最後尾についたのだが――。
「……早いな」
列の進みが、異常に早かった。
まるで検問など存在しないかのように、次々と馬車が吸い込まれていく。
やがて俺たちの番が来た。
俺は懐から、アケニース伯爵家の紋章が入った通行証を取り出し、身構えた。
前回ここを通った時は、かなり厳重だった。
荷台の荷物を一つ一つ開けさせられ、連れている子供の身元をしつこく問いただされたものだ。
今回も、精神的に不安定な子供が三人。
怪しまれる要素しかない。受け取らないと知りつつ賄賂を渡そうと、俺は革袋に手を伸ばしかけていた。
「次」
ダルそうな衛兵が、俺の通行証をひったくるように受け取った。
彼はパラパラと紙面を眺めると、荷台の方を一瞥すらしなかった。
「はい、よし。通れ」
「……荷物は見ないのか? 子供もいるが」
「あー、いい、いい。貴族様の連れだろ? 邪魔すんな、後ろがつかえてるんだ」
衛兵はあくび混じりに手を振った。
俺は拍子抜けしつつも、言われるままに関所を抜けた。
振り返ると、後ろにいた身なりの怪しい商人たちも、大した尋問もなくスイスイと通過している。
「……どうなってるんだ?」
まるでザルだ。
規則が変わったのか? それとも、国境警備隊全体の士気が極端に低下しているのか?
なにか、国という巨大なシステムのネジが、一本抜け落ちているような不気味な違和感。
俺は背中に這う寒気を感じながら、馬を進めた。
国境を越えて最初の宿場町。
宿の食堂で、スピディが地図を広げた。
「ボス。さっき『最短ルートで戻る』って言いましたけど……考え直しませんか?」
スピディが地図上の荒野地帯を指差した。
俺が想定していた最短ルートだ。
「この編成じゃ、荒野抜けは自殺行為ですぜ。俺たちはともかく、子供たちの体力が持ちません。盗賊も多いし、岩場も多い」
言われてみれば、その通りだった。
俺は焦っていた。
一刻も早くアケニースに戻り、この不快な敗北感を拭い去りたかったのだ。だが、その焦りが判断を曇らせていた。
「……そうだな。俺が間違っていた」
「へへ、分かってくれりゃいいんですよ。で、提案なんですがね」
スピディは指を地図上で滑らせた。
「安全かつ、補給もしやすい街道ルートを行くなら、アインクラを経由してポルム教国の近くを通っても、日数的にはそう大差ありませんぜ。野営もしなくて済みますし、子供たちの負担も減ります」
俺は地図を覗き込んだ。
確かに、整備された街道を使えば移動速度は上がる。荒野を這うように進むより、結果的に確実だ。
「……子供たちの状態はどうだ?」
「健康面は問題ないです。指示すれば動きますし、食事も摂ります。ただ、やっぱり表情がね……」
「そうか。……よし、そのルートで行こう」
俺は決断した。
「ただし、ナバラ帝国の国境沿いは避けろ。あそこは今、どうなっているか読めん」
「了解です。……それならボス、スタレンの街を通りますね。あそこなら、例の牧場に寄っていけますぜ」
スピディの言葉に、俺はある親子の顔を思い出した。
スタレンにある牧場を営む、アーモンとサモン親子だ。
俺の前世、アーノル時代の古い知り合いだ。
当時、アーモンは留守。サモンの母である女性が重い病にかかり、相談を受けたがもう助からない状態だった。
俺にはどうすることもできなかったが、彼の沈痛な面持ちは今も覚えている。
「……ああ。寄っていこう。彼らの顔を見ておきたい」
あれからどうなったのか。気掛かりだった。
数日後、俺たちはスタレンの街に到着し、アーモンたちの牧場を訪ねた。
だが。
「……いないな」
牧場は、静まり返っていた。
手入れされていた牧場は少し荒れ、厩舎には一頭の馬もいない。家屋の煙突からも煙は上がっていなかった。
人の気配が、完全に消えている。
「ごめんください! ……アーモンさん! サモン!」
声をかけるが、返答はない。
風が吹き抜け、枯れ草がカサカサと音を立てるだけだ。
もぬけの殻だった。
「おや? 誰か来たのかね?」
呆然としていると、近くの畑で作業をしていた農夫が声をかけてきた。
「ここの主を知らないか? 俺たちは以前、世話になった者なんだが」
「ああ……アーモンさんたちなら、もういないよ」
農夫は鍬を置いて、寂しそうに言った。
「長年連れ添った奥さんが亡くなってな。親子二人、しばらくは抜け殻みたいになって弔っていたんだが……ついこの間、荷物をまとめて出て行っちまったよ」
「出て行った? どこへ?」
「さあな。何も言わずに、小さな荷車を引いて消えちまった。ここにはもう居られない、そんな顔をしてな。」
俺はガランとした家屋を見上げた。
最愛の妻であり母を失い、思い出の詰まった場所を捨てて旅に出た親子。
その心中を思うと、胸が詰まる。
「……そうか。教えてくれてありがとう」
俺は農夫に礼を言い、牧場を後にした。
行き先は分からない。
だが、俺の心には一つの願望があった。
(……アケニースに向かっていてくれればいいが)
証文を頼りに彼らがウチに来てくれれば歓迎するのに。
アーモンの知識と技術。今の俺たちには喉から手が出るほど欲しい人材であり、何より古い知り合いだ。
だが今は、それを確かめる術はない。
俺たちは寂れた牧場に背を向け、再び街道へと馬を進めた。
目指すはアインクラ、そしてポルム教国。そしてその先にある故郷だ。




