133. 悪魔の天秤、砕かれた魂
※この回には、強い暴力・残酷描写が含まれます。
ちょっとでも苦手な方は読み飛ばしてください。
読み飛ばしてもわかるようにしてあります。
アケニース領を出てしばらく。
俺は商業都市レーマネの石畳を踏んでいた。
連れてきたのは、機動力のスピディと、鉄壁の守りを持つポムキンの二人だけ。
目立つ軍隊移動は避け、安全かつ最速のルートを選んだ隠密旅だ。
「……ボス、カイルの旦那んとこには寄らなくていいんですかい?」
身軽な装束に身を包んだスピディが尋ねるが、俺は首を横に振った。
盟友カイルには会いたい。だが、今は時間がない。
「まずはイヤネスだ。金を回収して、すぐに出る」
夕暮れ時、俺たちは大通りに面した『イヤネス商会』を訪れた。
だが、対応は予想外のものだった。
「イヤネス様はご多忙です。明日の昼前なら、お時間を空けておくとのことですが」
受付の男は慇懃無礼にそう告げた。
かつて俺に弱みを握られ、震え上がっていた男の対応にしては、妙に強気だ。
嫌な予感がする。だが、引き下がるわけにはいかない。
「わかった。明日、必ずと伝えろ」
翌日。
指定された時刻に商会を訪れると、俺たちはすぐに奥へと案内された。
通されたのは、窓がなく壁が妙に厚い。外の喧騒が遠く感じる妙な部屋だった。
しばらくして、扉が開く。
入ってきたのは、上質なシルクの服に身を包んだイヤネスだった。
以前見た時よりも太った気がする。
「やあ、今日はどうしたのだ、アルヴィン。そんな怖い顔をして」
白々しい。
親しげに両手を広げてくるが、その目は笑っていない。額には脂汗が滲んでいる。
「……挨拶はいい。単刀直入に聞く」
俺はソファには座らず、彼を睨み据えた。
「金が届いていない。約束の期日はとっくに過ぎているぞ。どんな言い訳を用意してきた?」
「ああ、その事か。……まあ座るといい。事情は説明するが、少し待ってくれ」
「待つ?」
「客が、来るんだ」
イヤネスが視線を逸らした瞬間、反対側の扉が開いた。
甘い、腐った果実のような香水が鼻をつく。
お茶を乗せたワゴンを押す大柄な奴隷と共に、その女は現れた。
「……ッ!?」
俺の喉から、声にならない音が漏れた。
派手なドレス。扇子で口元を隠した、毒蛇のような笑み。
忘れるはずがない。
「あら、久しぶりねえ。ア・ル・ヴィ・ン」
女――クサレッタは、まるで愛しい恋人を呼ぶかのように俺の名を呼んだ。
「元気そうで何よりだわ。……あの時の『商品』たちは楽しめたかしら? 特にあの子……名前なんてどうでもいいけど、あの子。壊れかけが一番可愛いでしょう?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
怒りで視界が赤く染まる。
後ろでポムキンが武器に手をかける気配がしたが、俺は手で制した。
ダメだ。ここは商談の場だ。感情で動けば、すべてが崩れる。
「……お前がなぜここにいる」
「あら、つれない。商談に来たのよ」
クサレッタは優雅にソファに腰を下ろした。
「イヤネスさんから聞いたの。あなたに随分とお金を『騙し取られた』って。かわいそうに」
「騙し取った覚えはない。正当な対価だ」
「ふふ、そう。……でも、お金はないのよ。だから代わりに、これを持ってきたわ」
クサレッタがパチンと指を鳴らす。
部屋の奥から、ゾロゾロと小さな影が入ってきた。
5人の子供たちだ。
年齢は6歳から10歳くらい。全員が虚ろな目をしている。服はボロボロで、痩せ細っていた。
「何のつもりだ」
「交換しましょう」
クサレッタは扇子を閉じて、ニヤリと笑った。
「あなたが持っている証文。……それを、この子たちと交換してあげる」
「……ふざけるな」
俺は即答した。
900枚だぞ。一国の軍事費に匹敵する額だ。それを、こんな見ず知らずの子供5人と?
俺には戦争が待っている。守るべき領地と、コジインの家族がいる。
ここで情に流されれば、数千、数万の未来が死ぬ。
「断る。金を出せ、イヤネス」
「そ、それは……」
「あら、そう。断るんだ」
クサレッタは扇子の影で口元を歪めた。
「一つ教えてあげるわ。――私に手を出すと、奴隷は死ぬように指示されているの」
意味が分からなかった。だが、次の瞬間、理解させられる。
クサレッタの声色が、氷のように冷たく変わった。
「準備して」
彼女が気だるげに指示を出すと、ワゴンを押していた大柄な奴隷男が、天井の梁に太いロープをかけた。
先端には、人間一人が通れるほどの輪っかが作られている。
「……何をしている」
「お前、死になさい」
クサレッタが扇子で、端に立っていた少年を指した。
少年はビクリと震え、顔を恐怖に歪ませた。
だが、逆らえない。
一歩、ふらりと前に出る。
その瞬間――。
「あ、あが、あああああああ!!」
少年は突然、床に倒れ込み、激しく痙攣して絶叫し始めた。
「ふふ……いい声。わざと中途半端にしておいたのよ。命令と本能がぶつかって、心が引き裂かれていく様……この壊れ方こそ、幸せ」
クサレッタは恍惚とした表情で、少年の苦悶を眺めている。
狂っている。完全に、壊れている。
「じゃあ、次。……お前、死になさい」
隣にいた少女を指差す。
少女は無表情のまま、機械のように歩き出した。
痙攣する少年の横を通り抜け、台に登り、自らロープの輪を首にかける。
「やめろッ!!」
俺が叫び、一歩踏み出した瞬間。
奴隷男がロープを一気に引き上げた。
ガッ……!
少女の足が宙に浮く。
小さな体がビクンと跳ね、喉から空気が漏れる音がする。
俺は動けなかった。
スピディもポムキンも、凍りついたように動けない。
俺たちが動けば、クサレッタは「次」を命じる。
だが、それ以上に狂気に圧倒されていた。
少年の絶叫と、少女が悶え苦しむ音だけが響く地獄絵図。
やがて、少女の足の動きが止まった。
死んでいるように見える。
だが、奴隷男は降ろさない。吊るしたままだ。
「ふふふ、あはははは! あなた良い顔よ、アルヴィン!」
クサレッタが甲高い声で笑い転げる。
人が死んでいる横で、最高の喜劇を見ているかのように腹を抱えている。
「どう? 交換しない?」
俺は、言葉が出なかった。
計算ができない。
白金貨900枚と、この命。
合理性? 目的?
そんなものが、目の前の暴力に塗りつぶされていく。
俺の沈黙を、彼女は「拒否」と受け取った。
スッと真顔になる。
「……お前、死になさい」
三番目の子供を指差す。
奴隷男は、吊るしていた少女をゴミのように床へ投げ捨てた。
少女はピクリとも動かない。
そして男は、空いた輪っかを持ち、次の生贄を待つ。
指名された子供が、よろよろと台に向かう。
その手が、ロープに触れた瞬間。
「わかった!!」
俺は悲鳴を上げるように叫んだ。
「交換だ! 証文はやる! だからやめろ!!」
体中の血が沸騰し、怒りで指先が震えている。
屈辱。敗北。
だが、これ以上、目の前で殺させることは出来なかった。
「え、もうなの? はあ、良かったねえ、イヤネス」
クサレッタはコロリと表情を変え、つまらなそうな表情を浮かべた。
イヤネスはソファの端で青ざめ、ガタガタと震えている。彼にとっても、この女は制御不能の怪物なのだろう。
「契約成立ね」
「……ああ」
俺は懐から羊皮紙の束を取り出し、テーブルに叩きつけた。
クサレッタはそれを拾い上げ、満足そうに確認する。
「うん、本物ね。……あーあ、私も楽しかったわ。また会いたいわね、ア・ル・ヴィ・ン」
彼女は立ち上がり、奴隷男に顎で合図をした。
男は床の遺体も、泡を吹いて気絶した少年も放置し、残りの3人も置き去りにして出口へ向かう。
部屋を出る寸前。
クサレッタは足を止め、振り返らずに言った。
「イヤネス、お礼……ね」
その声は、地獄の底から響いてくるかのような、低く、おぞましい音色だった。
バタン。
扉が閉まる。
部屋には、不気味な静寂と、子供たちの微かな呼吸音だけが残された。
俺は床に転がる少女に駆け寄った。
……脈はない。
手遅れだった。
俺は拳を床に叩きつけた。
金は失った。命も救いきれなかった。
残ったのは、心に焼き付いたドス黒い殺意と、3人の表情のない子供たちだけだった。




