131. 檻の中の猛獣、腐敗の種まき
ナバラ帝国、帝都「鉄血の城」。
その最奥にある軍議の間は、今日も重苦しい空気に支配されていた。
「……南部の要塞線の補修は完了した。兵站の備蓄も十分である」
「うむ。東の演習場における機動部隊の練度も上がっておるな」
玉座に座る皇帝チャバルと、大元帥カスタンの会話は、ここ数年、判で押したように同じ内容を繰り返していた。
軍拡。整備。演習。増強。
言葉だけを聞けば、明日にも世界大戦を仕掛けるような勇ましさだ。
だが、皇太子バルバーロは知っている。
こいつらは、動かない。
絶対に、国境を越えない。
(……くだらねぇ)
バルバーロは欠伸を噛み殺し、虚ろな目で天井を睨んでいた。
この国の「強さ」は、檻の中で牙を研いでいるだけの見世物だ。
ポルム教国とかいう「神」の顔色を窺い、飼い殺しにされた猛獣。それが今のナバラ帝国だ。
父チャバルも、カスタンも、口では「覇権」だの「栄光」だのと言っているが、その腹の底には冷たい恐怖が居座っている。
『大規模な侵略戦争を行えば、国ごと消される』という、絶対的なルールへの恐怖が。
退屈だ。
息が詰まる。
暴力のために研ぎ澄まされた刃を、鞘の中で錆びつかせている音が聞こえるようだ。
俺が王になるまで、あと何年待てばいい?
十年か? 二十年か?
そんな悠長な時間を過ごしていたら、干からびて死んでしまう。
軍議が終わると、バルバーロは無言で席を立った。
父への礼もしない。
そんな不敬すらも「覇気がある」と勘違いして称賛する軍部にも吐き気がした。
自室に戻ったバルバーロは、すぐに側近に命じた。
「セリオスを呼べ」
数分と経たずに、音もなく扉が開いた。
現れたのは、帝国諜報総監セリオス。
31歳。線の細い優男に見えるが、その瞳の奥には氷のような冷徹さが潜んでいる。国内の反乱分子を摘み取り、有力商会や地方総督すら監視下に置く、帝国の「目」だ。
「……お呼びでしょうか、殿下」
セリオスは恭しく跪いた。
「立て。……酒だ」
バルバーロはソファに深く沈み込みながら、杯を煽った。
強い酒精が喉を焼くが、心の渇きは癒えない。
「セリオス。国内はどんな状況だ?」
唐突な問いに、セリオスは表情一つ変えずに答えた。
「極めて良好です。反乱の芽は先月のうちに全て摘み取りました。不満もコントロール下です。裏切りやスパイなど、今の帝国には存在しえません」
完璧な回答。
セリオスは、組織の隅々までを行き届かせ、淀みなく管理する事ができる男だ。
だが、バルバーロが聞きたいのはそんな公務員的な報告ではない。
「……まあ、いても小銭稼ぎの行商人程度でしょうな」
「そうだな。お前の仕事は完璧だ。退屈なほどにな」
バルバーロは空になった杯を放り投げた。
ガシャリ、と銀の杯が転がる音が、静寂を切り裂く。
「お前は、このままでいいと思うか?」
「……と、仰いますと?」
「このまま、戦争もしないで終わるのかということだ」
セリオスの眉がわずかに動いた。
それは皇帝の決定事項であり、最大のタブーだ。
「……それは、陛下がお決めになることです。我々は、来るべき時に備えて剣を磨くだけかと」
「来るべき時、だと?」
バルバーロは鼻で笑った。
「来ねぇよ、そんなもん。親父が生きている限り、永遠にな」
バルバーロは立ち上がり、セリオスの目の前まで歩み寄った。
圧倒的な暴力の気配が、諜報総監の肌を刺す。
「俺が王になれば、すぐにでも始める。ポルム教国だろうが神だろうが、喧嘩を売ってやる。……だが、それはいつだ? 親父がくたばるまで、あと十年か? 十五年か?」
バルバーロはセリオスの肩に手を置いた。
「その時、お前は幾つになる?」
「……」
「今は31歳だったか。十年後は41歳。十五年後は46歳だ」
バルバーロの声が、甘い毒のように耳元で囁く。
「諜報員としての全盛期を、ただ国内のゴミ掃除と、老いぼれた王の介護で浪費するのか? お前のその優秀な能力を、何も起きない平和な箱庭の管理だけで終わらせるのか?」
セリオスの瞳が揺れた。
図星だった。
彼もまた、己の才能を持て余している。完璧に管理された帝国は、もはや彼にとって挑戦のない退屈な事務作業の場と化していた。
「……そう言われましても、私の一存では」
「だから動け。俺が指示する」
バルバーロはニヤリと笑った。
それは、子供が新しい玩具を見つけた時の、無邪気で残酷な笑みだった。
「サマラ王国へ行け」
「……サマラ、ですか」
大陸最大の版図を誇る隣国。
現在のナバラ帝国とは不可侵条約を結んでいる仮想敵国だ。
「情報を抜けと言うのであれば、すでに手の者が……」
「違う。情報なんざどうでもいい」
バルバーロは手を振った。
「悪意をばら撒いてこい」
「……は?」
「女、酒、博打、麻薬、借金。……なんでもいい。人の理性を溶かし、社会を腐らせる種を、あのクソ真面目な国に植え付けてこい」
バルバーロの瞳が、昏い悦びに歪んだ。
戦争ができないなら、別の遊びをすればいい。
積み木を崩す時のような、あのゾクゾクする破壊の音を聞きたい。
「サマラの貴族を借金漬けにしろ。商人を女で狂わせろ。子供を攫って人質にしろ。……お前の得意分野だろう? 綺麗な戦争なんて望んじゃいない。ドロドロに腐らせて、内側から崩壊する様を見物するんだ」
それは戦略というよりは、純粋な悪意だった。
だが、セリオスの中で何かが反応した。
管理するだけの退屈な日々。そこへ投げ込まれた、巨大な国を「腐敗させる」という極大のミッション。
「道を作ってこい、セリオス。軍隊が通るための、欲望と絶望が這い回る、ドブのような道をな」
バルバーロは愉しげに笑った。
軍隊だけでは足りない。兵器だけでは壊せない。
だからこそ、先に毒を流し込む。
いずれ我が軍靴が踏みしめるその時、相手が自らの汚物で窒息しているように。
セリオスは数秒の沈黙の後、深く頭を下げた。
「……殿下の“ご私命”として承ります。記録は残しません。
承知いたしました。軍隊が悠々と進むための、最高級の腐敗した『道』……。私が完璧に、舗装してご覧に入れましょう」
その顔には、先ほどまでの公務員の仮面はなく、共犯者の冷たい笑みが張り付いていた。
帝国の闇が、動き出す。
剣と共に、猛毒を持って。
ターゲットは、アルヴィンたちの住むサマラ王国。
まだ誰も気づかない水面下で、破滅へのカウントダウンが静かに始まろうとしていた。




