130. 盤上の教室、継承される魂
カン、カン、サクッ。
工房に近づくと、いつもの金属音ではなく、乾いた木を削る音がリズミカルに響いていた。
中を覗くと、ランダルが作業台に向かい、小さな木塊と格闘している。
「……ランダル」
俺が声をかけると、彼は背中を向けたまま、片手をすっと上げた。
「……すみません、アルヴィン様。あと少しで決まるんです。……待ってください」
その声には、職人特有の張り詰めた集中力が宿っていた。
俺は黙って足を止めた。
ランダルはノミを握り直し、息を止める。
数秒の静寂。
そして、コッ、という極めて小さな音がした。
最後の一彫り。
俺の目には何が変わったのかわからないほどの、わずかな一削り。
「……ふぅ」
ランダルが大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
彼の手の中にあるものを見て、俺は息を呑んだ。
木彫りの馬だ。
だが、ただの馬ではない。今にも嘶き、駆け出しそうな躍動感と筋肉の隆起が、手のひらサイズの木片の中に完璧に再現されていた。
「見事なもんだ。……最近は鍛冶よりこっちが本業か?」
「ははっ、まさか。最近は剣の注文も落ち着いてるんで、指先の感覚を鈍らせないための練習ですよ」
ランダルは照れくさそうに鼻の下を擦りながら、馬を机に置いた。
「どうです? 生きているように見えますか?」
「ああ。魂が入ってる」
俺は素直に称賛した。
ふと、胸の奥がチクリと痛む。
前世の記憶。
ナイフ一本で木切れを削り、ケニに小さなウサギを作ってやったことがある。
不格好だったが、彼女はそれを宝物のように大事にしてくれた。
「俺も昔は、少しそういうのをやっててな……」
懐かしさに任せて、そう言いかけた時だった。
机の隅に並べられた「練習作」の数々が目に入った。
鷹、熊、そして――ウサギ。
そのウサギは、長い耳の柔らかな質感や、警戒して鼻をヒクつかせている一瞬の表情までもが、木目で表現されていた。
(……いや、これは『芸術』だな)
俺が作ったのは、ただの玩具だ。
職人の血を引く天才と、素人の手慰みを一緒にしてはいけない。
俺は「俺も結構うまかったんだぜ」という言葉を、喉の奥に飲み込んだ。
「……やってて?」
「いや、なんでもない。……それより、その腕を見込んで頼みがある」
俺は気を取り直し、懐から図面を取り出した。
「木で、これくらいの五角形の駒を作ってほしい。全部で40枚で一組。……これを三組ほど頼めるか」
「駒……ですか?」
「ああ。盤の上で戦う、戦争の道具だ」
俺が地面に図面と、駒に書く文字(この世界の言葉に翻訳したもの)を描いて見せると、ランダルは興味深そうに覗き込んだ。
「へぇ……動きが決まっている兵隊を指揮して、王を取る……。面白そうですね」
彼は顎をさすり、職人の顔になった。
「材質は、とりあえずは硬めのオークの端材でいいですか? 文字は焼き鏝で入れましょう」
「できるか?」
「ははっ、誰に言ってるんですか」
ランダルはニカッと笑った。その笑顔は、死んだ祖父にそっくりだった。
「大陸一の鍛冶師の孫ですよ。こんな木切れの細工、昼飯前です」
一時間後。
俺は完成したばかりの「将棋盤」と「駒」を抱え、コジインの庭に戻っていた。
急造品とは思えない出来栄えだ。駒の手触りは滑らかで、盤の罫線も美しい。ランダルの腕は確かだ。
「おい、みんな。集まってくれ」
俺が声をかけると、訓練をしていたドランやセインたちが駆け寄ってきた。
木陰で寝ていたレンも、何事かと起き上がる。
「新しい訓練だ。……ただし、体は使わない。頭を使う」
俺は盤を広げ、駒を並べた。
初めて見る遊戯に、子供たちの目が輝く。
「これは『将棋』だ。軍を指揮し、相手の王を追い詰めて取る。ルールは単純だが、奥は深いぞ」
俺は基本的な駒の動きを教えた。
歩兵は前に一つ。金将は堅守。飛車と角行は盤面を制圧する大駒。
そして、取った駒を味方として使える「持ち駒」のルール。
「すげぇ! 取った敵を寝返らせるのか!」
「えげつないけど、合理的」
ドランとコバンが即座に反応した。やはり飲み込みが早い。
「よし、ドラン。お前が相手だ。座れ」
俺はドランを対面に座らせた。
彼は不敵に笑い、盤面を睨んだ。
「負けないぞ!」
対局が始まった。
ドランの指し手は、攻撃的だった。歩を突き捨て、大駒を振り回して攻め込んでくる。
素人にしては筋がいい。才能がある。
だが。
「……甘い」
俺は容赦しなかった。
ドランの攻めを冷静にいなし、薄くなった守りの隙を突く。
飛車が敵陣を切り裂き、角が退路を断つ。
持ち駒の桂馬が、予測不能な位置から王を狙う。
「あ、あれっ!? 待って、これ動けない!」
「待ったは無しだ。戦場に『やり直し』はない」
パチン。
乾いた音が響き、ドランの王が詰んだ。
「……負け、ました」
ドランは顔を真っ赤にして悔しがった。
周囲で見ていたセインやロリーナも、息を呑んでいる。
ただの遊びじゃない。盤の上で、ドランは完膚なきまでに「殺された」のだ。
「もう一回! もう一回お願いします!」
「いいだろう。……次は手加減なしでさらに潰すぞ」
それから、俺は子供たちを相手に連戦連勝を重ねた。
接待将棋などしない。
圧倒的な実力差を見せつけ、理不尽なまでの敗北を味わわせる。
それが、彼らに「負けの痛み」と「思考の重要性」を刻み込む最良の方法だからだ。
「くそぉ……! なんで勝てないんだ!」
「ここを攻めると、こっちが空くのか……」
悔しがる彼らの目は、真剣そのものだった。
頭を抱え、悩み、次の一手をひねり出す。
その思考の熱量は、剣の素振りを千回やるよりも、彼らの脳を鍛え上げていく。
「ねえねえ」
ふと、横からレンが顔を出した。
手には自作の変な駒を持っている。
「この『爆弾』の駒、どこに置いていい? 王様の周りで爆発させたいんだけど」
「……そんな駒はない。ルールを守れ」
俺が即答で却下すると、レンは「ちぇっ、ルールなんて壊すためにあるのに」と不満げに去っていった。
やれやれ、あいつだけは盤上の常識も通じないか。
夕暮れ時。
盤を囲む子供たちの輪は、いつまでも解けることはなかった。
かつて俺がゼダンに味わわされた絶望。
それを糧に、彼らがどう強くなっていくのか。
俺は駒を指す指に、微かな期待を込めた。




