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キングスレイヤー真  作者:


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129/140

129. 雪解けの雫、癒えぬ傷跡

 アケニース領にある孤児院、コジインの医務室。


 午後のやわらかな光が、白いシーツを優しく撫でていた。


 窓辺の椅子には、ムルミが小さく座っている。


 背筋はピンと伸びているが、その瞳はどこか遠く、焦点が合っていない。


 ポショルが音を立てないようにゆっくりと近づき、彼女の視線に合わせてしゃがみ込んだ。


「ムルミさん」


 名前を呼ばれると、少女の肩がビクリと跳ね、瞳がわずかに揺れた。


 怯えの色。

 ポショルは穏やかな笑みを崩さず、盆の上に二つのコップを置いた。


「今日は、飲み物を選んでみましょう」


 片方は澄んだ水。

 もう片方は、薄い琥珀色をした甘い薬草茶。


「どちらでもいいですよ。ムルミさんが、飲みたい方です」


 沈黙が落ちた。

 ムルミの指は膝の上で白くなるほど強く握りしめられている。


(……命令じゃ、ない)


 その言葉の意味は理解できる。だが、体が鉛のように動かない。


 選ぶ、という行為が、恐ろしい。


 かつて何かを選んだ直後に襲ってきた激痛の記憶が、脳裏を焼き焦がす。

 息が詰まる。胸が苦しくなる。


 しばらくして、部屋の隅で見守っていたアニタが、母親が赤子をあやすような声で囁いた。


「ムルミ、大丈夫よ。どっちを選んでも、何も起きないから。……痛いことは、もう絶対にないから」


 何も起きない。

 その言葉が、まだ夢物語のように聞こえる。


 ムルミの呼吸が浅く、早くなる。


 だが――。


 視線が、ゆっくりと水のコップへ動いた。

 次に、薬草茶へ。

 そしてまた、水へ。


 小さな喉が、ゴクリと鳴る。

 膝の上で握られていた指先が、震えながら宙に浮いた。


 途中で止まりそうになり、空中で迷い、また激しく震える。


 それでも――。


 カチ、と微かな音がした。

 震える指先が、水のコップに触れた音だ。


 ピクリと全身が強張る。

 反射的に目を閉じ、来るはずの「罰」に身構える。


 ……来ない。


 不快な音もない。


 焼けるような痛みもない。


 ただ、窓の外から鳥のさえずりが聞こえるだけだ。


 ムルミは恐る恐る目を開け、両手でコップを持ち上げた。


 水面が波打ち、こぼれそうになるのを必死で支えながら、唇へと運ぶ。


 少しだけ、口に含む。

 冷たい感覚が喉を潤す。


 ――何も、起きない。


 もう一口。


 そして、三口。


 ポショルとアニタは、祈るように息を殺して見守っていた。


 コトリ、とコップが盆に戻される。

 ムルミの大きな瞳に、じわりと涙の膜が張った。


「……いたく……ない……」


 何年ぶりかもわからない、彼女自身の言葉。


 そのかすれた一言で、部屋の空気が一変した。


 アニタが嗚咽を堪えるように口元を両手で覆う。


 冷静なポショルの眼鏡の奥も、光るもので滲んでいた。


 ムルミは自分の胸を抱きしめるようにして、ポロポロと涙をこぼし始めた。


 声は出ない。


 けれど、心の奥底で凍りついていた感情が、雪解け水のように溢れ出していた。


「……えらかったですね」


 ポショルが静かに、だが力強く言った。


「ムルミさんは、自分で選びました。……とても、立派でしたよ」


 その言葉に、少女は肩を震わせながら、何度も、何度も頷いた。


 選んだ。


 自分で。


 誰の命令でもなく。


 窓の外で、風が優しく木々を揺らす。


 世界は何食わぬ顔で動いている。


 だがこの小さな部屋の中で、一人の子どもが“人間”を取り戻す最初の一歩が、確かに刻まれた瞬間だった。


          


 コジインの庭。

 木陰のベンチで、俺はポショルからの報告書を読んでいた。


 ホスマルとデリスの二人も、ムルミに続き、少しずつだが自発的な行動が見られるようになってきたという。


 食事を自分で摂る、トイレに行く、眠くなれば寝る。


 そんな当たり前の「生活」が、ようやく彼らに戻りつつあった。


 だが、傷は深い。


 大きな物音や、大人の怒鳴り声を聞くと、彼らは即座に頭を抱えてうずくまり、震えだしてしまう。


 完全な回復には、まだ長い時間と根気が必要だろう。


「……特定の反発、もしくは逃亡の意思を見せた瞬間に激痛を与える。それを繰り返すことで思考を奪い、諦めさせる……か」


 報告書にあるポショルの見解に、俺はギリと奥歯を噛み締めた。


 クサレビッチ。あの下衆野郎。


 「商品」として従順にするために、子供の心をここまで破壊したのか。


 紙面を握る指に力が入り、クシャリと音が鳴る。


 その時、賑やかな声が俺の思考を引き戻した。


「そこ! 甘いよセイン!」


 訓練場の方では、午後の自由時間を使ってロリーナとセインが模擬戦に励んでいる。


 ドランはザックと共に新しい陣形の研究をし、ギルはひたすら丸太と格闘中。


 畑ではコバンが収穫量の計算をし、アイーシャは花冠を作って年少組と遊んでいる。


 みんな、元気だ。

 あまりに元気すぎて、少し心配になるほどに。


(……働きすぎじゃないか?)


 彼らは「自由時間」だと言っても、結局は何かの訓練や生産活動をしている。


 俺に恩返しをしたいのか、あるいは強迫観念に近い向上心なのか。


 子供らしい「無駄な時間」が、ここには少なすぎる気がした。


 ふと、大きな木の根元に目をやると、一人の少年が大の字で寝転がっていた。


 レンだ。

 鼻提灯を膨らませ、完全に脱力しきっている。


「……まあ、こいつだけは別格か」


 自由時間だから問題はない。むしろ子供らしくて安心するくらいだ。


 だが、こいつに戦略的な期待をするのはやはり時期尚早か……と、俺は苦笑した。


 それよりも、他の子供たちだ。

 何か、訓練とは違う「遊び」が必要かもしれない。


 思考力と決断力を養い、かつ負けても痛くない娯楽。


(……将棋、か)


 ふと、前世の記憶が蘇る。

 盤上の戦争。王を取り合う知略のゲーム。


 その瞬間、苦い記憶も同時にフラッシュバックした。


 ゼダン。


 かつて俺がどうしても勝てなかった息子。 


 あれは、文字通りの虐殺だった。

 盤上の。


『王手』


 その一言を聞くたびに、俺の心はへし折られた。 


 俺も必死で勉強した。定跡を思い出し、手筋を研究し、次こそはと挑んだ。

 だが、あいつは常にその上を行った。


 俺が努力して強くなればなるほど、ゼダンはさらに高く、分厚い壁となって俺の前に立ちはだかった。


 連敗に次ぐ連敗。


 一〇〇回やって、一〇〇回負けるような絶望的な実力差。


 こちらの渾身の一手を、鼻歌混じりにいなされ、気づけば自陣は更地。

 まさに一方的な蹂躙。無情なる盤上の虐殺劇。


「……いや」


 俺は首を横に振り、冷たい敗北感を振り払った。

 ゼダンはもういない。


 それに、今の俺はあの時の俺とは違う。


 将棋は良い訓練になる。


 戦略眼、先読み、そして「捨て駒」の重要性と非情さを学ぶには最適だ。

 今の俺が、子供たちに負けることもないだろう。


「……ランダルに頼むか」


 マンダルの孫、ランダル。

 彼なら、俺の記憶にある盤と駒を、見事に再現してくれるだろう。


 木陰から立ち上がると、俺は工房のある方角へと歩き出した。




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