127. 平和という名の砂上の楼閣
執務室の壁一面に貼られた大陸地図。
俺は踏み台に乗り、その広大な図面を指でなぞっていた。
見る者が残した言葉。
『この領地を、占領されるな』
たった一言。だが、あの無気力な管理者が、わざわざ警告として残した言葉だ。
それはつまり、「この領地を脅かす何かが必ず来る」という予言に他ならない。
システムが「100年は協力できない」と言い残して眠りについた今、頼れるのは己の力のみ。
(……来るぞ。必ず)
いつ、どこから、何が来るのかは分からない。
だが、今のままでは守りきれないことだけは確実だ。
人、武器、金、食糧。
全てを揃え、束ね、一つの巨大な「暴力装置」として完成させなければならない。
「……軍拡、だと?」
執務室の扉を開けると、書類の山に埋もれていた父、マーランが顔を上げた。
アケニース家の財政と実務を取り仕切る当主。その瞳は常に数字と合理性を映している。
「はい、父上。アケニース私兵団、および領軍の規模を倍増させたいと考えています。装備の更新も含めて」
俺が真剣な眼差しで告げると、マーランはペンを置き、呆れたようにため息をついた。
「アルヴィン。お前が賢いのは知っているが、今の情勢が見えていないわけじゃあるまい」
マーランは手元の帳簿を閉じ、壁の地図を指差しながら、諭すように言った。
「いいか。我がアケニース領は、今や大陸最大版図を誇るサマラ王国の一部だ。王国の総兵力は、かき集めれば六万を超える。その庇護下にある我々が、なぜ血眼になって軍を増やす必要がある?」
父の指摘は、経営者として、そして貴族としての常識に照らせばあまりに正論だった。
俺たちの領地は、地理的に見ても非常に安定している。
「西のモグロン王国か? 奴らの兵力は、国中から農民まで動員してせいぜい二万だ。しかも装備は旧式、練度も低い」
マーランの指が地図を滑る。
「東のガンガラ国。あれも一万五千程度だ。しかも奴らは隣のランガ国との小競り合いで手一杯だ。アケニースに攻め入る余力など欠片もない」
「南のテンス国はどうですか」
「論外だ」
マーランは即答した。
「あの国は歴史上、一度として他国を侵略したことがない。大昔のナバラ帝国による大侵攻の際も、国境に築いた巨大要塞に引きこもり、鉄壁の防御で跳ね返しただけの国だ。あいつらは亀だ。こっちから手を出さなきゃ、石ころ一つ投げてこんよ」
完璧な情勢分析だ。
さらに言えば、アケニースの北には、王国の重鎮であるシュテゲン公爵領がある。
公爵の手勢は約一万五千。
もしアケニースが攻められれば、すぐさま援軍が駆けつける手はずになっている。
「我が領の軍は約八千。これだけの精鋭がいれば、周辺諸国の牽制には十分すぎる。これ以上増やせば、ただの『金食い虫』になるぞ」
マーランは眼鏡の位置を直した。
軍隊とは、維持するだけで莫大な金が消えていく巨大な浪費機構だ。
戦争がないのに兵を養うのは、穴の空いたバケツに水を注ぐようなもの。父の意見こそが「正解」なのだ。
だが。
俺が見ているのは、その「正解」の先にある「破滅」だ。
「……父上の仰る通りです。現在の地図の上では」
俺は父の机に歩み寄り、静かに言った。
「ですが、平和というのは、ある日突然、理不尽に踏み砕かれるものです」
「……」
「俺が懸念しているのは、今の情勢ではありません。数年後、数十年後に来るかもしれない、地図を塗り替えるような大戦です。その時、王国の援軍を待っていては遅い」
「いざという時、王国すら切り捨ててでも生き残れる、独立した『要塞国家』にするつもりです。この領地だけは、何があっても他国に踏ませない」
過激な発言だ。
王国への反逆とも取られかねない。
マーランは、計算高い商人の目で俺を値踏みするように見つめ返してきた。
「……根拠は?」
短く、鋭い問い。
ここで「管理者の声」などと言っても、頭がおかしくなったと思われるだけだろう。
「……俺の、勘です」
俺は正直に、しかし力強く答えた。
「嫌な予感がするんです。この静けさが、嵐の前触れにしか思えない」
マーランはしばらく俺の目を見つめていたが、やがてフンと鼻を鳴らし、再びペンを手に取った。
「却下だ」
冷徹な一言だった。
「お前の商才や、人を見る目は評価している。だがな、アルヴィン。一人の『勘』だけで、領の財政を傾けるわけにはいかんのだ」
「父上……」
「軍の倍増となれば、維持費だけで莫大な金が消える。それを補うために税を上げれば、民が疲弊し、結果として国力は落ちる。見えない敵に怯えて自滅するなど、愚の骨頂だ」
父は書類に視線を落とした。これ以上、話すことはないという拒絶のサインだ。
「……わかりました」
俺は拳を握りしめ、頭を下げた。
父の判断は正しい。領主として、あまりに真っ当だ。
今の俺には、彼を説得できるだけの材料がない。
執務室を出て、廊下を歩く。
窓の外には、のどかな領地の風景が広がっている。
だが、俺の目には、そこが火の海になる幻影がどうしても焼き付いて離れない。
(……公式な軍拡は無理か)
アケニース家の財布は開かない。
ならば、どうする。
諦めるか? 指をくわえて、破滅の日を待つか?
――いや。
俺は顔を上げた。
父が動かないなら、俺が動くしかない。
俺には「コジイン」がある。「アルヴィン商会」がある。そして、信頼できる仲間たちがいる。
規模は小さくなるかもしれない。時間はかかるかもしれない。
それでも、俺のできる範囲で、少しずつでも「力」を蓄えていくしかない。
できることから、やるしかないか。
次善の策を進める決意を決めた。




