125. 停滞する英雄、臆病な王
あれから、俺はずっと屋敷の自室に籠もっていた。
季節が巡るように時間は流れているというのに、俺の中の時計だけが錆びついて動かない。
食事は喉を通らず、ただ机の上に置かれた「マンダルの剣」を眺めて過ごす日々。
心配した母さんや、兄さんが部屋を訪ねてくるが、俺は生返事を返すのが精一杯だった。
ロリーナやマルディ、アイーシャといった子供たちも顔を見せに来てくれた。
いつもなら彼らの笑顔を見るだけで活力が湧くはずなのに、今はそれすらも煩わしい。
自分でも驚くほど、心が死んでいた。
机の隅には、封を切られた手紙が放置されている。
ポルム教国からの書簡だ。
俺が帰る際にシステムが「最低でも100年は協力しない」と宣言した件について、向こうの教皇が泡を食って説明を求めてきているのだろう。
世界の根幹に関わる重大事だ。本来なら即座に対応しなければならない。
だが、インク壺にペンを浸す気力すら起きなかった。
(……なぜだ)
俺は自問する。
大切な人を失うのは、初めてではない。
前世でも、今世でも、別れは何度も経験してきた。
マンダルの死は突然だったが、悲劇的なものではないはずだ。
あいつは天寿を全うし、職人として最高傑作を遺して逝った。
この剣を見ればわかる。あいつは満足していたはずだ。
だというのに、なぜ俺はこんなにも脆い?
かけがえのない友だった。それは間違いない。だが――違う。胸の奥で、別のものが蠢いている。
悲しい、だけじゃない。
息が浅い。心臓が、理由もなく早い。
頭のどこかがずっと「次」を数えている。
次は誰が欠ける。
次は何が奪われる。
次は――俺が、間に合わない。
答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると回り、泥沼のように俺の足を絡め取っていた。
コン、コン。
重厚なノックの音が響いた。
「……アルヴィン。入るぞ」
返事を待たずに扉が開く。
入ってきたのは、ダイファーだった。
クルム村から戻ったばかりなのだろう。旅装も解かずに、その巨体で部屋の空気を圧迫する。
「……マンダル、残念だったな」
低い声だった。
「……ああ」
俺は剣から目を離さずに答えた。
ダイファーにとっても、マンダルは古い付き合いだ。悲しくないはずがない。
だが、慰めの言葉を掛け合うことすら、今の俺には億劫だった。
しばらくの沈黙が落ちた。
ダイファーは動かず、じっと俺の横顔を見つめているようだった。
やがて、彼はポツリと漏らした。
「……あの時と、同じ顔をしているな」
「……あの時?」
俺は怪訝に眉を寄せ、ようやくダイファーの方を向いた。
ダイファーは悲痛な面持ちで、しかし真っ直ぐに俺を見ていた。
「ケニおばさんと、ゴメイースが死んだ時だ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
脳裏に蘇る。
守れなかった笑顔。冷たくなった手。
前世の俺――アーノルにとっての、原初の絶望。
「……あ、ああ……」
確かに、似ているかもしれない。
あの時の無力感。自分の手が届かない場所で、大切なものが零れ落ちていく感覚。
……いや。
俺は首を振りかけて、やめた。
否定したところで、胸の奥に刺さったままの棘は抜けない。
ダイファーは一歩踏み出し、俺の目の前に立った。
「アルヴィン。……いや、父さん」
二人きりの時だけ口にする、魂への呼び名。
「……怖がってるんだ」
「……怖がってる?」
反射的に、喉の奥から言葉が出そうになった。
違う、と。
俺はただ、悲しいだけだ、と。
でも――口を開いた瞬間、息が詰まった。
否定の言葉が、どれも薄っぺらく感じたからだ。
「二人の死が、お前をそうした」
ダイファーは続けた。押しつける口調ではない。淡々と、事実を並べるように。
「守るものが増えた。……だから欠けるのが怖い。欠けた穴を見てないと、次が来る気がして……目を逸らせないんだろう」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
図星なのかもしれない。
俺は悲しんでいるのではなく、怯えている。
マンダルを失った“事実”が、過去の絶望を引きずり出して、俺の喉元に刃を当てている。
ダイファーは窓の外――領地の方角を、一度だけ見た。
「俺も、戦争で……立ち止まったことがある」
低い声に、ほんの僅かな濁りが混じった。
「動けなかった。泣いた。怒った。……その隙に、部下が死んだ」
短い。
だから重い。
言い訳も、美談もない。
「止まってたら、救えるものも救えない」
それだけ言って、ダイファーは視線を戻した。
「前に進め、とは言わん。……ただ、座ったままじゃ、何も変わらん」
言葉が、正論じゃなく“傷”として落ちてきた。
だから、余計に刺さる。
ダイファーは机の上の剣を顎でしゃくった。
「いつまでもウジウジしてたら……マンダルに怒鳴られるじゃないか」
その一言が、妙に現実味を帯びた。
俺は笑えなかった。
聞こえた気がしたからだ。
『いつまでシケた面してやがる、この馬鹿野郎!』と。
――でも、次の瞬間。
わかってしまう。
それは“聞こえた”んじゃない。
“聞こえてほしかった”だけだ。
もう、二度と。
あの憎まれ口は、本当に戻らない。
その事実が、肺の奥まで冷たく沈んで、息が苦しくなった。
ダイファーは、俺の反応を待たなかった。
ただ背を向けた。扉へ向かう。
「……怒鳴られる、か」
静寂の中で、俺は掠れた声で呟いた。
扉が閉まる音が、部屋に響く。
俺は机の上の剣に触れた。
冷たいはずの鉄が、今は妙に熱く感じる。
ここで止まっていたら、あいつに笑われる。
いや――笑われるのが怖いんじゃない。
これ以上、誰かが欠けるのが怖い。
また間に合わないのが、怖い。
俺は深く息を吐き出した。
肺に溜まっていた澱んだ空気を、少しずつ追い出す。
椅子の背もたれから背を離す。
足に力を入れる。
立ち上がる。
ただそれだけの動作が、ひどく重く、そして――自分を裏切らないための儀式のように感じられた。
「……よし」
久しぶりに顔を上げる。
窓から見える景色は、変わらず美しい。
だが今の俺には、その美しさが「守るべきもの」として、鮮明に目に映った。
止まっている暇はない。
俺にはまだ、やらなければならないことが山ほどあるのだから。




