119. 凍てついた微笑と、北へ続く道
商業都市レーマネの夜。
選ばれし者のみが足を踏み入れることを許された最高級会員制酒場『天上の杯』。
その一角にあるボックス席で、一人の青年が静かにグラスを傾けていた。
「……良い香りだ。だが、少し刺激が足りないですね」
ウエプン・マハニト。25歳。
レーマネを支える七人の大商人「国衆」の一角、ウエプン商会の跡取り息子だ。
整った顔立ちに、仕立ての良い服。
人当たりの良い柔和な笑みを浮かべているが、その双眸だけは冷ややかな光を宿している。
「若様、あまり飲み過ぎませぬよう。明日はマカンカ会長と工房の視察がございます」
控えていた初老の執事が諌めるが、マハニトは優雅に肩をすくめた。
「父上の視察など、退屈なだけですよ。……どうせまた、『今は耐える時だ』とか『有事に備えて在庫の管理を徹底しろ』とか、カビの生えた説教を聞かされるだけだ」
ウエプン商会は、武器なら何でも取り扱う「死の商人」だ。
大陸中の工房に太いパイプを持ち、自社でも優秀な鍛冶場を抱えている。
だが、ここ数十年、大陸規模の大戦は起きていない。
小競り合い程度の需要では利益も薄く、ウエプン家の序列は常に国衆の最下位ギリギリを彷徨っていた。
「先代も、父上も、地味すぎるのです。潮目が変わるのを待つ? ……愚かしい」
マハニトはグラスの中の琥珀色の液体を揺らす。
「平和など、我々にとっては緩やかな死と同じだ。需要がないなら、作ればいい」
彼は人の心の隙間に入り込み、状況を操り、破滅へと誘導する天才。
「私が会長になった暁には、こんな退屈な商売は終わらせます。……火種を蒔き、風を送り、大陸中を業火で包んでさしあげましょう」
彼はニッコリと、聖人のような微笑みを浮かべた。
「そうすれば、我々の鉄屑は黄金に変わる」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その本性はどこまでも黒く、そして貪欲だった。
平和ボケしたこの街で、若き死の商人は静かに爪を研いでいた。
一方その頃。
レーマネの城壁近く、早朝の街道。
朝霧が立ち込める中、二つの人影が走っていた。
「……おい! 待ってくれ!」
メイガンとジョバーブンが追いつくと、前を歩いていた男が足を止めた。
粗末な衣服に、巨大な布包みを背負った男。
先日、二人を圧倒的な力でねじ伏せた「トルガの男」だ。
男はゆっくりと振り返り、無表情に二人を見た。
「……お前たちは」
メイガンは呼吸を整え、男の前に仁王立ちして頭を下げた。
「頼む! 俺を……弟子にしてくれ!」
直球の願い。
男は少しだけ眉を動かし、メイガンをじっと見つめた。
「……弟子、か」
男の視線が、メイガンの身体を一瞥する。
「女だな」
短く、事実だけを告げる。
メイガンの眉がピクリと跳ねた。
「女だとダメなのか? 女は強くなれないって言うのかよ!」
食ってかかるメイガンに対し、男は動じることなく、淡々と答えた。
「ダメではない」
「え?」
「より、大変なだけだ」
骨格、筋肉、ホルモンバランス。
男は理屈を並べることはしなかった。ただ一言、その道が険しいことだけを告げた。
「……覚悟はあるのか?」
「上等だ。大変なくらいがちょうどいい」
メイガンが不敵に笑うと、男は「そうか」とだけ呟き、踵を返した。
「俺は帰る」
「え、どこに?」
「北だ」
男はそれだけ言い残すと、驚くべき速さで歩き出した。
引き止めもしないが、待ちもしない。
「……ちっ、愛想のねぇ野郎だ!」
メイガンは慌てて駆け出した。
そして、隣にいたジョバーブンもまた、苦笑しながら走り出す。
「おい、ジョバーブン。お前も行くのか? おっさんの冷や水だろ」
「馬鹿言え。俺だって男だ。あんなの見せられて、すごすごと引き下がれるかよ」
ジョバーブンは息を切らしながらも、メイガンの横に並んだ。
「とはいえ、俺は途中で帰るかもしれんぞ」
「あ?」
「俺にゃ守らなきゃならん道場もあるからな。……ま、行けるところまで行くさ」
レーマネに残してきた自分のシマ。
それを放り出してまで、彼もまた「本物」の引力には逆らえなかった。
北へ。
目的地の距離も、帰れる保証もない旅路。
だが二人の背中は、どこか晴れ晴れとしていた。




