118. 渇望する帝国、退屈な怪物
北の軍事大国、ナバラ帝国。
その中枢である帝城「鉄血の間」には、重苦しい沈黙と、行き場を失った殺気がドロリと淀んでいた。
壁には歴代皇帝が愛用した武具が飾られ、床には大陸全土の精緻な地図が広げられている。
その地図を囲むように、帝国を動かす巨頭たちが顔を突き合わせていたが、その表情は一様に渋い。
「……準備は整っております、陛下」
沈黙を破ったのは、軍部トップの大元帥、カスタンだ。
父譲りの鷲鼻と、戦場での古傷が走る強面。彼は地図の南――ナバラと国境を接する巨大な領土を指揮棒で叩いた。
「サマラ王国。奴らは図体こそデカいが、平和ボケして久しい豚どもです。我が軍の練度は過去最高。補給線も確保済み。南下を開始すれば、サマラといえど帝国の版図となるでしょう」
「勝てるのはわかっておる、カスタン」
玉座に深く沈み込んだ男――ナバラ帝国皇帝、チャバルが苛立たしげに吐き捨てた。
脂の乗り切った壮年期でありながら、その表情には焦りの色が濃い。
「問題は、なぜ『今』なのだ、ということだ」
チャバルの拳が、玉座の肘掛けを軋ませるほど強く握りしめられる。
「二年だぞ? ここ二年の間、ポルム教国から各国への『守護の力』の交換は行われていなかった。奴らは沈黙していたのだ!」
皇帝の声が荒らぐ。
王族への絶対的な暗殺回避能力『王権の守護』。その力が更新されず、効果が薄れつつあったこの二年間こそが、帝国にとって千載一遇の好機だったはずだ。
ポルムは弱体化した。あるいは、構造そのものが崩壊しかけている。
そう判断したからこそ、ナバラは牙を研ぎ、サマラへの侵攻準備を進めてきたのだ。
「……ポルムか」
低く唸ったのは、帝国顧問のゴヨレだ。すでに前線を退いた老骨だが、その眼光は未だ鋭い。
「我々が『行ける』と判断し、軍を国境へ寄せようとした、まさにこのタイミングでの通達……」
宰相セルヴァンが、手元の書類を忌々しげに見つめながら言葉を継いだ。
「ええ。先日届いたポルム教国からの公式文書です。……『来年、守護の力の交換を行う』と」
会議室の空気が凍りついた。
「偶然ではないでしょう。奴らは我々の動きを完全に把握している。その上で、『動けば潰す』と釘を刺してきたのです」
「くそっ……! 図ったな、白服どもめ!」
チャバルが激昂し、拳で肘掛けを殴りつけた。
「守護の力を配れるということは、奴らの手足である『守護兵団』もまた万全ということだ! 総勢200名の処刑人どもが、我々の首を狙って待ち構えているということだぞ!」
かつて、たった100名で大国の王の首を刈り取ったという伝説の兵団。
その倍の数が、睨みを利かせている。
攻めたい。奪いたい。だが、怖い。
サマラを食らうための牙は整っているのに、その首輪を握るポルムという飼い主が、目を覚ましてしまった。
「……サマラへの挑発を繰り返し、向こうから手を出させるしか」
「そんなみみっちい真似が、ナバラの強さか!」
「しかし、こちらから仕掛ければ……」
堂々巡りの議論。
老いた権力者たちの、慎重という名の臆病な言葉遊び。
その様子を、部屋の隅にある柱に寄りかかり、虚ろな目で眺めている男がいた。
(……あぁ、いい音がしそうだ)
皇太子、バルバーロ。
20歳にして、しなやかな巨躯を持つ若き怪物。
彼は退屈そうに指先でナイフをもてあそんでいるが、その視線は地図ではなく、父チャバルの太い首筋に吸い寄せられていた。
(親父殿の首をねじ切ったら、どんな音がする? 枯れ木のようにパキリと折れるか? それとも、熟れた果実のようにグチャリと潰れるか?)
彼の脳内では、すでに会議室は血の海だった。
カスタンの頭蓋を砕き、セルヴァンの腹を裂き、ゴヨレの老体をすり潰す。
想像の中の殺戮だけが、退屈な時間における唯一の娯楽だった。
ポルムがどうした? 守護の力がどうした?
彼らが話しているのは「手続き」の話だ。
許可証がなければ殺せない。契約がなければ奪えない。
そんなものは「強さ」ではない。ただの事務作業だ。
(血が欲しい)
バルバーロの身体の奥底で、どす黒い衝動が蠢く。
ナバラ帝国の歪んだ歴史が生み出した、純粋暴力の結晶。
彼は「戦争」がしたいのではない。「蹂躙」がしたいのだ。
相手がサマラだろうが、ポルムだろうが、あるいは自国の兵だろうが、悲鳴を上げて砕け散るなら何でもよかった。
(200人の守護兵団? ……最高じゃないか)
彼は舌なめずりをした。
伝説の処刑人。神の力を持つ兵士。
それを肉塊に変えた時、自分はどれほどの絶頂を味わえるのだろう。
恐怖など微塵もない。あるのは、極上の獲物を前にした捕食者の飢えだけだ。
「……おい、バルバーロ」
不意に、チャバルが彼に話を振った。
「お前も何か言え。次期皇帝として、この状況をどう見る」
一斉に集まる視線。
バルバーロはゆっくりと顔を上げ、ナイフを鞘に収めると、ニタリと笑った。
その瞳の奥にある狂気を、理性的な仮面で辛うじて覆い隠して。
「何も言うことはありませんよ、父上」
彼は肩をすくめた。
「皆々様の仰る通り、賢明で慎重な判断こそが国を守るのでしょう。……今は、ね」
言葉の端々に、隠しきれない嘲笑が滲む。
だが、チャバルたちはそれに気づかないふりをした。
いや、直感的に目を逸らしたのだ。この怪物が放つ、異質な獣の臭いから。
(待っていろ、老いぼれども)
バルバーロは心の中で舌を出した。
(俺が皇帝になった暁には、こんな会議は必要ない)
彼の脳裏には、すでに地図が真っ赤に塗り替えられた光景が浮かんでいた。
インクの赤ではない。鉄錆の臭いがする、本物の赤だ。
サマラ王国も、ポルムの塔も、すべてが瓦礫と死体の山となり、その頂上で自分が笑っている。
大陸を一つにする。それは統治のためではない。全ての命を自分の手の中に握るためだ。
「……会議はまだ続きますかな? 私は鍛錬の時間ですので」
バルバーロは一礼もしないまま背を向け、大股で部屋を出ていった。
後に残されたのは、再び出口のない議論を始める老人たちと、彼らが醸し出す停滞した空気だけだった。
扉の向こう、廊下を歩くバルバーロ。
その口元が、誰にも見えない場所で、三日月のように裂けて歪んだ。
「……ああ、壊したい」
呟きは、誰の耳にも届くことなく闇に溶けた。
時代はまだ、この怪物の手綱を放してはいなかった。




