115. 賢神の隠れ家
カォン!
乾いた音が、森の静寂を切り裂く。
俺は木立の影から、その男の背中を見つめていた。
上半身裸で、無造作に斧を振るう男。
記憶の中にある、あの華奢で理屈っぽい少年の面影は、その逞しい背中にはもうない。
だが、斧を振り下ろす軌道、足の運び、呼吸のリズム。
それら全てが極限まで効率化され、一切の無駄が削ぎ落とされている様は、まさにアイツ――ゼダンそのものだった。
(……いい男になったな)
俺は口元を緩め、少しワクワクしながら足を踏み出した。
今の俺は、見たこともない貴族の子供の姿だ。
いきなり「父さんだ」と言って現れたら、あの冷静沈着なゼダンでも流石に驚くだろうか。
目を丸くするだろうか。それとも、警戒して斧を構えるだろうか。
久しぶりに会う息子を前に、そんな子供じみた悪戯心が湧いてくる。
俺が落ち葉を踏みしめると、男の手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと振り返り、汗を拭いながらこちらを見た。
鋭く、しかし静かな凪のような瞳。
彼は俺の姿――豪奢な服を着た、見知らぬ子供――を認めると、一瞬だけ動きを止め、じっと俺の目を覗き込んだ。
そして一言。
「……父さん、ですね?」
その声は、あまりにも自然だった。
まるで、ちょっと散歩に出かけた父親が帰ってきたのを迎えるような、拍子抜けするほどあっさりとした問いかけ。
「……驚かないんだな」
俺が苦笑して返すと、ゼダンは「やはり」と小さく頷き、斧を切り株に置いた。
「驚く理由がありません。論理的帰結です」
ゼダンは薪の上に腰を下ろし、淡々と語り始めた。
「この場所は、システムの管理下にある『空白地帯』です。正規のルートでここまで辿り着ける人間は存在しない。……あの性格の悪い人工知能が道を開ける相手など、世界に一人しかいません」
彼は俺の小さな体を見ても、眉一つ動かさなかった。
こちらの「驚かせたい」という期待など、彼の冷徹な分析の前には無意味だ。
「それに、その非合理な行動パターン。……わざわざ僕に会いに来るためだけに、常識を無視してここまで来る。僕に『意味のわからないこと』をできるのは、父さんだけです」
「相変わらずだな、お前は」
俺は肩をすくめた。
再会の感動的な抱擁も、涙もない。
だが、俺たちの間にはそれで十分だった。ベタベタした情緒はないが、それでも確かに繋がっている強い信頼がある。
「元気そうじゃないか。……どうだ、森での暮らしは」
「快適ですよ。雑音がなくて、思考が捗る」
ゼダンは森の奥、木々の隙間から見える空を見上げた。
「人間社会は非効率で、感情という不確定要素が多すぎる。……ここはいい。すべてが自然の法則に従って動いている。僕が求めていた『研究室』そのものです」
「そうか」
俺は少し間を置いて、本題を切り出した。
「……再び一緒に暮らす気は、ないか?」
ダメ元での勧誘だ。
今、俺はコジインの運営もあるし、いずれ来る使命に備えている。
ここにゼダンの頭脳が加われば、すべてが盤石なものになるだろう。
だが、ゼダンは即座に首を横に振った。
「お断りします」
予想通りの即答だった。
「僕は今の生活を気に入っているんです。それに、父さんの周りはいつも騒がしい。……また何かのトラブルに首を突っ込んでいるんでしょう?」
「……まあな」
「でしょうね。父さんが動けば、世界が動く。それは『現象』のようなものです」
ゼダンは楽しそうに目を細めた。
断られはしたが、そこに拒絶の色はない。彼はただ、自分の選んだ孤独と静寂を愛しているだけなのだ。
それから色々と話した、近況や昔のこと。
あっという間に時間は過ぎ、日も落ちかけている。
名残惜しいがゼダンは、そんな感傷的な気分にはならないだろう。
そろそろ帰るかと言うと
「……父さん。一つだけ、聞きたいことがありました」
ゼダンが不意に真剣な顔になった。
その瞳に、かつて何度も見た「探究者」の光が宿る。
「なんだ? 」
「……『引力』についてです」
ゼダンは手元の小石を拾い上げ、目の高さに掲げた。
「昔、父さんは教えてくれましたよね。全ての物質には質量があり、互いに引き合う力が働いていると」
「ああ、そんな話もしたな」
前世の知識として、概念だけを教えた記憶がある。
「あれからずっと考えていたんですが……あれがイマイチ分からないんです」
ゼダンは眉間に皺を寄せた。
「星のような巨大なものが物を引っ張るのは観測できました。ですが……この小石にも、引力はあるんですか? そこにある木にも? 僕にも? 物にはすべて、引力があるんじゃないですか?」
彼は純粋な疑問をぶつけてきた。
「……っ」
俺は冷や汗をかいた。
万有引力の法則。確かに「質量あるものはすべて引力を持つ」はずだが、それをこの世界で証明しろと言われても俺には無理だ。数式など分かりはしない。
「多分そうだった気がするが……その辺は、詳しくないぞ」
俺は誤魔化すように視線を泳がせた。
「……そうですか」
俺が曖昧に答えると、ゼダンは「やはり」と納得したように頷いた。
「うんうん。父さんならそう答えると思いました。父さんは『答え』を知っているだけで、その証明式までは持っていない」
ゼダンは小石を置いた。
「でも、父さんが『ある』と言うなら、あるんでしょう。父さんしか分からないことが多いので、それが正しい前提として研究を続けます」
「……責任重大だな」
俺が苦笑すると、ゼダンは立ち上がり、土を払った。
「たまには、こうして遊びに来てください。僕の仮説が正しいか、答え合わせが必要ですので」
「ああ、もちろんそのつもりだ」
俺も立ち上がり、背伸びをした。
そろそろ戻らないと、システムがうるさいし、ポショルたちが心配するだろう。
「じゃあな、ゼダン。達者で暮らせよ」
俺が背を向けた、その時だった。
「あ、父さん。最後に一局、どうですか?」
ゼダンが小屋の軒先を指差した。そこには、使い込まれた将棋盤が置かれていた。
俺の足がピタリと止まった。
……まずい。
かつて俺は、8歳のこの天才児相手に数えきれないほど連敗し、最終的に彼は「自分対自分」で対局する化け物になっていた。
あれから30年。
この森の静寂の中で、彼がどれほどの思考実験を積み重ね、どれほどの深淵に到達しているか。
今の俺が挑めばどうなるか。……虐殺される未来しか見えない。
「いや、今日はそろそろ帰る!」
俺は振り返らずに手を振った。
「連れを待たせてるからな! また今度だ、また今度!」
「おや、逃げるんですか? ……相変わらずですね」
背後から、ゼダンの楽しそうな笑い声が聞こえた。
俺は苦笑しながら、少し早足で森の中へと戻っていった。
元気そうで良かった。
将棋でボコボコにされて父親の威厳を完全に失うのは、なんとか回避できたようだ。今さらだがな。
怪物のような息子が、自分の道を見つけて生きている。
それだけで、今回の寄り道は大成功だ。
俺は清々しい気分で、システムの待つ白亜のドームへと足を向けた。




