109.医術の限界と、黄金の契約
医者は、万能ではない。
そんなことは、前世から嫌というほど知っていたはずだった。
俺は必死に、これまでの知識を検索した。部位欠損や臓器の再生。そんなものが可能な薬があるだろうか。
……ない。
傷口を塞ぐ薬はある。病原菌を殺す薬もある。
だが、機能不全に陥った臓器を「新品」に取り替えるような都合の良い薬など、この世界には存在しない。臓器の再生など、神の御業だ。
今の俺の手持ちにも、知識にも、彼女を救う術はなかった。
唯一システムなら
しかしあれは俺以外にはどう出るか分からない
それに無理に動かして死んでしまえば……
(……くそっ)
俺は拳を握りしめた。
金も、知識もある。それでも、ただの寿命や病気一つ、救えないのか。
圧倒的な無力感が俺を襲う。
そんな俺の横で、ポショルは冷静に動いた。
「……治すことはできない。だが、苦痛を取り除き、最期の時を穏やかに過ごさせることはできる」
彼は鞄から数種類の薬草と粉末を取り出し、手際よく調合を始めた。水に溶き、サモンに手伝わせて母親に飲ませる。
「……う、うぅ……」
苦しげな呼吸をしていた母親の表情が、次第に和らいでいく。意識を混濁させるような強い薬ではなく、身体の負担を和らげる適切な処置。呼吸が整い、彼女は久しぶりに安らかな眠りについた。
「……あ、ありがとうございます……! 母があんなに穏やかな顔をしたのは、久しぶりです……!」
サモンが涙を流して頭を下げる。完治ではない。死への猶予が少し伸び、苦痛が減っただけだ。それでも、今の彼らにとって、それは何よりの救いだった。
「礼には及ばない。医師として当然のことをしたまでだ」
ポショルは淡々と言い、道具を片付けた。冷たいようでいて、彼は彼なりに全力を尽くしたのだ。
寝室を出て、俺たちは夜風に当たった。重苦しい空気を振り払うように、俺はサモンに声をかけた。
「……サモン。もし良ければ、最後に残った種馬を見せてくれないか?」
「え? ……はい、構いませんが」
サモンは涙を拭い、俺たちを厩舎の奥へと案内した。そこには、一頭の馬が佇んでいた。黒鹿毛の、見事な馬体だった。痩せてはいるが、その筋肉の付き方、骨格の太さ、そして目に宿る知性。
俺は息を呑み、【見る力】を発動させた。
種別 馬(黒鹿毛)
速さ B
頑丈 B
体力 A
気性 荒い
能力 威圧
(……A!?)
俺は心の中で絶叫した。体力A。
前世の俺が、どれだけ金をかけ、配合を繰り返しても、決して超えられなかった「A」の壁。それを、アーモンは作り上げていたのだ。
(すげぇ……。やったな、アーモン。お前、本当にとんでもない馬を作りやがったんだな)
感動で指先が震えた。こんな状況でなければ、手放しで賞賛していただろう。だが、現実は非情だ。こんな至宝が、借金のカタに処分されようとしている。
「……この馬を、僕が買おう。いくらだ? 言い値でいい」
だが、サモンは首を横に振った。
「……いえ。これは、売れません。この馬は……父の全てなんです。父が人生をかけて作り上げた最高傑作です。これを売ってしまったら、父の生きた証がなくなってしまう……!」
サモンの悲痛な叫び。親父の夢を守りたい。その気持ちは痛いほどわかる。だが。
「……だが、このままなら全て失うぞ。借金取りに牧場ごと奪われれば、この馬もどこかの馬車馬にされるだけだ」
俺は冷徹な事実を突きつけた。サモンが唇を噛みしめ、俯く。
「……ところで、今、借金は総額でいくらあるんだ?」
「……金貨、480枚ほどです」
(……は?)
俺は耳を疑った。金貨480枚。白金貨にして約5枚分。一般市民にとっては大金だ。だが、俺からすれば――。
(たったそれだけか!?)
あのアーモンが。あいつの技術と、このAランクの馬が。たった白金貨5枚で失われようとしているのか。あまりに安すぎる。あいつの価値はそんなものじゃない。
「……インクとペン、それと羊皮紙はあるか」
「え? あ、はい。事務室になら……」
俺は事務室に入り、借りた羊皮紙にサラサラとペンを走らせた。契約書だ。内容はシンプルかつ、彼らにとって絶対的に有利なもの。書き終えた俺は、それをサモンに手渡した。
「これは……?」
「もし、どうしようもなくなったら。親父さんが帰ってきても金策が尽き、牧場を手放すしかなくなったら……この契約書を使ってくれ」
サモンが羊皮紙に目を落とす。そこにはこう書かれていた。
『アサータク牧場の負債は、アケニース家が全て肩代わりする』
『その代償として、アーモン・アサータク及びその家族は、種馬と共にアケニース領へ移住し、アケニース家の専属として牧場運営を行うこと』
「……アケニース家で、牧場を?」
「ああ。種馬も奪わない。お前たちの技術ごと、うちが抱えるという契約だ。僕の領地には、広い土地がある。馬を育てる環境もある。……もしここがダメになったら、うちに来て馬を育ててくれ。僕は、アサータクさんの息子であるアーモンさんの馬が世界で一番だと信じているからな」
これは慈悲ではない。至高の技術を散逸させないための、俺なりの防衛策だ。
「……アルヴィン様……」
サモンが震える手で羊皮紙を握りしめた。俺は何も言わず、彼の肩を一度だけ叩くと、厩舎を後にした。




