108. 医師の宣告と、隠された瞳
「……『アーノル』。そのお名前は、祖父と父から何度も聞かされました」
サモンは、まるで伝説の英雄の名を聞いたかのように、静かに、しかし熱を込めて呟いた。
「祖父の無二の友であり、この商会の恩人でもあったと。……貴方は、そのアケニース家の方だったのですね」
「ああ。そうだ」
サモンは納得したように頷いた。
彼の中にあった警戒心が解けていく。アサータク家にとって「アーノル」の名は、絶対的な信頼の証なのだ。
「わかりました。……どうか、母を診てやってください」
サモンは深く頭を下げた。
「うむ。賢明な判断だ」
ポショルが満足げに頷き、俺たちは奥の寝室へと案内された。
部屋に入ると、カビ臭さと薬草の匂いが混じり合った独特の空気が漂っていた。
ベッドには、骨と皮だけになった女性が横たわっている。
顔色は土気色で、浅い呼吸を繰り返している。
ポショルは無言でベッドサイドに座ると、聴診器のような魔道具を当て、脈を取り、瞼の裏を確認した。
その手際は、普段の変態的な言動とは裏腹に、冷徹なまでに無駄がない。
一通りの診察を終えると、彼はサイドテーブルに置かれていた飲みかけの薬包を手に取った。
紙を開き、指先で粉末をつまみ、鼻先に近づける。
「ふむ」
わずかに舐め、すぐにハンカチを取り出して吐き出した。
「なるほど……なるほど」
彼は薬包を元に戻し、ゆっくりと息を吐いた。
そして立ち上がり、腕組みをする。
「……考えられる可能性はいくつかある」
そう前置きしてから、ポショルは俺を見た。
「アルヴィンくん。君は、どう思う?」
不意に振られた問いに、俺は一瞬言葉を失った。
「……いえ、僕は素人ですから」
「謙遜は美徳ではないよ。君には私と同じ……いや、何か素晴らしい直感のようなものがある。……直感でいい。君の目には、彼女がどう見えている?」
試されている。
こいつは、俺がただの子供ではないこと、何か特別な「情報源」を持っていることに勘づいている。
ここで正解を言えば、俺の特異性を認めることになる。
だが――。
俺は一拍置いて、思わず口をついて出た。
「治せますか?」
ポショルは苦笑した。
「治せるか、だって?」
彼は首を振った。
「診断も下していないのに、治療などできないよ。それは、私の倫理観からしてありえない」
その言葉に、俺は唇を噛んだ。
診断確定までの時間を浪費している場合ではない。
言えば、こいつに尻尾を掴まれる。
だが――人の命には、代えられない。
俺は覚悟を決め、薄目を開けて【見る力】を発動させた。
状態 肝硬変
「……か、肝臓……」
俺の声が震える。
「肝臓が……硬化、している……かも……」
次の瞬間。
「――ほう」
ポショルは、目を見開いた。
「肝臓、とな。……触診もせず、脈も取らずに。それで、どうしてそう思ったのかね?」
試すような視線。
俺は視線を逸らし、搾り出した。
「……顔色が、土気色だから……。それに、以前本で読んだ症状に似ていたので」
「ふむ」
ポショルは、にこにこと笑ったまま頷いた。
「なるほど。肝臓の硬化」
彼はポンと手を打った。
「実はね、私もそれが最も可能性が高いと考えていた」
指を一本立てる。
「内臓に異常がある確率は、八割。その中で肝臓が原因である可能性は……六割ほどだと踏んでいた」
彼は肩をすくめる。
「確信は持てなかった。黄疸の出方が弱かったからね。だから私は断じなかった」
そして、俺を指差した。
「だが――その素晴らしい直感を持つ君がそう言うなら。今回は、その診断を採ろう」
こいつ……!
俺の言葉を、確定診断の材料にしやがった。
ポショルは軽く息を吐き、医師の表情に戻った。
「肝臓の硬化だとすれば……」
彼はサモンの方を向き、冷酷な事実を告げた。
「残念だが、手遅れだ。助からない」
「なっ……!?」
サモンが膝から崩れ落ちそうになる。
「……でも、薬は……! あの薬を飲んでいる時は、母さんは楽そうに……」
縋るような声に、ポショルは首を横に振った。
「その薬は、硬化を止めてはいない。痛みや症状を、強力に麻痺させて誤魔化しているだけだ」
彼はテーブルの薬を顎でしゃくった。
「炎症を抑える調合としては、なかなか良くできているがね。だが、これは『治す薬』ではない。『死ぬまでの時間を快適にする薬』だ。使い続ければ、肝臓への負担はむしろ増す」
「そんな……嘘だ……」
サモンは絶望に顔を歪めた。
全財産を叩いて、馬を売ってまで買い続けた薬が、母の命を縮めていたかもしれないという現実。
「じゃあ、もう……打つ手はないんですか……!」
サモンの悲痛な叫びが、狭い寝室に響く。
ポショルは静かに眼鏡の位置を直し、淡々と、しかし決定的な事実として告げた。
「ああ。残念だが――打つ手はない」




