107. 馬匠の落日と、因縁の再会
スタレンの街に入った俺たちが目指したのは、丘の上にある大きな牧場だった。
入り口の看板を見た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
『アサータク牧場』
(アサータク……?)
その名は、俺の記憶の奥底に眠る、懐かしい名前と一致していた。
前世、アーノルとして生きていた頃、商売を教えて師匠であり、馬の扱いの上手い兄貴分のような存在だった男の名だ。
近くまで馬車を進めると、違和感がある。
広大な敷地、手入れされた柵、立派な厩舎。設備は一流だ。
だが、肝心の馬がいない。
本来なら夕飼いの時間で賑わっているはずの厩舎は静まり返り、風の音だけが虚しく響いている。
「……すみません、どなたかいませんか」
俺が母屋の扉をノックすると、しばらくして一人の青年が顔を出した。
年齢は21歳ほど。整った顔立ちだが、頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
面影がある。かつての師匠、アサータクに。
「……はい、どちら様でしょうか」
「旅の者だ。良い牧場だと聞いて馬を見せてもらおうと思って立ち寄ったのだが……一頭もいないのか?」
俺の問いに、青年は自嘲気味に笑い、力なく首を横に振った。
「申し訳ありません。見ての通り、うちはもう商売を畳む寸前でして……お売りできる馬はいません」
「畳む? これだけの設備があってか?」
「ええ……」
青年――名をサモンと言った。
彼は少し躊躇った後、俺たちを居間へと通し、重い口を開いた。
「実は……母が病気なんです」
サモンの話は壮絶なものだった。
この牧場の主であり、サモンの父であるアーモンは、この辺りでも名の知れた『馬匠』だった。
俺は知っている。アーモンが生まれた時、俺も祝いに駆けつけた。あいつは生まれながらにして【馬王】という、馬に関する最上位の能力を持っていた。
だから俺は確信していたのだ。いつかアーモンが、世界を驚かせるような名馬を作ると。
だが、運命は残酷だった。
数ヶ月前に妻――サモンの母が奇病に倒れてから、全てが狂い始めた。
「母の病気を抑えるには、特殊な調合薬を飲み続けなければなりません。ですが、その薬が目が飛び出るほど高価で……」
最初は蓄えを切り崩していたが、すぐに底をついた。
父アーモンは妻の命を繋ぐため、手塩にかけて育てた馬たちを次々と売り払った。
名馬も、繁殖用の牝馬も、仔馬も。
全ては、たった一日の薬代を稼ぐために消えていった。
「今、残っているのは種馬が一頭だけ。……それも、借金のカタに牧場ごと取られる寸前です」
サモンは悔しそうに拳を握りしめた。
【馬王】の才能を持ちながら、金のためにその腕をもがれた父。そして、それをただ見ているしかない自分。
「父親の……アーモンさんは今、留守にしているんですか?」
「ええ。アケニースの街にいる弟……僕の叔父さんのところへ、金の無心に行きました」
「アケニースへ?」
「はい。ですが、叔父さんはお金に厳しい人で……。身内とはいえ、商売に失敗した人間に金を貸すような人じゃない。期待は薄いです」
おそらくアーモン商会のザイクのところだろう。
あの男が兄弟であったとしても、返済の難しい金を簡単に貸すとは思えない
サモンの声は震えていた。
21歳の若者が背負うには、あまりに重すぎる現実。
「……いくらだ」
俺は懐に手を入れた。
「え?」
「当面の薬代と、借金の返済。いくらあれば足りる?」
俺には金がある。白金貨も持っている。
かつての師匠の孫、そして期待していた【馬王】の窮地だ。救わない理由がない。
だが、サモンは驚いた顔をした後、首を横に振った。
「お気持ちはありがたいですが……受け取れません。父がいないのに、僕の一存でそんな大金、他人様から勝手に借りるわけにはいきません」
真面目だ。血筋だろうか、あの一族は皆、妙なところで律儀だ。
だからこそ、ここまで追い詰められてしまったのだろう。
「それに、金を借りても……母の病気が治らなければ、結局はまた同じことになります」
その通りだ。根本的な解決にはならない。
俺はチラリと横を見た。
そこには、部屋の調度品ではなく、サモンの筋肉の衰え具合を観察している変態紳士がいた。
「……おい、ポショルさん」
「ん? 何だい?」
「出番だ。あんたの薬学で、その病気を治せるか?」
俺の言葉に、サモンが怪訝そうな顔をする。
ポショルは眼鏡の位置を直し、優雅に微笑んだ。
「おやおや、私を誰だと思っているのです?」
彼は懐から名刺を取り出し、サモンに差し出した。
「お初にお目にかかる。私はポショル。『ペッパニ商会』の会長を務めている者だ」
「ペ、ペッパニ商会……!? あの、王都でも有名な薬屋の……!?」
サモンが目を見開いた。薬漬けの生活をしているなら、その名は嫌でも耳にするはずだ。大陸でも五指に入る製薬商会のトップが、目の前にいるのだから。
「ど、どうしてそんな方がここに……」
「たまたま通りかかっただけさ。……どうだい? 君のお母上を診せてもらえるかな? 私の知識が役に立つかもしれない」
ポショルからの提案。
これは千載一遇のチャンスだ。だが、サモンの顔色がサッと青ざめた。
「む、無理です……!」
「無理?」
「ペッパニ商会の会長先生に往診してもらうなんて……そんなお金、今のうちにはありません! 薬代だけで精一杯なのに、そんな高名な先生への謝礼なんて払えるわけが……」
金がないゆえの拒絶。
貧すれば鈍する。救いの手を、支払いの恐怖が上回ってしまっている。
俺はため息をつき、一歩前に出た。
「安心しろ。金は取らない」
「え……?」
「見るだけならタダだ。もし薬が必要なら、その時に相談すればいい。……それに、俺が保証する」
俺は真っ直ぐにサモンの目を見た。
「僕は、アケニース伯爵家三男、アルヴィンだ。この男の雇い主でもある」
「アケニース……伯爵家……?」
サモンの目が大きく見開かれた。
アサータク家と繋がりが深かった英雄『アーノル』。そのアーノルが興したとされるアケニース家。
彼はその因縁を、歴史として知っているはずだ。
「貴族の名にかけて約束する。法外な請求はさせないし、もしもの時は僕が払う。……だから、診せてやってくれないか?」




