【番外編】都会育ちと海辺育ち
テオドロの視線の先を追って、ディーナの訊ねる声は少し弾んだ。
「テオ、タコ好きなの?」
朝の市場のすみで、ディーナが戻るのを待っていたテオドロは、その声に振り向いてすぐに「いや」と答えた。
「珍しいから見ていただけ」
野菜や乾物が入った紙袋を片腕に抱えていたテオドロは、そう言って、少し離れた場所にある魚売り場に背を向けた。ディーナが手にしていた雑貨の入った紙袋も取って同じように抱えると、当然のように家に向かおうとする。
しかし、ディーナはすぐには同じ方向には足を向けなかった。
「買ってこうかしら」
「え」
ディーナの呟きに、テオドロが小さく声を漏らす。その反応こそ意外で、ディーナは足を止めた夫の顔を見上げた。
「この市場でタコが出ることって、あんまりないもの。レベルタではよく見かけたけど」
「あ、ああ、海辺……」
テオドロの戸惑ったような答えに、ディーナは眉を寄せた。
「もしかして、タコあんまり好きじゃない?」
「……好きじゃないって言うか」
珍しく言い淀んだテオドロが、もう一度魚売り場に目を向ける。冬であっても氷が積まれた籠の上で、ほかの魚とは明らかに様相を異にしているそれは、鮮度を保つためなのかまだ生きて足を動かしていた。
「……一応聞くけど、ディーナは、あれを飼いたいの?」
「なっ、そんなわけないでしょ!? 食べるのよ!」
食べるのか、と呟いて、テオドロはまた氷の上のタコに目を向けた。
思い出してみると、テオドロに連れられて入った王都のお店でタコの料理は見たことがない。市場にあまり出ないことからしても、あまり王都ではメジャーな食材ではないのだろうか。
運河でつながっているとはいえ、この街は、海からそれなりに距離がある。潮風を感じるレベルタとは食生活が異なると、ディーナも肌で感じていた。
でも、十年もの間、海辺の街にいたディーナには食べ慣れたものだ。むしろ、久しぶりに見かけて、記憶にもとづく食欲が刺激されたくらいだ。
どちらかと言えば夏によく食べたけれど、今年の夏は料理どころではなかった。
「見た目は変わってるけど、茹でてサラダにしたり、パスタに入れたり。トマトで煮ても美味しいのよ?」
「何が」
背後から突然割って入ってきた声に、ディーナはひゅっと肩をこわばらせた。と思うと、テオドロに腕を掴まれ強い力で引き寄せられ、その背後へと隠れる形になる。
「……過去の事件関係者への接触は、厳重に禁止されているはずだが?」
氷よりも冷たい声のテオドロ越しに覗き見ると、さっきまでディーナがいた場所のすぐそばに、テオドロへ中指を立てたルカの姿があった。
「買い物に来ちゃいけないとは言われてねぇな」
「だとしても、見かけたら離れろ。それができないなら部隊長に報告して遠方駐留に回してもらう。帰れ。すぐに荷物をまとめろ」
「多分通らねえよその提案は。軍が俺を使うメリットが無くなるからな」
冬の朝の空気が一層冷え込んでいく。通行人が腕をさすりながら通り過ぎていく中で、驚きが落ち着いたディーナの視線はまたタコに向いていた。
あのタコ、一匹しかない。
売れてしまったら、もう次はいつお目にかかれるのかわからない。
「……ねぇ、テオ。せっかくだから買って帰りましょう?」
「いらない。早く帰るよ」
有無を言わせない口調。
あまりにも強い口調に驚いたディーナに、テオドロ自身も『しまった』の顔をした。
「そ、そんなに嫌……?」
「いや違う、ディーナ、後で言うからとにかく」
「何、ディーナは何が欲しいっつってんの?」
低い声で慌てるテオドロの背後から、ルカの声がする。ディーナはテオドロが殺気立った目を向ける相手にもわかるよう身を乗り出して、「あれ」と答えを指さした。
「ルカはタコ、食べたことな」
「何あれキモ」
質問を、最後まで言う間もなかった。
視線をディーナの指さす先に向けたルカは、表情こそいつもと変わらなかったが、その口元は『うえ』と言いたげに歪んでいた。
「あんなんどう料理すんの? あれはいったい何色って言えばいいんだよ」
「ルカ黙れ。帰れ」
「いやテオドロ、お前あれ食えないだろ」
「黙れ」
「海辺の人間はよくあれ捕って食おうと思ったな」
「殺されたくないなら本当に黙れ!」
「ふ、ふたりともひどい!」
とうとうディーナがわっと声を荒らげると、男二人はぴたりと黙った。
「どーせわたしは海育ちの田舎者よ! もういい、あれはわたしがひとりで食べる、外で二人で食べて帰ればいいのよ! 都会育ち同士、舌もお話も合うでしょうからね!!」
涙交じりの声で叫ぶと、ディーナはテオドロを置いて走って魚屋に向かった。早くしないと売り切れてしまう。
通行人がちらちらと視線を送る先には、呆然と立ち尽くすテオドロと、何食わぬ顔で煙草に火をつけるルカの姿があった。
「……」
「じゃ、俺帰るわ」
「殺すからちょっと待て」
「でもお前、あれ食えんの?」
押し黙ったテオドロの肩を叩いて、ルカが煙と共にしれっと言う。
「まぁ、生の見た目はともかく、料理にするといけるよな。白と合う」
――は?と目を丸くして振り返ったテオドロの目に、半笑いのルカが映った。
「フェルレッティ邸には新鮮な魚介が優先的に届けられてたからな。当主が好きだったし、幹部はほとんど食ったことあるんじゃねぇの。ラウラは文句言ってたけど。あー、生意気な新入りが入ってきた年にはたまたま出なかったかな」
じゃ、といまだかつてなく清々しい笑顔で去っていった男は、ディーナと同じ意見で彼女と意気投合するよりも、場をひっかきまわすことを優先したようだった。
「……殺しておけばよかった」
ぼそりと漏れたつぶやきに、通りかかった婦人が「今、空耳が」「悪魔のささやきが聞こえたような」と周囲を見渡した。
テオドロは目を閉じた。
今さら何と言って、帰った先でへそを曲げている妻の機嫌をとればいい。ていうかアウレリオも食べられるのか。田舎育ちだからか。ニコラやバルトロは国じゅう色々なところに行っていたからわからなくもない。ベルナルドはまぁ、なんでも食べそうといえばそう。ラウラはかなりの偏食だった、あんな幼児と一緒にされたくない。
いやでも、あれ食えないだろ。
***
その夜。
「……あ、美味しい」
鍋からよそってもらったタコのトマト煮込みに、テオドロは思わずそう呟いて、実に半日ぶりに妻から「でしょ!?」と口をきいてもらえたのだった。
後日、ウニでも同じようなことをやる。




