【番外編】 もしものときは
すみません、本編の余韻を著しく壊す可能性があります。
線路わきによけられた雪の間を、王都に向かう列車が走っていく。
個室に一人きりの男は、車内販売員から受け取った新聞に挟み込まれた封筒を見て、小さく口元をほころばせた。
『都市の冬は海辺より緩やかかと思っておりましたが、固い地面から冷気が上ってくるようです。あなたも、体調などはお変わりないでしょうか』
宛名も、名乗りもない手紙には、そんな書き出しの後もこちらの体調をおもんぱかりつつ、書き手自身の近況が軽く記してあった。
そして最後には、『わたしひとりでの雪かきはとても大変ですから、早く帰ってきてくださるようお祈りしています』と締めくくってある。
書き手が本当に伝えたかったのは最後の一文の、しかも後半なのだろう。甘えることを躊躇するようなインクの溜まりからそれが窺えるから、テオドロは丁寧に切った封筒で口元を隠して少し笑った。
仕事中、彼の所在地は軍の仲間以外には知らされない。それは相手が誰であっても。
妻であっても。
不安にさせたのだろうか。一緒に住み始めてから初めての長期出張だったから。
長期、とはいえ、例の家への潜入に比べればずっと短いし、任務自体もそう難しくなかった。家に残していくにあたって、ディーナにも事前に伝えていたのに。
けれど、こうして心配して、具体的なことは何も書けないなりに軍に手紙を託してくれた彼女の心配は、申し訳ない以上に嬉しくもある。
帰りを待ってくれている人がいるということが、こんなにも心を満たすものだったと、男は母親の死後初めて知った。
ディーナを山間部の修道院から連れ出したのは秋の終わりだった。そのことで休暇が終わる前に上司が渋い顔で家にやってきたのも、もはや懐かしい。
結局、匿った協力者を引っ張り出して王都のすみで生活を始めたテオドロに下された処分は、ひと月ほどの裏方業務――命の危険の比較的薄いサポート業務だった。
それは上層部なりの、フェルレッティ潰しのために奔走したテオドロへの実質的な労いだったのだろう。
ただそれも、冬を本格的に迎える前に切り上げられた。表に伏せられた特殊部隊はいつだって人手不足だ。
――人手不足なのは、陰で殉職する隊員が後を絶たないからでもある。
テオドロは隠すのをやめた青い目を、便箋にもう一度落とした。
名前や場所を書けないのは、軍からの指導によるものだろう。すなわち、この手紙が敵対者の手に落ちたときを想定してのこと。
この手紙に、テオドロからは『今日帰途につく』と返事を出すこともかなわない。
ディーナの心労を思えば、所属部署を変えるべきなのだろう。
けれど、テオドロはどうしてもそれができなかった。国内の憂いはフェルレッティだけではなく、突然日常を壊される罪のない人間は、あの日の自分たち母子だけではないのだ。
ただ。
(……僕にもしものことがあったら、彼女は?)
そんなことを思っては、罪悪感に息苦しくなる。
早く顔が見たい。今夜は一緒にいられることに、誰より安心しているのはきっと自分自身の方だった。
***
「ルディーニ君、ちょっと」
特殊情報部の本部から今まさに出ようとしていたテオドロは、背後から呼び止める声に振り返り、眉をひそめた。
「報告書に、何か不備でも?」
来い来いと手招きしてくるのは、小太りに口ひげの、見るからに人畜無害そうな中年男性である。が、彼こそが王の密命を帯びて暗躍する工作隊員たちをまとめる部隊長で、テオドロの直属の上司だ。
その彼が、一見して穏やかに微笑んでいながら、目の奥を鋭く光らせているのに、テオドロはすぐに気が付いた。
「いやなに。出張から帰ってきた部下を、カフェモカで労おうと思っただけさ」
何か、仕事の話で込み入ったことがあるらしい。
そう受け取った以上、妻の喜ぶ顔がしばし遠ざかるのも多少は堪えなければならない。
「フェルレッティの残党が、妙な動きをしている」
情報部棟の奥の、面談室。自分の分の飲み物を遠慮して話に臨めば、部隊長は神妙な顔で言った。テオドロも顔を険しくする。
「外飼い一覧に、漏れがありましたか」
「いや。そんな大層な奴らじゃあない。入れ墨を彫っているだけのチンピラどもだが、末端ながらにフェルレッティの麻薬やその精製、密売ルートを持ってる奴らもちらほらいる。そいつらがどうも、本家壊滅後はかつての敵対組織に情報や現物を売りこもうとしているらしくてな」
そこまで聞いて、テオドロは上司が自分を呼び止めた理由に合点がいった。
フェルレッティの麻薬は、その中毒性の高さゆえに、数々の裏事業の中でも群を抜いて高利益を弾き出していた。裏の敵対組織たちはその薬物情報が喉から手が出るほど欲しいはず。販路も抱き合わせで押さえられるとなったら、ポスト・フェルレッティに一歩近づくというわけだ。
「なるほど。ネズミの噛み穴が大きくなる前に潰しておこうってことですか」
「そう」
砂糖たっぷりのカフェモカをすする上司が、テーブルの向こうで頷く。
ここに所属する以上、テオドロの答えは決まっていた。
「わかりました。……ただ、」
一度、家に寄らせてもらえますか。
今、夫がディアランテに帰っていることすら知らないディーナのことが頭に過ぎったテオドロがそう言おうとしたのを、部隊長は厚みのある手を振って「違う違う」と遮った。
「早合点するな。君ひとりに全部やってもらおうってわけじゃないんだ」
「……ファビオは工作や潜入の前線には向いてませんよ」
フェルレッティ潜入時のサポート要員だった同僚のことを思い浮かべて意見すると、また首を振られる。
「今回は新人を使いたいんだ」
「新人?」
やや声が上ずったテオドロに、部隊長はしてやったりとばかりに口角を上げた。
「……いくら敵の本隊が壊滅状態だからって、侮りすぎでは。何かあっては無駄死にになりますし、時間がかかれば片付くものも取り逃がします」
「いやいや、これが適任なんだ」
年若い部下の遠慮のない物言いに気を悪くすることもなく、部隊長はもったいぶって身を乗り出し、口元に手を当てて声を潜めた。
「なにせ、彼は元あっち側なのだよ」
「……聞いてませんね、それ」
テオドロは目を眇めた。
特殊情報部が表に出られない理由は、潜入している隊員の命を守るためであると同時に、その手段の問わなさのせいでもある。
要は、減刑を餌に元フェルレッティ構成員から協力者を引き抜いたのだ。――薬物管理と開発を任されていたベルナルド・バッジオは、この引き抜きの主力候補だった。
ベルナルドの件は実現しなかったが、そのあとで他の人間に働きかけがされていたらしい。潜入の当事者だったテオドロは寝耳に水だった。
「いやすまない。しかしこの手のことは内密、かつ一刻を争う。きみは休暇中だったし、……わしも、使えるなら使わない手はないと思ってな」
「信用置けません」
「だが、この件に関して有力な情報を持ち、生存意欲があり、古巣への未練がない」
なるほど。経歴に目を瞑れば、とても都合が良い。
――都合が良すぎて、怪しい。
(薬物の販路……軍が減刑取引を持ちかけるほどの情報の持ち主……)
嫌な予感がする。
「……夏に捕まえて取引きしたなら、もういくつか任務につかせてるんですよね?」
「それが、逮捕時の怪我が酷くてなぁ。リハビリが終わって、これからようやくってところなんだ」
「……幹部、のはずがありませんね。毒のせいで二日保たない」
「幸いにも、ファビオが確保した薬瓶の中に解毒薬があったんだよ」
すごく。
すごく嫌な予感がする。
上司に呼び止められたときの比ではないほど。
「……この話を、なぜ自分にしたんですか?」
「それはもちろん……あ」
ノブの回る音ともに、部隊長の視線がテオドロからその背後へとズレる。テオドロも、その目の動きを追って振り返り――。
「紹介するまでもないな、彼は、おっとこらこらこらこら」
己の懐に手を伸ばしたテオドロを、上司がカップ片手に宥める。
それを、開けた扉から入ろうとしていた男は呆れ顔で見下ろした。その後ろには、案内人と監督役を兼ねているらしい軍人が気まずげに立っている。
「……生きてたのか」
地を這うようなテオドロの低い声に、男も剣呑な声を返す。
「おかげさまで?」
――そっちがとどめをささなかったおかげで。
秘密保持のために締め切られているはずの部屋に、外気も凌ぐような凍てついた空気が流れた。
限りなく、殺意に近い気配が、双方向から。
殺すつもりだった。
けれど確かに、階段から落とした男の死亡確認を自分はしていない。それより、ディーナを見つけることを優先したからだ。
後からリストの絵のことをディーナから聞いたので微妙な気持ちでいたのだが、どっちにしろ毒で助からないと思っていた。
思っていた、のに。
「こちらルカ・べラッツィオ君。紹介するまでもなかったかな」
そこには確かに、薬物取引を取りまとめていた若い幹部の姿があった。
――白々しくのんきな声を出した上司を一瞥もせず、テオドロは「人選ミスです」と切って捨てた。
「この男はアウレリオに近すぎたし、ベルナルドほどの専門性を持っていたわけでもない。そりゃニコラよりは扱いやすいでしょう、特権階級に生まれた者のプライドがないでしょうから」
「ネズミにネズミの素質がないと言われんのも妙な気分だな」
ガタ、と音を立てて立ち上がったテオドロの前に素早く部隊長が回り込む。
「いやはや詳しい。さすが元同僚、というのもなんだがハハハ」
「釈放するリスクが大きすぎるから、すぐに監獄に戻すべきだと言っているんです」
「落ち着きたまえルディーニ君。わしとて全面的に信用する気はない。だからこそ、君に話を持ってきたんだ」
「それは、つまり?」
「彼が任務を完遂するまで、君がそばで監視してくれ。君なら彼のやり口もわかっているし、裏をかかれることもないと見込んでのことだ」
テオドロはしばし、二の句が継げなかった。
確かに、元犯罪者を協力させる場合、そばに監視者を置くのは当然の処置だが。
「……そこまでしてこの男を使う必要はありません。残党狩りは自分ひとりでできます」
「人手は多いほうがいい」
「かえって足を引っ張られます」
「そうかな? 情報持ってるし、自棄にならないだけの生存意欲あるし、古巣に忠誠心ないらしいし、それに」
部隊長はルカに背を向けるようにしてテオドロの肩を抱き込み、またもったいぶるように耳打ちしてきた。テオドロは聞きたくもなかったのだが、応じないわけにもいかない。軍は上下関係が絶対だ。
「君の一番の懸念事項もクリアしてる。――ここ数ヶ月の精神科医の見立てでは、彼女のこと、まったく恨んでないらしい」
ああそうだろうな。三日で見抜ける下心だからな。
吐き捨てそうになった言葉をすんでのところで堪える。軍は上下関係が絶対だ。
「もちろん、わしも心から安心したまえとは言わない。なにせ過去が過去だ。けれど人は、思わぬきっかけで、行動や心がけを入れ替えるものだし」
テオドロは、反論を飲み込んだ。かつてディーナが『十年あれば人は変わる』と言っていたのを思い出したからだ。あの必死さの意味がわかれば、『んなわけないでしょう』と一蹴するのも気が引ける。
いやでも、彼女とルカでは状況も人間性も違いすぎる――。
「それに君の奥さんも、彼の釈放に同意してくれた。あまり危険視していないようだった、仲良かったのかね?」
「……!!」
顔色をなくした部下に、「もちろん会わせてないし、今彼女が王都に住んでることも漏らしておらんぞ」と言って、部隊長はぽんぽんと相手の肩を叩いた。
「そんなわけで、彼女の身の安全は気にしなくていい。……わしが直接話した感じだと、べラッツィオ君はむしろ彼女の身の安全を守る任務なら進んで従事しそうなくらいで」
「そうだろうなクソ野郎が」
「ん、今なんて?」
黙り込んだテオドロに、背後からそっと近寄る影があった。
「まあ、そういうわけなので、よろしくお願いしますね。先輩」
わざとらしい言葉と同時に、上司とは逆の肩をがっちり掴まれる。
テオドロが嫌悪と苛立ちを糸一本ほどの理性で抑え込み、冷たく突き放そうとしたとき。
「――もしものときは、後のこと、任せてくれていいんで?」
「こーらこらこらこらこら、二人ともモカでも飲んで落ち着きなさい」
机が倒れ、脚が折れた椅子が転がる面談室に、それぞれ上司と案内役によって床に抑え込まれるテオドロとルカの姿があった。
***
雪を踏みしめる音に、窓の外を見やる。
ここ数日ずっとそんな調子で、いつも肩を落としてカーテンを閉めるのだが、この日は違った。軍の護衛が密かに見守っている小さな家の扉に、ディーナは外套も忘れて飛びついた。
「おかえりなさ……テオ、怪我してるっ! 大丈……え?」
溢れんばかりの笑顔で飛び出したディーナだったが、そんな妻をテオドロは家の中へ押し込むように戻して、素早く扉を閉めた。
まるで敵から身を隠すような動きの早さに、ディーナは目を白黒させた。口元の痣の理由とどちらを先に問うべきか迷っていると、外套も脱いでいない夫に強く抱きすくめられる。
驚き、固まり、そして照れと同時に安堵と喜びをじわじわと実感し始めたディーナが、その冷たい背中にそっと腕を伸ばそうとしたとき。
「…………死にぞこないが……!!」
「えっ、ご、ごめんなさい!?」
あまりにも身に覚えのある罵倒は、誤解だということ以外詳しく教えてもらえなかった。
――僕にもしものことがあったら?
(あってたまるかそんなこと!!!)
作者の趣味でした。
続きません!




