最終話 最後の嘘
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よく晴れた秋の日。
山間の村に建てられた女子修道院は、厳格ながらもどこか浮足立った空気が流れていた。
「ねぇ、オーブンは空いた? アマレッティを焼くわよ」
「待って待って、まだビスコッティを一回しか焼いてないの。切ったらすぐに二回目の焼成に入るから少し待って」
「誰かジャムを知らない? 昨日ここに置いておいたのだけど」
「えっ! そこにあったイチジクのジャムって朝アリーチェがお菓子に使ってしまいましたが」
「アリーチェが? まあ、あの子今日の主役なんだから、そんなことしてる場合じゃないでしょうに!」
エプロンをまとったシスターたちのかしましい声が飛び交う中を、ひときわ通る声で一喝したのは老シスターだった。
「なんて騒々しさ! 収穫祭は毎年やってるのに、今年は数十年ぶりに修道誓願もあるからってみんな落ち着きがなさすぎですよ」
その声とともに、若いシスターの半分を厨房から追い出して「庭のテーブルセットの準備に回りなさい」と指示を飛ばす。
「テーブルにはむやみに早く点火しないでちょうだい。お酒も出るし、それでなくてもだんだん空気も乾いてきたのだから……」
老シスターは、そこでハッと口をおさえ。
「……そういえば、朝の礼拝のろうそく、消してない気がする」
そう呟くと、黒いシスター服の裾をからげて早足で厨房を出ていった。
見送ったシスターたちがため息をつく。
「シスター・ディーナは火の気に敏感ね」
「若い頃に大きな火事を経験したんですって」
人のいない礼拝堂でひとり、アリーチェは最前列のベンチに腰かけて、レースのベールの隙間から聖母子像を見上げていた。
今日は秋の実りを神に感謝する、収穫感謝祭だ。特別なミサのあと、教会の中庭で村民や修道女たちが持ち寄った軽食や焼き菓子が互いに振る舞われ、ちょっとしたお祭り気分を味わう。
例年ならそれで終了だが、年によっては、そのあとさらに新人シスターの修道誓願の儀式が行われる。二十歳以上の女子が、専用の白い衣装に身を包んで、神と教会に生涯を捧げると誓う日。
誕生日を迎えたばかりの自分もまた、今日をもって、正式なシスターになる。
「……神様、わたしは貞淑、清貧、従順を尊び、生涯あなたと世の平和に仕えることを誓うものであり」
そこまで口にして、アリーチェは首をひねった。
誓願の文言は、各修道院によって微妙に違う。主旨は同じだが、これから生涯過ごす修道会で大切に伝えられてきた聖句を間違えていいわけない。
本番前の独り言とはいえ、無意識に前の修道会で習った文言を口にしてしまった。頭をリセットしようと首をふると、ベンチの横に置いていた焼き菓子が目に入る。
丸いタルト生地から、赤いジャムが覗く焼き菓子は、本来なら神に捧げるもの。
いまどき祭壇に捧げる習慣はないが、なんとなく、騒がしい厨房からここに持ってきていた。
けれど、そろそろ庭に出されたテーブルに移してこようか。そう思ったアリーチェが腰を上げかけた。
――のを、小さな物音が止めた。
(……今、扉がガチャっていった?)
しまった。
神聖な場所に菓子を持ち込んでいると勘違いされるのが恥ずかしくて、アリーチェはさっとベンチの陰にしゃがみこんだ。
扉が開く音がする。人が中に入ってくる気配に、このまま中央通路を歩かれては見つかると直感した。
アリーチェは音を立てないよう靴を脱ぎ、四つ這いで身を隠しながら、壁際の通路を通って祭壇の方へと移動した。幸い、来訪者はコツコツと規則的な音を立てて、ゆっくりと歩いていたので、死角を経由して祭壇の後ろに回るのはそう難しくなかった。
金の彫刻で飾られた樫の祭壇の裏で、ひっそりと息を吐く。いったい誰だろうと、様子を窺おうとして。
「お取り込み中のところ、すみません」
聞こえてきたその声に、アリーチェは身をこわばらせた。
若い男の声だった。
村の人間ではない。アリーチェは迷い、しかし相手はここに自分がいると確信して声をかけてきている。
黙っているわけにもいかず、か細い声で答えた。
「……ミサはまだ始まりません。どうぞ、外でお待ちを」
「この教会に、人を捜しに来ました」
声が、聞こえていないはずはないのに、男は優しく、有無を言わせず、遮り。
「ディーナという名の女性を」
礼拝堂に、少しの間、沈黙がもたらされた。
「……シスター長ですね。呼んで参りますから、外へ」
「いえ。この国にはよくある名前なので、詳細を伝えさせてください。人違いで、忙しい人を煩わせたくはありませんから」
「この教会に、ディーナと名乗るシスターは一人だけです」
それには及ばないと言外に断ったアリーチェに構わず、男が話し始める。
「彼女は、赤毛に、緑の目で、ここからずっと遠い海沿いの街でシスター見習いをしていた人です」
「……だから」
「彼女は」
止まらない相手の声に、アリーチェは靴をぎゅっと握りしめて“早く出ていって”と願った。
「警戒心が強いのにお人好しで、臆病なのに誇り高い人でした」
早く。
「過去の罪を濯いだつもりで、ずっと苛まれていた人で」
教会の外で、村の人間か、シスターか、誰かの忙しない声がするのに。
ミサの会場となるここに、入ってくる気配はない。
まるで、邪魔されないように、誰かが配慮したかのように。
「静かな修道生活を望んでいたのに、不運にも、王都のおおきな屋敷の火事に巻き込まれてしまいました」
しゃがんだままのアリーチェは、靴を握る手が震えてきたのを感じた。
右肩の怪我の後遺症で、力を強く入れ続けられなかった。
「そのとき、場に居合わせた男からは、焼けた梁の真下に立っていた彼女の姿は見えなくなりました」
――薔薇窓から、秋の日差しが差し込んでいる。
中央の通路に立つ男に、降り注いでいることだろう。
「……炎の壁の向こうで奇跡的に生存しながら、保護した軍の判断で、そのまま世間から身を隠すことになりました。巻き込まれた一協力者への、手厚い保護でした。どこに彼女を害する人間がいるかわからないからと、軍の内部にもその生死は偽られて」
今、男の顔を見てはいけない。
十年前は、それがきっかけだった。
「彼女は、世間に対して年齢をひとつ偽っていました。保護した人間たちも、それを信じました。だから二十歳の女性が行える修道誓願を、一年遅れで行うことになった」
あの目が、神様が照らした光を受け止めるところを見てしまった時から、運命は定まったのだ。
でも今、ここにいるのは、もうそれとはなんの関係もない――。
「多分、今は名前を変えている。……例えば、アリーチェだとか」
息ができない。
喉の奥から競り上がる何かに突き動かされるように、声が漏れそうになる。
それを耐えようとして、息ができなかった。
「……彼女は、今年もクロスタータを焼くつもりでいたそうなんです」
不意に、ベンチに残してきた素朴な焼き菓子を、彼にも見られてしまったと思い至って――。
「すみませんが、人違いだと思います」
祭壇の裏で女が息を呑む。
老成し、きっぱりとした物言いの声は、礼拝堂の奥から、靴音ともに現れた人間のものだった。
「シスター・ディーナはわたくしです。ここには生涯を祈りに捧げると誓った女性しかいません。救済をお求めの方でないのなら、お引き取りを、旅の方」
男は、しばらく無言でそこに立っていたようだった。
だが、やがて踵を返して、礼拝堂の正面出入り口へ戻っていったのが、靴音でわかった。
老シスターの毅然とした態度に観念したのか、――それとも別の何かに、諦めを感じたのか。
「アリーチェ。これで良いのですよ。あなたはここで安寧とともに生きるべきです」
シスター長の言葉に、ベールを揺らして頷く。
「ありがとうございます、シスター・ディーナ。わたしの祈りを、守ってくださって」
かつて軍に所属していたという老シスターは、常とは違う穏やかな笑みで、しゃがんだままの女の背を撫でた。
これでいい。
自分はこのまま、この静かな教会で生涯を過ごす。
死んでいった者たちのために祈り、いつか審判の下る日を思いながら。
そしてできるなら、今度こそ生まれ変わるのだ。
水で洗い流せなかった過去を、あの火の中にくべてきたのだと信じて。
懸念だった、誰かを煩わせたり、罪の意識を背負わせることもなく、かつての名前ごと消えていく。それまで、自分のことは、神に監視してもらいたい。
それが今の自分の望み。
死ぬはずだったことを思えば、生きて祈れるだけでも十分過ぎる。
――だから。
「……アリーチェ?」
だから、望んでいるはずがない。
一回だけ。
生涯、あと一回だけ、あの人に会いたいだなんて。
「……ごめんなさい、神様」
シスター長が目を見開く。
「アリーチェ、どこに行くのです、……やめなさい、アリーチェ!!」
――気がつくと、足が勝手に走っていた。
裸足のままだった。花の飾られた中央の通路を駆け抜けたのは。
制止も聞かず、一度閉まった扉を、力の入らない腕で開け放ち。
「テオ……!」
穏やかな日差しの降り注ぐ、外庭に飛び出す。
そこに、叫んだ名前の男はいなかった。
――呆然と立ち尽くしたディーナの体が、横に引きずられる。
逃げることも、心の準備をすることもできないまま、ディーナは抱きしめられていた。勢いで、小さなかかとが浮き上がるのも構わず、テオドロの腕に強く抱え込まれていた。
身動きのとれないディーナの頭から、白いベールが地面に落ちる。
「ごめん、少し、遅くなった」
耳元でささやかれる声。
やっぱりそう。
いつもいつも、謝らなくていいのに、自分を責めて。
わたしのことで苦しまないで欲しかったのに。忘れてしまうべきだったのに。
――迎えに来て欲しいと思ってるわたしの願いなんて、叶えなくてよかったのに。
目を瞬かせた拍子に流れた涙が、男の肩に吸い込まれていく。
抱きしめ返して、埋めた首筋に、小さな火傷の痕が見えた。
都合が良くも、それが、なにかの終わりを示しているように思えてしまう。
気をつけているのに、やはりまだ、利己的で、傲慢な自分が生き残っている気がする。
結局、この魂は生まれ変われないのかもしれない。
罪を抱えて、罰に怯えて、過去に苛まれて。
でも。
「これから、どんなときでも。どこであっても、ディーナのことは、僕が絶対に守るから」
でもこの人が、そう望んでくれるなら。
「……離れないでね、テオ」
男が少しだけ、頭を離した。大きな手が髪を梳いて、濡れた頬へとおりる。
触れられても、もう怖くなかった。
――神様、ごめんなさい。
あの誓いは、わたしの最後の嘘となってしまいます。
(どうか、この裏切りを、お許しください)
この人と一緒にいることを、どうか。
***
数十年ぶりに、山間の教会で行われる予定だった修道誓願の儀式は中止となった。
ため息をついたのは、シスター長だったのか、呆気にとられた村人たちだったのか。
それとも、別の誰かだったのか。
深く口づける二人には、わからないことだった。
おしまい!
ここまでお付き合いくださってありがとうございました!評価や感想など、よろしければお願いします。めちゃくちゃ励まされます。
(追記)
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ここまで読んでご支援くださった方々、ありがとうございました。




