45 帰らぬ人
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聖母子像の奥で、扉が開く音がした。
独特の香りに満ちた礼拝堂に、足音が反響する。
「お待たせしました、旅の方」
奥から進み出てきた若いシスターは、並ぶ固いベンチのひとつに座っていた来客に微笑んで近寄った。
「エヴァと言います。ちょうど神父様もシスター長も不在なのですが、あたしだけで構いませんか?」
中央の通路側からやってきて、シスターは客人と同じベンチに腰掛ける。男は表情を動かさないまま、「お忙しいところすみません」と抑揚のない声で謝罪した。
「どうしても、ディーナ・トスカと親しい人に、伝えたいことがあって参りました」
「ディアランテだなんて、遠いところからお疲れでしょう。……あたしがここへ来てから半年もの間、ディーナは同じ部屋で過ごした仲間でした。十日前、急に消えてしまった彼女のこと、みんな心配してる。なんでもいいんです。教えてください」
エヴァは真剣な、ともすれば思い詰めたような顔で男の横顔を見つめる。
一方で、男は手を膝の上で組み、前を向いたままだった。視線の先には白い煙を立てる振り香炉の乗った、祭壇がある。
「彼女が消える前、この街で殺人事件が起きたでしょう」
「ええ。男の人が三人も、運河で」
前髪ごと隠したベールの下で、細い眉が痛ましげに寄せられる。
「彼らはここに入る鍵を持っていました」
エヴァがハッと顔を上げる。
「まさか、ディーナは彼らのトラブルに巻き込まれて……」
「鍵は教会の奥の、司祭館と女子修道院で保管されていた」
遮られたエヴァが目を瞬かせる。
静かな聖堂に、今度は低い、抑揚のない声が這うように響く。
「鍵を盗み、紹介された男たちに渡し、忍び込む時間を指定する。タイミングを合わせてここにディーナが来るよう誘導すれば、誰にも邪魔されずに彼女を連れ去ることができるはずだった」
「……ル、ルディーニさん、あなたは何の話を?」
「だけど計画は失敗した。鍵を盗んだ手引き者は、男たちを口封じのために素早く処分して、次の指示を待つしかなかった」
絶句した修道女に構わず、男は話し続けた。
なんの行事もない平日の昼間、人の寄り付かない教会。
外界の暑さから遮断された薄暗い空間は、不気味な冷たさを孕み始めていた。
「地下墓地の鍵を閉めたのもわざとだな。僕とディーナがいるのを知っていて、次の指示が来るまでそこに監禁しておきたかったってところか。残念だったな、雨漏りも直せない教会じゃ、鍵も蝶番も新調できてなかった」
答える声はもうない。男もそれを求めはしなかった。
「女の身で、と偏見を持ってはいないつもりだったけど、正直舌を巻いた。僕に殴られた後だったとはいえ、男三人を相手にほとんど無駄な傷をつけず、ナイフで急所を切って運河に捨てた。朝の仕事の間、ほんの数分の間に。その手腕には恐れ入る。……蛇の入れ墨を瀕死の男に見られていたということは、手首付近か、そのベールで覆われた首筋にでも彫ってあるのかな、“同志”エヴァ」
テオドロは、自分の首に向かってきたナイフを相手の手首ごと掴んでひねり、床に落とさせた。
ようやく顔を女へと向け、ベールの下から向けられる冴えざえとした殺意を受け止める。
「おまえはこの半年、ディーナのことを探り、フェルレッティに報告していた。だからアウレリオは妹がどこでどういう生活を送っていたのかを知っていたし、レベルタのいちシスター見習いがディーナ・フェルレッティ本人だとかなりの確信を持って招くこともできた」
「ネズミふぜいが、伯爵のことを知ったふうに話すな」
それまでの、陽気でちゃっかりもののシスターは消えていた。フェルレッティの暗殺者は落ちたナイフに目もくれず、空いた片手をテオドロの首に伸ばす。
その手の先で、薄い唇はうっすら笑った。
「ひとつ、面白いことを教えてやるよ。おまえの仕事のほとんどはアウレリオの意思じゃなかった」
エヴァの手が、テオドロの手に阻まれて止まる。
「……何?」
「アウレリオが命じたのはあくまでディーナの身辺情報の報告だけで、迎えは別に寄こすつもりでいた。なのに、おまえに直接指示を出した人間は、拉致までさせようとした。フェルレッティと敵対するペッツェラーニ一家の下っ端まで抱き込んで。
それともうひとつ。そもそも、報告の業務自体、アウレリオが指示したのはここ数週間のことだ。だから半年前、おまえをここに送り込み、指示を出していたのはアウレリオじゃなく、別の人間だ」
二人が睨み合う聖堂の扉が開き、新たな靴音が響く。
重い足音だった。
「そいつは、独断で見張っていたディーナがアウレリオに見つかったと知って焦った。奴の意向に沿ってさも最近外飼いを忍び込ませたように装いながら、その陰で今度こそディーナを先に手に入れようとした」
震え始めた女の手首を抑えたまま、テオドロは後ろのベンチに腰かけた男へ目を向けた。
「そうだろう、ニコラ」
屋敷の外で活動する構成員を束ねる幹部、ニコラ・テスターナは何も言わなかった。テオドロは続けた。
「十年前は、息子に目をつけられて追い詰められていたジュリオ・サルダーリを利用し、幼い姪を攫おうとした。フェルレッティは外戚も含めて、当主以外の人間に権力を渡さない構造になっている。叔父であるおまえは、当主本人を拉致し、自分の傀儡に仕立て上げようとした。そういう薬物に事欠かない家だったし、管理者のベルナルドはおまえのこともロレーナの弟として崇拝していたから、やってできないこともないはずだった」
テオドロは、エヴァの腕を掴んでひねり上げた。呻く相手の腹部に拳を沈めようとすれば、エヴァが己を戒める手を蹴り外し、テオドロからすばやく距離を取る。
「誤算は、サルダーリが攫ったディーナを渡さず、運河に沈めてしまったこと。計画は狂った。おまえはその後もフェルレッティに出入りするサルダーリが余計なことを言わないか気が気じゃなかったはずで、奴の愛人とその息子の顛末なんて構っていられなかった」
獣じみた息遣いで体勢を整えるエヴァとは対照的に、涼しい顔のニコラは座ったまま、懐に手を入れた。
「……テオドロ、きみはいつから私が動いていると?」
「ディーナがアウレリオに渡した“贈り物”を探して、執務室に忍び込んだだろう。ディーナは“嗅いだことのある香りがした”と言っていたが、それはおそらく煙草と乳香の混ざった匂いだ。
あの日、アウレリオの代わりに大聖堂の外飼いへ挨拶に行ったから、いつもの煙草の匂いに教会特有の匂いが混ざり込んだ」
髭の下で、シガレットケースから取り出した煙草を一本くわえ、ニコラはマッチを擦った。
「この教会にはほとんと人が来ないが、礼拝のときだけは、街の人間がやって来る。日常的に煙草を吸う人間も」
吐き出した煙が溶けるように消える。祭壇の香炉から上がるそれとよく似た動きだった。
「ディーナが渡した“贈り物”を気にしたのは、それがフェルレッティの蛇の毒の解毒薬かと思ったからか」
「……私が姪だと断定しない以上、ディーナは身を明かす決定的な証拠はさっさと渡すと思っていたんだがなぁ」
ニコラの目が、小さな教会の古びた天井を見上げる。話は、そのまま淡々と進められた。
「半年前、教会庁の外飼いから回された聖職者候補のリストで、何気なく目に留めたディーナ・トスカの名前が気になってね。それは今年の下半期に修道の誓いを立てる見込みの者のリストだった。……彼女が、年齢をごまかさないでいてくれたら、伯爵より一年早く動けたのに」
もう一度咥え、ふーっと煙を上に向かって吐き出すと、ニコラはひねられた腕をおさえているエヴァを見遣った。
「なにぼさっとしてるんだ。早くやれ」
命じられたエヴァは明らかに混乱していた。
当惑の瞳でニコラを見つめ、「あ、アウレリオ様は、なんと……?」と小さく問いかける。答えはテオドロからもたらされた。
「アウレリオは先日の火事で死んでる。仕える主人はもういない」
「嘘だよエヴァ。アウレリオ様は生きているし、妹君に家を裏切るよう唆したこの若造に大層お怒りだ。ここで始末をつけなさい」
迷うエヴァに、テオドロはすばやく距離を詰めた。反射のように顔へ向けて蹴りを繰り出したエヴァの足を避けてその背中に回り、うなじに手刀を下す。それだけで、シスターの体は静かに床に崩れ落ちた。
ニコラはそれを、不愉快そうに見つめるだけだった。
「ニコラ。屋敷から手負いで脱出してここに潜み、ディーナを待ち伏せたのだろうが、無駄だ。この教会はもう軍の仲間が包囲してるし、そもそも彼女は来ない。けして」
エヴァの手首を、裂いたベールの端切れで拘束しているテオドロの視界の端に、ニコラがぴくりと手を震わせるのが映った。
「投降するか?」
深く、長いため息が、吐き出した煙とともに消えていく。
「……なるほど、ここまでなのか。フェルレッティも、私も」
カチャ、という音に、テオドロが顔を上げる。
ニコラの掲げる銃口は、まっすぐ自分に向いていた。
「ならせめて、昔の部下に息子との再会をお膳立てして、償いとしようかね」
引き金にかかった指に力がこもる。
――その瞬間、木製の床にジュっと音を立てて、煙草が落ちた。
次いでガンと不快な音とともに、銃が床へと落ちて滑った。
「……薬が、もう切れる頃だろう」
胸をおさえて青い顔でかがんだニコラをよそに、テオドロは立ち上がる。
外飼いを束ねる幹部は普段屋敷に寄りつかないため、一日で死ぬ毒を飲まされていない。
もっと長い時間をかけて蝕む薬を使われていた。
「幸い仲間はフェルレッティから押収した解毒薬も、延命のための毒薬も持って来ている。おまえが飲まされたものがサルダーリばりに長く苦しむものなら、命だけは助かるかもな」
テオドロは銃を拾うと、もがき、ベンチの間の床に伏したニコラには目もくれず、教会の出口へ向かった。
「一人で話すなんて言ったときは驚いたが、大丈夫だったのか」
突入する同僚たちと入れ違いに教会の外へ出てきたテオドロは、気遣うファビオに軽く頷いた。
「問題ない、相手は銃創も負ってた。……それより、前にも言った通り、」
「わかってる。奴はディーナ・トスカ嬢を本物のディーナ・フェルレッティだとまだ信じ込んでるんだろ? よっぽど姪の存在に執着してたんだな」
呆れ混じりの言葉の後を、沈黙が引き継いだ。家々の間を縫った潮の匂いが、二人の間を通り抜ける。
ファビオは、苦しげに眉根を寄せた。
「……テオドロ。彼女を助けられなかったのは、残念だったが」
「ファビオ」
励ます言葉を遮られても、同僚は気を悪くすることはなかった。
「……少し、休暇が欲しい」




